第6話 汚名返上への一戦

 王平の陣を出た将平は、そのまま南山山頂の自陣に辿り着いた。

 しかし無事と言うわけではなかった。

 帰路、再び張郃軍の兵士らに見つかり、襲撃を受けたのだ。だが、将平は馬謖の身体が体得している武術でもって死に物狂いで戦い、血路を切り開いて彼らの追撃を振り切り、何とか山頂の自陣へ転がり込んだのであった。

 その時、鎧のあちこちは傷と返り血だらけで、将平――馬謖の頬にも血が滴る切り傷ができていた。


「よくぞご無事で」


 張休と李盛は、安堵して出迎えた。


「少しだが水をもらってきた。皆に飲ませてやってくれ」


 将平は、運んで来た沢山の竹筒、瓢箪ひょうたんを渡した。


「おお、これは。皆も喜ぶでしょう」

「して、王平殿とは?」

「しっかり話し合い、何度も確認をした。問題ない。あとはやるだけだ。勝負の時まで、皆を交代で休ませてやってくれ」

「はっ、では将軍も少しお休みになられてくだされ」

「そうだな」


 と、将平は頷いたが、すぐに脳裏を駆け抜けた言葉に口をつぐんだ。


 ――何か不安があれば、時には徹夜をして動作チェックをすることもあります。


 工場長の町山が言っていたことだ。

 将平は、星々がまたたく北の夜空を見つめると、そのまま二人に言った。


「いや、私はこのまま起きて敵軍の動向を注視していよう」

「え? しかし今、王平将軍の陣へ自ら行って戻って来たのです。かなり疲れもあると思うのですが」

「そうだが」


 と、二人を見た将平の眼は鋭く血が走り、


「戦は何があるかわからない。それに作戦決行の夜明けまではあと少し。ここで寝てもわずかに疲れが取れるだけで逆に身体の重さを感じるようになる。それよりは、今の緊張感を保っていた方が良い」


 将平の全身から異様な気が立ち上っていた。

 二人の副将は長年側近として従って来たが、このような馬謖を見るのは初めてだった。

 二人は思わず気圧され、無言で頷いて下がった。


「馬謖様はどうされたのだ」

「何やら人が変わったようだな」


 張休と李盛は歩きながら囁き合った。


 その馬謖ーー将平は北の麓がよく見えるところまで歩き、そこから闇夜の中で赤い点となってうごめく沢山の松明の火をじっと見ていた。

 張休と李盛の指示で、まだ夜襲を仕掛けるが如く見せかけており、張郃軍はそれに備えていた。

 将平は更に、その北西の彼方の闇へと目を向けた。


 ――頼みますよ、王平殿。


 そして、東の夜空が薄っすらと白み始めた。


 その時には、馬謖軍全軍はすでに準備ができていた。

 将平は、見える限りの兵士それぞれの顔を一人ずつ見回してから、口を開いた。


「皆、水が無い状況をこれまでよく耐えてくれた。だがそれもここまでだ。我らは今から麓の張郃軍を攻撃する。皆、心配はいらない。昨晩から皆に交代で夜襲を仕掛けるが如く音を出してもらっていたおかげで、今頃、麓の魏賊は一晩中の警戒で疲れ切っており、眠りこけている者も多数であろう。そこを攻撃すれば大打撃を与えられることは確実だ。更にもう一つの策も用意してある。我らは必ず勝てる。そして、勝った暁には存分に水を飲めるだけでなく、我ら漢が魏賊を征伐すると言う先帝陛下の悲願を成し遂げる第一歩を刻めるのだ」


 将平はそこまで言うと、一呼吸置いてから、


「皆、奮い立て!」


 と、静かだが力強く言い渡した。

 あらかじめ、兵士たちには絶対に大声は上げるなと厳命していた。なので、兵士たちは歓声こそ上げなかったが、各々満面に闘志を漲らせながら一斉に槍の穂先を天に突き上げた。


 だがその時、将平は突然、全身に震えを感じた。


 ――なんだ? こんな時に……くそっ、情けない! 俺は武将だぞ。


 将平は、ここまで来ても戦いを恐れる己の臆病さに自己嫌悪した。

 だが、


 ――うん? 違うぞ。恐くない。これから運命を逆転すると言う一戦なのに、全く恐怖が無い。


 自分でも不思議だった。昨晩王平の陣へ行って戻って来ることができたことで自信がついたのか、それともかなり馬謖と一体化しているからなのか、恐怖心が無かった。ではこの震えは何なのか?


