3. 契約書

ジリリリリ……


 6時間目の授業終了のベルが鳴って生徒たちは一斉に教室から出た。

 いつもは聞くと嬉しくなるはずのベルの音が、今のクララにはとても恐ろしかった。

 契約書を今日中に提出しなければならないのに、まだ出していないからだ。

 のんびりしていてはスターヴィリック先生がクララを見つけて、なぜ契約書を提出しないのかと聞いてくるだろう。そうなったらおしまいだ。

 今にも心臓が飛び出そうだった。


 クララは大急ぎで鞄をひっつかみ、ウェスト・エルの廊下を激走した。

 とにかく、スターヴィリック先生に見つかる前に家に帰らなくてはならない。

 今、何とか家に帰ったとしても、明日また先生に会うのだから意味はないのだが、このときのクララにはそんなことを考えている余裕はなかったのだ。

 クララはホールの階段を駆け下りた。

 もう少しでアプロンドル・バティモンから出ることができる!

 しかし、ちょうどその時、


「ミス・ブルック、ミス・ブルック!待ちたまえ!」


 お馴染みのスターヴィリック先生の声が聞こえた。

 一瞬、クララは聞こえないふりをして帰ろうと思った。

 だが、スターヴィリック先生は3段飛ばしくらいで階段を降りてきて、すぐにクララに追いついてしまった。

 クララは頭が真っ白になった。


「ちょっと話があるから、こっちに来てくれ。」


 こうなったらもう従うしかなかった。

スターヴィリック先生に続いて階段を引き返しながら、クララの脚はがくがくと震えていた。


 スターヴィリック先生はクララをウェスト・エルの最上階に連れて来た。

 ここには先生たちの専用の個室があるのだ。

 スターヴィリック先生の部屋に入って勧められた椅子に座りながら、クララはこれが全部、ディアブレーヴがよこした悪い夢なのではないかと思った。

 悲しいことに、いくら手や頬をつねっても、痛いだけだった。


「ミス・ブルック、君はどうしてここにいるのか分かっているね?」


 スターヴィリック先生は穏やかに言った。

 クララはうなずいた。いや、うなだれたといった方が正確かもしれない。制服のブラウスが汗でびっしょり濡れていた。


「クラス・ジョーヌの生徒たちの中で、契約書が出ていないのは君だけなんだ。ご両親に、話はしたかい?」


 スターヴィリック先生の口調は驚くほど優しかった。にもかかわらず、クララは突然泣きだしてしまった。

 一度泣き出したら止まらなかった。大粒の涙が何粒も頬を伝って制服のスカートに落ちた。


「ごめんなさい。私が悪いんです。退学にしてください。私なんかにはシャトー・カルーゼルに通う資格はないわ。まだパパに何にも話していないんです。」


クララはしゃくりあげながら言った。

 きっとスターヴィリック先生は今、あきれ返ってクララを見ているだろう。

 契約書を出さなければどうなるか分かっているのに、父親にシャトー・カルーゼルのことを秘密にするなんて、バカな女の子だと思っているだろう。

 そう思うと自分が恥ずかしくなった。今すぐここから逃げ出したかった。


 その時、大きくて温かい手がそっとクララの肩におかれた。

目の前に幾何学模様のようなものが描かれた奇妙なハンカチが差し出された。

見上げると、スターヴィリック先生がクララを見て優しく微笑んでいた。


「大丈夫だよ。契約書のことは心配しなくていい。今は、好きなだけ泣きなさい。そして、満足するまで泣いたら、君が心に溜め込んでいることを私に話してくれるかい?」


 クララは頷きながら、変な模様のハンカチに顔をうずめた。

クララが泣き止むまで、先生は何も言わずに背中を撫でてくれた。


 クララは泣き止むと、スターヴィリック先生に、全て話した。

 3ヶ月くらい前に母のジュリアが出ていったこと、スティーブンがクララを弁護士にしたいと望んでいること、話そうと思ってもどうしてもシャトー・カルーゼルのことを話せなかったことなどを、全部話した。


「そうか、そうか。君も大変だったんだね。もう安心しなさい。私はいつでも君の味方だからね。」


 スターヴィリック先生は今、机の向こう側ではなく、クララのとなりの椅子に座っていた。

 スターヴィリック先生の言葉を聞いて、クララは再び泣きだしてしまった。

 今度はほっとしたのと、スターヴィリック先生の優しさに何とも言えない安心感というか信頼感というかを感じたせいだった。

 思えば、ジュリアが出て行ってから、誰かに同情してもらったのはこれが初めてだった。


「いいかい、君はいつかお父さんに何もかも話さなければいけないよ。だけど、今は大丈夫だ。私が校長を説得して、君がシャトー・カルーゼルに通えるようにする。

 こういうことになったのは君だけじゃない。複雑な家の事情を抱えている生徒は何人もいるから、契約書は実はそれほど重要でもないのさ。

 地上の学校の方には私から、君が転校することになったという通告を送っておこう。今は何も気にせずに心の傷を癒しなさい。

 お母さんが出て行ってからたったの3ヶ月でこんなことになるなんて、君は自分で思っている以上にストレスを溜めていると思うんだ。

 何か私にできることがあれば何でも言ってくれ。できる限り協力するよ。」


 スターヴィリック先生はクララが完全に落ち着くまで部屋にいさせてくれた。

先生は、得体の知れない飲み物まで出してくれた。

本人は親切のつもりだったのだろうが、クララはさすがに手をつけなかった。

いくら思いやりがあっても、スターヴィリック先生はやはり変人だ。


 クララはすっきりした気分で家に帰った。

 だが、クララは、あの時慰めてくれたのがスターヴィリック先生ではなくスティーブンだったら、どんなに良かっただろうと思わずにはいられなかった。

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