第5話 起死回生への月下夜行

 将平は張休と李盛を呼び、心中の秘策を語ると、それを成功させるべく自ら山を下りて南西の王平の陣へ向かうことを告げた。

 二人は驚いて、


「そのようなことなら誰か使者を遣わせば良いだけかと思いますが」

「他のことならそれでいいだろう。だけどこれは今回の北伐が成功するかどうか、いやその前に、我々が生きるか死ぬかを左右する重要な作戦だ。だからこそ、私自ら出向いて王平どのに策を説明し、入念にゅうねんに連携を確認しなければならないんだ。それに、私は先日王平どのの意見を無視して今回の失敗を招いた。それについても謝りたい」


「ふむ」

「……俺は今まで知識と理屈だけで、実地で汗を流し泥にまみれていなかった」

「は?」

「いや、まあとにかく……すでに信を失っている王平どのに動いてもらう為にも、自ら出向かねば」

「わかりました、そこまでおっしゃるならば」


 張休は納得したが、李盛は逆に、初めて見せる疑心ぎしんの目を向けた。


「失礼ですが将軍……これを理由に一人だけ逃げるおつもりなどないでしょうな?」


 将平は驚いて目を丸くした。隣の張休は慌てて、


「李盛どの、無礼ですぞ」

「わかっております、申し訳ございませぬ。しかし今この状況では……」


 夜でもわかるほどに李盛の肌にはつやが無く、唇もかさかさに乾いている。

 将平は深くうなずいた。


「そう疑いたくなる気持ちはわかる。だけどそんなつもりは全くない。考えすらしなかった。俺を信じてほしい。王平どのに作戦を伝えたら、必ずすぐに戻って来る。生きていられたら、だが」


 将平ははっきりと言って、歴戦の軍人である李盛の鋭い目を、真っ直ぐに見つめた。

 李盛は将平の視線を受けて、口元を緩ませた。


「そうでございますな。申し訳ござりませんでした。では、我々は信じてここで待っておりましょう」

「しかし、この南山の周囲は張郃軍が隙なく包囲しております。王平どのの陣まで行けるでしょうか?」


 張休が当然の不安を口にした。


「そう、まずそこが問題だ。だけど一つ考えがある。まず、兵士らに物音などを立てさせて、これから山を下りて張郃ちょうこう軍に夜襲を仕掛けるように見せかけるんだ。もちろん実際には下山はしない。だけど、渇きに耐え切れずに動き出してしまったように見せかけるんだ。特に、主力がいる北側の麓を攻撃するように見せかけ、張郃軍の注意を北側に集める。その間に、俺は脱走兵の振りをして南側の山中を抜けて敵軍を突破し、迂回して王平どのの陣に向かう」

「おお、なるほど」


 張休と李盛は感心の声を上げた。


「そして王平どのに会って策を説明し、連携を確認したらすぐにまた戻って来る。この夜のうちにだ」

「なんと、一晩で?」

のぼれば戻りにくくなるだろう。それに、兵士らは皆渇きの限界が来ている。作戦決行はできるだけ急がなければ」

「なるほど、お覚悟、感服いたしました」


 張休、李盛の二人は両手を顔の前で組んだ。


「二人も大変だが宜しく頼む。俺が戻って来るまでの間、北に夜襲をしかけると見せかけて張郃軍の注意をそらし続けなければならないからな」

「なんの。それぐらいやってみせましょう」


 二人は、胸を叩いた。


 こうして、早速行動が開始された。

 張休、李盛の二人は、いきなり張郃軍を刺激しないよう、静かに兵士らと松明たいまつを動かし、これから北側の麓へ夜襲をしかけるかの如く見せかけた。


 その間に、一般兵に扮装ふんそうした将平が、護衛役数人の兵士と共に、密かに山を下りるべく南側へと向かった。一行の中には、この付近出身でこの山の中の道にも詳しい兵士を一人加えており、その兵士が先導する。

 



 一方、麓北側にいた張郃は、南山山頂に動き有りとの報告を受けると、幕舎から出て南山を注視した。


「ほう……馬謖軍が渇きに耐えかねたのか、ついに動くようだ。しかも狙いはこちらだ。速やかに備えをしろ」


 張郃は即座に判断し、部下たちに指示をした。


「しかし馬謖はやはり口だけの生兵法なのだな。あのように騒がしくすれば夜襲も気づかれてしまうだろうに」


 張郃は静かに笑った。

 幸運であった。将平ー馬謖は夜襲を仕掛けるように見せかけているだけなのだが、馬謖がすでに水源の無い南山山頂に陣取ると言う愚行をおかしているだけに、張郃は見せかけの夜襲も本当であると信じてしまったのだ。




 しかしその時、将平は全身を縛りつけるような恐怖に手足が硬直していた。

 張休と李盛が上手くやってくれているお陰で張郃軍の注意は北側に引き付けられており、南側の包囲が手薄になっているのがわかる。

 だが、つい一昨日、本物の戦場で経験した殺し合いの恐怖をまた体験するのかと思うと、将平の身体は馬上で固まったままだった。


 ――何をしてる! 動け!


