2. ケンカ
シャトー・カルーゼルの中庭に出ると、外はもう夕暮れ時だった。橋の向こうの雲の大地は、ほんのりとピンク色になっている。
ザカリーとダグラスはもう寮に住んでいる。レーナは寮には入らないから、橋を渡るまで、二人は一緒に帰ることにした。
家に帰ることを思い出すのと同時に、あの契約書のことがクララの心に重くのしかかった。
あと2週間ほどで、あの契約書を提出しなければならないのだが、スティーブンにはまだシャトー・カルーゼルのことを話せていないのだ。
一度、スティーブンにシャトー・カルーゼルのことを黙っていたから、本当のことを言うのがますます難しくなってしまっている。
あのとき、正直に本当のことを言うべきだったと、今更のように後悔した。
ジュリアがいれば、こんなことを言うのはわけないことだった。
―だけど、ママはもういない
クララには頼れる人がいなかった。
クララは少し考えてから、新しい友達を頼ろうと思った。
レーナならきっと分かってくれるはずだ。
一緒に解決策を考えてくれるかもしれない。
「レーナ、あの契約書のこと、覚えてる?」
「もちろんよ。」
レーナはうなずいた。
「もうサインはもらった?」
「ええ。サインをもらうのにかなり苦労したのよ。まず、家に帰ったら、学校のことを聞かれたわ。私が今まで通っていた学校から電話がきたらしいの。
『お子さんが学校に来ていませんが、どうしたんですか?』って。
だから、正直にシャトー・カルーゼルのことを話したわ。
そしたら、最初はその存在自体、信じてもらえなかったの。学校をサボった言い訳だと思われたのよ。それで、シャトー・カルーゼルのことをすごく詳しく話して、スターヴィリック先生からもらったペンダントも見せたわ。それでやっと信じてもらえたの。
それから、シャトー・カルーゼルに通うか通わないかでまた議論になったわ。二人とも、私をシャトー・カルーゼルに行かせるのには反対だった。だけど、私が本当にフェレーヴェルになりたいんだって熱弁をふるって、フェレーヴェルがいかに大事な職業なのかも教えて、学校のカリキュラムや、雲の上の世界の安全性も全部説明したら、やっと分かってもらえた。」
レーナの話を聞いて、クララはすごくレーナのことを羨ましく思った。何はともあれ、レーナの両親は彼女をシャトー・カルーゼルに行かせてくれるのだ。
「じゃあ、もともと通ってた学校の方はどうしたの?」
「急に転校することになったって言ったわ。あながち噓でもないし。クララはどうなの?もうサインはもらった?」
「いいえ、まだなの。実はね、レーナ。私、まだパパにシャトー・カルーゼルのことを話していないの。パパは今も、私が地上の学校にいると思っているわ。」
「まだ話してない?!」
レーナの反応は、思ったよりも大きかった。
そのことに驚きつつ、クララはレーナに、昨日のことを全て話した。
「クララ。あなた、今すぐ家に帰って、お父さんにシャトー・カルーゼルのことを話すべきだわ。」
レーナの強い口調に、クララは少し腹が立った。こんなこと初めてだ。
「まだ『お試し期間』中じゃない。それに、反対されたらどうしたらいいの?」
「それより、これからどうするつもりなのよ?ずっと隠し通すつもりなの?違うでしょ?そんなの無理だって分かってるわよね?」
レーナは畳みかけるように言った。こんなのは、クララが知っているレーナではない。
一体どうしたというのだろう。
「だから、どうするべきか分からなくて、レーナに話したのよ。解決策を考えてくれるって信じてたから。」
レーナの言い方に腹が立っていたせいか、口調がきつくなってしまった。
「いい、クララ?両親には秘密を作っちゃダメよ。手遅れになる前に、シャトー・カルーゼルのことを言わなきゃ。」
上から目線なレーナの言い方に、クララは我慢ができなくなった。
「いい子ぶるのはやめて!じゃあ、あなたは一度も両親に隠し事をしたことがないっていうの?」
思わず怒鳴ってしまった。
レーナはそのことに対し、想像以上にショックを受けている。
見開いたハシバミ色の瞳は、驚いたことに涙で潤んでいた。
レーナはゆっくりと首を振った。
いつもなら、クララはすぐに、怒鳴ったことを謝っただろう。
しかし、クララは今、とても怒っていた。
同情してもらえると思っていた分、強い意見を言われたショックが大きかったのかもしれない。
「それに、あなたは間違っているわ。『両親』じゃなくて父親だけよ。だってママはさよならも言わずに出て行ったから!」
クララはそう言うと、愕然として立ち尽くすレーナをおいて走って帰った。
ロマンティックなピンク色の雲に、膝まで埋まりながら。
家に帰ると、もう随分遅い時間になっていた。にもかかわらず、スティーブンはまだ帰ってきていない。仕事が忙しいのだ。
スティーブンが家にいないことが、クララにとって、良かったのか、悪かったのかは分からない。クララはシャワーを浴びて、一人でありあわせの夕食を食べた。
もっとも、彼女は自分が何を食べたのかさえ、ろくに分かっていなかった。
クララの頭には、後悔と自責の念しかなかったのだ。
クララはレーナに怒鳴ってしまったことを、とてつもなく悔やんだ。
あんなに優しくて愛らしい友人を傷つけた自分が嫌いになった。
クララは、ベッドに入ってもちっとも眠れなかった。
今日も色々あって疲れているはずなのに。
ベッドで何度も寝返りを打ちながら、クララは明日、レーナに何と言って謝ろうか思案した。
今まで、友達に怒鳴ったことなど一度もなかったから、何と言えばいいのか、なかなか思いつかなかった。
何だか、シャトー・カルーゼルに行き始めてから、自分らしくないことばかりしている気がする。
自分の意志で物事を決めたり、父親に秘密を作ったり、ボールを投げて教室を悲惨な状態にしたり、罰則の代わりに訓練を受けたり、諦めかけていたことに挑戦したり……。
シャトー・カルーゼルというのは、そういう場所なのだろうか。今まで知らなかった自分を見つけられるような……
そこでクララは眠りに落ちた。きっとフェレーヴェルは今日も、現実を束の間だけ忘れさせてくれるような、楽しい夢を届けてくれることだろう。
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