 ――ああ、これが武者震いってやつか。


 将平は気付いた。

 自分でも、自然と闘志にたけっていたのだ。


 ――よし、行けるぞ、やれる。必ず歴史を変えてみせる。


 天が幸いしたのか、麓にはもやよどんでいるようであった。


「行くぞ!」


 将平は大声で命令を下した。

 全軍約八千人は三隊に分けてあった。その三隊が馬謖の下知の下、一斉に南山の斜面を駆け下った。

 将平も護衛兵を周囲に従えながらその真ん中を走っている。

 すぐに麓に辿り着き、青くなり始めた夜闇ともやの向こうに張郃軍が見えて来た。張郃軍は馬謖軍の動きを察知し、すでに応戦の陣形を整えていた。


「かかれっ、突撃!」


 将平は我を忘れて叫んだ。

 それに呼応して、全兵士たちが一斉に鬨の声を上げながら速度を上げ、もやを突き破って張郃軍に突撃した。

 

「敵襲、敵襲!」

「押し返せ!」


 張郃軍はすでに応戦態勢を整えていたとは言え、一晩中馬謖軍の動きに備えていた心身の疲労の為か、動きが鈍かった。


 馬謖軍の騎兵らが手槍を繰り出し、馬脚を躍らせて突っ込んで行くと敵兵は次々と倒れて行き、後から追いついて来た歩兵らが長槍で襲い掛かるとその穂先の餌食となった。

 精強無比で鳴る魏の張郃軍が、面白いように崩れて行く。


 しかし、本隊にいる総大将張郃は動じていなかった。


「焦る必要はない。馬謖軍は渇きにあえいでいたのですぐに力尽きよう。加えて我らの方が数は多い。中央には第五隊を援護に向かわせて更に厚みを増し、落ち着いて防御することに集中せよ。その間に第六隊、第七隊で左右に回り込み、両翼包囲をする」


 張郃は周囲に素早く応戦策を指示するや、馬上で手槍を一振りし、


「ついて来い、行くぞ!」


 と、自らも中央の援護に走った。


 張郃は中央の乱戦の中に躍り込むと、馬を乗り回して兵士たちを叱咤鼓舞し、また自ら前線に出て槍を振り回した。

 張郃が槍を振り回すと、その鋼の柄に馬謖軍兵士の身体は吹き飛ばされ、銀色の穂先からは大量の鮮血が飛び散った。

 この流石の武勇に引っ張られて張郃軍の兵士らは闘志を掻き立てられ、逆に馬謖軍の兵士は怖気づいてそれまで押しまくっていた勢いが落ちてしまった。

 魏が誇る歴戦の猛将の登場で、戦況は一変しようとしていた。


 ――なんて強さだ。


 遠くから見ていた将平は驚嘆した。同時に焦った。


 ――これはまずいぞ。計算外だった。このままでは逆転されてしまう。王平どの、まだか?


 将平は北西を見た。その彼方にも南山と同じような、しかし樹木がこんもりと茂った山があった。

 

「あれが張郃だ」

「なんて強さだ」


 馬謖軍の兵士らの間から悲鳴が上がり始めた。

 将平は咄嗟に大声を上げた。


「もう少し持ちこたえろ! 踏ん張れ! さすれば勝利は目前だ!」


 馬謖軍の兵士たちは健気にも「おおう!」と応えたが、その将平の声を、張郃はかなり離れたところにいたが聞き逃さずに目を光らせた。


「ほう、あれが馬謖か。よし、持ちこたえられるか自ら試してみるといい」


 張郃は不敵に笑い、馬謖兵たちを蹴散らしながら将平のところへ向かおうとした。


「将軍、後ろへ」


 周囲の護衛兵らが叫んだ。

 将平は馬を下がらせて行く。その前に、沢山の歩兵たちが駆けつけて来て張郃の接近を阻もうとした。


「どけい! 道を開けい!」


 張郃は目を怒らせて馬上から槍を繰り出す。


 その時、左右から悲鳴が上がった。


 張郃が指示した通り、馬謖軍の左右側面に張郃軍の別部隊が到着し、両翼から包囲攻撃を開始したのだ。


 ――まずい、まずい、まだか!


 熱くなっていた将平の背中に冷や汗が流れた。


「こらえろ、こらえろ、もう少しだ!」


 将平は声もかれんばかりに必死に叫ぶ。

 すると、待ちに待ったその時がやって来た。


 対峙する張郃軍の後方で火の手が上がると、次に衝撃音と砂塵が舞い上がり、悲鳴が響いた。


「奇襲だ! 後ろからやられた!」

「囲まれるぞ!」


 張郃軍の兵士らが喚いた。


「やった……今だ! 皆、王平殿の軍が敵の後方を襲っているぞ、こちらもかかれっ!」


 張郃軍の後方を襲ったのは王平の軍だった。


 王平はどうやって張郃軍の後方に出ることができたのか?