 将平は心中で己を叱咤しったした。だが、意気に反してやはり身体は動かない。


 ――自分の手で戦況を動かすんだ! どうせこのままだと歴史通りに孔明に斬られるんだから。


 その時、ふっと知らない記憶が浮かんで来た。

 馬謖の記憶だった。

 まだ少年だった十代前半――荊州で文武の修練に励んでいた日々。


「軍事を語るからには武芸にも通じていなければ」


 そう言っては自邸の庭で剣を振り、下男を相手に槍の稽古に励んでいた。


「口先で兵を動かそうとしても駄目だ。将が率先して戦わねば、兵はついてこないからな」


 馬謖の稽古は朝から晩まで熱心に続いた。


 その記憶を思い出した後、不思議と将平の心からひるみが消え、身体の硬さが取れた。


 ――そう考えていた時もあったのか。そうだ、今がその時だよ、馬謖。


 将平の乾いた唇が動いた。

 「行くぞ」と、静かに周囲の兵士らに言い渡し、馬を歩かせた。


 麓付近まで辿り着くと、前方に野営地と、その周囲を巡回している少人数の一部隊が見えた。そこの半数以上が北側の方へ向かっていると見られ、野営地の中の兵士らはかなり少ないようであった。チャンスである。


 将平は木陰などに紛れながら、巡回の兵士らがいない方角へ向かい、そこから包囲をすり抜けようとした。だが、流石に物音を立てないのは難しく、すぐに気づかれてしまった。


「なんだ?」

「敵兵じゃないか? 逃がすな!」


 一部の巡回の兵士らが喚いた。


「違う、俺たちは逃げ出すんだ、見逃してくれ!」


 将平は咄嗟に叫ぶと兵士らのいない暗中へ馬を走らせた。


「そうは行くか、逃がさんぞ」


 見つけた兵士らは応援を呼びながら追いかけて来た。

 こう言う場合の為に、将平は護衛の兵の中に胡族式騎射の名人を選んであった。


「お任せを」


 彼は両腿だけでがっしりと馬の背を挟んで姿勢を安定させると、さっと振り返って後方へ向けて半弓を構え、素早く弦を引き絞って放した。夜闇を銀線が切り裂き、悲鳴が一つ響いた。彼は続けて次々に矢を放つと、その度に人が倒れる音や悲鳴が上がった。

これは後に欧州でパルティアンショットと呼ばれる、古今東西の遊牧騎馬民族たちが得意とした射法である。


 ――す、すげえええええ!


 将平はちらと振り返りながら、この時代の人間の戦闘能力に驚愕していた。

 だが、そんな将平の目の前にも、前方から数人の兵士が現れて喚声と共に殺到して来た。だが相手は歩兵、こっちは騎乗。


「やるぞ、馬謖!」


 恐怖はすでに乗り越えていた。将平は目を血走らせて吼えた。

 渾身の力で手槍を振ると、衝撃音と共に敵兵が吹っ飛んだ。再び走りながら手槍を下から上へと振り上げると、次に来た敵兵もまた倒れた。討ち取るまでは行かかなかったが、少し遅れて悲鳴が響いた。後ろの護衛の兵士らが止めを刺したらしい。


 遥か後方より、張郃軍の兵士らの大声が流れ聞こえて来た。


「もういい。本当に脱走兵らしいし、そうでなくてもどうせ少数だ。今は北側の方が大事なんだから放っておけ」


 そして、将平の前にもう敵兵は現れなかった。

 月光だけが雑木交じりの山中を照らしている。


 ――やった……やったぞ!


 将平は、自分でもよくわからない、全身を揺さぶる不思議な感情に震えていた。


 こうして、しばらくして将平は街亭の隘路あいろの王平の陣に辿り着いた。

 馬謖が来たと報告を受けると王平は非常に驚き、すぐに自らの幕舎へ迎え入れた。


「これは馬将軍、どうされました? 包囲されたのを見てどうしたものかと案じておりましたが、まさかここへ来られるとは」

「あの包囲を突破して来ました」


 将兵は言うと、差し出された床几しょうぎに崩れ落ちるように座った。疲労が一気に襲って来たのだ。


「なんと……それだけの人数で?」


 王平は更に驚いて、将平――馬謖の全身を上から下まで見た。

 将平は乱れた呼吸を整えると、


「少ない方が敵に見つかりにくいし、警戒も薄いでしょうし。その為にも、わざと北側の敵に夜襲を仕掛けるかのように見せかけてあります」

「ほう……」


 王平は、目をみはって将平を見た。

 感心したような表情をしていた。だが、すぐに眉を曇らせて、


「しかし、まさか一人だけ逃げて来たのではありますまいな?」

「それはない」


 将平はすぐに断言した。


「王平殿の意見を無視してこんな事態にまでした癖に大変申し訳ないのだが、王平殿の力を貸してもらいたくて自ら来ました」

「力を?」

「この苦境を打開する為の策を考えました。それの相談をしたいと思います」

「なんと……それなら使者でもよこせばよいものを」

「それでは駄目なのです。王平どのにも詫びたいし」

「え?」

「あの時は、王平どのの意見を無視したばかりか、失礼なことを言い、誠に申し訳ない。王平どのの意見を聞いていれば、このようなことにはならなかった。あの時の無礼、どうかおゆるし願いたい」


 将兵は床几から立ち上がって頭を下げた

 そんな将平――馬謖を見て、王平は信じられないと言うような表情をした。

 経験不足の癖に口先ばかりでどこか傲慢なこの男が、まるで人が変わったようである。

 王平は、ふっと微笑した。


「ふふ、そこまでせずともようござる。それがしは気にしてはございませぬ」

「それは……」

「それよりも、策とやらを早くお聞かせくだされ」

「ありがたい。では」


 と、将平は、胸中の策を王平に話した。

 聞き終えると、王平は感心して膝を打った。


「なるほど。それは良策かも知れませぬ。どのみちこのままでは負けるのは確実。是非やってみましょう」

「ああ、ありがたい」


 将平は喜び、更に與地図よちずを広げて詳細な部分を王平と話し合った。

 現代とは違い、ネットやスマホもなく、すぐに連絡が取れない時代である。連携戦術はちょっとしたタイミングの違いで失敗してしまう。将平は王平と何度も確認を行い、話をまとめた。


「一つ大変なのは、貴軍もこのまま明け方まで寝ずに動き、そのまま戦わなければならないことですが」


 最後に将平は申し訳なさそうに言ったが、王平は笑い飛ばした。


「何をおっしゃいますか。戦場で育ったようなこの私、寝ずの戦いなど何度も経験しております。我が部下たちも同様。それよりも馬将軍の方が大変では? またあの山頂へ戻らねばならないのですから」

「やらねばならぬことです」

「ふむ、では、もう少し水を飲んで行ってはいかがでしょう」


 そう言って、王平は部下に命じて水を持って来させた。

 この幕舎へ入った時、南山に水が無いのを知っている王平は、すぐに水を持って来させて将平へ飲ませた。

 再び目の前に運ばれて来た水差しと椀

 将平はじっと水差しを見つめると、王平に言った。


「王平どの、この水はあの山頂に無事に戻れたら飲ませていただきます。また、図々しい頼みですが、もっと水を頂戴してもよろしいでしょうか? わずかでも南山に持って帰り、兵士たちに少しでも飲ませてやりたい。今もあの山頂では、私の失策のせいで兵士たちが渇きに苦しんでいるのです」


 王平はまたも驚いたような表情で将平の顔を見ると、大きく頷き、部下たちに命じて水の手配をさせた。


「では王平殿、手筈てはず通り宜しくお願いします」


 将兵は陣外で馬に乗ると、見送りに来た王平に馬上から頭を下げた。


「ええ、将軍もお戻りの道中はくれぐれもお気をつけくだされ」

「もちろんです。では」


 と、将平は護衛兵らと共に再び夜闇の中へ駆け出した。

 将平らの背が見えなくなると、王平は不思議そうに呟いた。


「わずか数日で馬幼常は変わったな。まるで別人のようだ。口先だけの男ではなかったのだな。ふふ……今のあの男なら嫌いではない」


 王平は微笑したが、すぐに表情を引き締めて、


「さて、命を張ってここまで来た馬幼常の為に、我々も動かねばならぬ」

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