 昨晩、南山の馬謖軍が一晩中夜襲を仕掛けると見せかけて張郃軍の注意をひきつけていたが、それは張郃軍を疲れさせる為や将平が王平の陣へ行き帰りする為だけではなかった。


 この街亭の地は、盆地状になっている。

 張郃軍が陣を構えている平野部の周囲には、ぐるりと山が囲っており、張郃軍の向こう側にも山があるのだ。そして、ちょうど馬謖が布陣した南山と同じような高さの、その名も北山と言う山があった。しかも南山が樹々の少ない丘のようであるのに対し、北山は樹木がこんもりと茂っており、ちょうど王平軍一千程度が隠れるのには最適であった。


 張郃軍が馬謖軍の動きを注視しているその隙に、王平軍は密かに夜陰を縫って北西の山中を移動し、張郃軍の後方に当たるその北山に潜んだ。

 そして、夜明けに馬謖軍が張郃軍に総攻撃を仕掛けると同時、王平軍も北山から駆け下りて張郃軍の背後を襲って挟み撃ちにする。

 これが、将平が馬謖の頭脳と共に考え出した作戦であった。


 そして、これは見事に当たった。

 張郃軍は馬謖軍の動きにばかり気を配っており、王平軍の動きを察知できていなかった。

 王平軍は中央の激戦の間に北山から飛び出すと、疾風の速さで張郃軍の陣に後方から突入し、あちこちに火を放って焼き払い、その勢いのままに張郃軍の背後に突撃した。


 現代でもほぼ同じだが、古代の野戦においては敵の背後を攻撃するのが最も効果が高い。中でも相手がそれを全く予期できていない不意をついて騎馬突撃などができれば最高であり、上手く行けば一発で戦況を覆して勝利することも可能である。


 それがまさに今だった。

 王平軍が張郃軍の背後に突撃すると、張郃軍の後軍は一斉に倒れて行った。王平軍は更に彼らを踏み倒して張郃軍の奥深くまで突入し、縦横に斬り回した。

 あちらこちらで悲鳴が上がり、連続して響く衝撃音と共に鮮血と粉塵が舞い上がった。

 咄嗟に向きを変えて立ち向かう猛者たちもいたが、それでも不意打ちの動揺の為か脆くも突き殺されたりして、とてもまともに応戦できる状態ではなかった。


「おのれ、兵を隠していたか! 落ち着け、第四隊は背後を防げ!」


 張郃は馬首を返して怒号したが、王平軍はすでにその第四隊にも襲い掛かって崩し始めていた。


「駄目だ!」

「散れっ!」


 ついに恐れをなして逃げようとする兵士らまでで出て来た。一人が逃げると、他の者まで恐怖にかられて逃げ始めるのが集団心理である。

 張郃軍は一気に恐慌状態に陥り、もはや統制も取れなくなっていた。


「張郃軍の後方が崩れたぞ、今が機会だ、かかれ、かかれっ!」


 将平が無我夢中で絶叫すると、兵士らはそれに応えて勢いを盛り返し、逆襲に転じた。

 将平自身も、無意識に熱気が渦を巻く乱戦の中へと駆け出していた。


 逃げようとしていた敵兵の背に手槍を繰り出した。

 鈍い音と共に、肉を突き刺す衝撃が身体に伝わった。

 敵兵が血を吹いて倒れたのを見る。

 そこで将平は我に返った。


 ――あ、人を殺してしまった……。


 三国時代とは言え、戦争の最中であるとは言え、初めて人を殺した。昨晩王平の陣へ行って戻って来た際には、敵兵を槍で吹き飛ばしはしたが、とどめまでは刺していない。

 大地に突っ伏したまま、更に馬謖軍の兵士らに踏み倒されて泥と血に汚れて行く敵兵を見ながら、将平は呆然としていた。

 槍を握る手がやけに重く感じた。

 人の命を奪うことの重さなのか。


 ――だけど、これが戦争だ。やらなければ、やられる。


 将平は前を向いた。


 その頃、張郃の側近が張郃に大声で進言していた。


「両翼も襲われて動揺しております。もはや立て直すのは不可能かと。全滅する前に退きましょう!」


 王平は流石に戦慣れしていた。ある程度張郃軍の中央を混乱させることに成功したと見るや、少ない兵士の一部を割いて、馬謖軍の左右を襲っている張郃軍の別隊に向かわせたのだ。


 張郃は顔を真っ赤にして悔しがった。


「うむ、わかっておる。陛下より預かった大事な兵だ、仕方ない。撤退命令を出せ! 殿にはわしも出る!」


 張郃は悔しげな顔で槍を振って風を唸らせると、


「おのれ、馬謖め。口だけの生兵法ではなかったか。流石に諸葛亮の相談役と言うだけあるわ」


 と、馬謖のいるであろう方向を睨んだ。


 そして太陽が完全に東の空に上がった頃、運命の激戦は終わった。

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