第4話 史実通りに水が無くなりました

 劉備はやや太り気味であったが身長が高く、威風堂々いふうどうどうとした風貌ふうぼうであった。にも関わらず優しい性質で慈悲深く、声は大きいのに喋り方は穏やかで、彼が一度ひとたび口を開けば自然と皆が黙って耳を傾ける不思議な魅力があった。


 だが、戦場ではその眼光も一変して人を刺すが如く鋭くなり、命令の音声おんじょうも雷鳴の如く響き渡る。その凄みと普段との違いがまた不思議な魅力を醸し、英雄とはまさにこれか、と思わせる威風があった。

 関羽、張飛のような抜山ばつざんの猛将、諸葛亮、法正などの蓋世がいせいの智将たちが命を賭して仕えたのも納得の希代きだいの大人物であった。


 そして、馬謖もそんな劉備に心酔しんすいしていた。

 だが、馬謖は、時々劉備が自分を冷ややかな目で見ていることに気付いていた。そして生来鋭敏な頭脳を持つ彼は、その視線の理由も察していた。


 ――陛下は私が口先だけの者だと見ている。


 察しただけでなく、劉備が実際にそう馬謖を評したと言う噂も聞いた。


「馬謖は確かに優秀ではあるが、経験が少ないのに言葉が過ぎることがある。"まだ"大事な局面では使えぬであろう」


 劉備を心底より慕っていただけに、馬謖はそれを聞いて涙をこぼすほどに悲しかった。

 

 ――いつか大功を立て、陛下に認められたい。


 そう前向きに考え、腐ることなく励んでいたが、その機会はないままに劉備は夷陵にて没する。


 馬謖はやり場のない複雑な気持ちを抱えたまま落ち込んでいたが、その後、幸運にも丞相の諸葛亮に目をかけられた。諸葛亮は劉備と違って馬謖を高く評価し、彼の策謀相談役にまで引き立てた。


 やっと正当に評価されたと喜んだ馬謖は、奮い立って己の仕事に邁進した。諸葛亮の南中平定戦では「人を攻めるよりも心を攻めて心服させるべき」と策を進言し、諸葛亮はそれを採用して南征を大成功させた。それにより諸葛亮は馬謖をますます評価して引き立てた。


 だがその一方、


「馬謖なぞ口先で策を語るだけの人間ではないか。戦場での武功が一切無い」


 との声がよく聞かれた。

 それはねたみから来るものではあったが、本当のことでもあった。馬謖は劉備の益州攻略戦に従軍し、一部隊を率いて戦場に出たことはあるもののわずか数戦であり、特筆すべき武功も挙げていなかった。


 ――ならば、そのうち戦場で一軍を率いて戦功を挙げ、皆を黙らせてやるぞ。


 馬謖は心の中で密かに誓い、その機会を待っていた。

 そして今回の第一次北伐、馬謖は諸葛亮によって街亭防衛の総大将に任命された。街亭は今回の北伐作戦全体の成否を左右する重要拠点ゆえに、幕営の諸将は勇猛果敢な魏延や百戦錬磨の呉懿を推した。だが、諸葛亮はそれらの声を押し切って馬謖を大抜擢した。


 これに馬謖は奮い立った。


 ――念願の戦場で武功を挙げる機会だ。言われた通りにただ街亭を守るだけでは足りない。ここで張郃軍を徹底的に撃破してやる。それだけでなく張郃を討ち取ることもできれば、とやかく言う連中も皆黙るだろう。もう口先だけの男とは言わせないぞ。


 街亭への行軍中、馬謖の手綱を握る手にも、自然と力が入った。




「なるほどね、そういうことか。馬謖もかわいそうだな……」


 一連の記憶を再生した将平は、やるせないため息をついた。

 現代で三国志演義を読んだ時には馬謖を馬鹿にしていたが、三国志演義には描かれていなかった彼の心底にあった想いに触れて、将平は馬謖に同情した。


 ――優秀なのは間違いなかったが、コンプレックスから功にはやって自滅してしまったわけか。


 ――だけどなあ、馬謖。戦争はやっぱり理屈や計算通りには行かないよ。


 昨日の一戦で、将平は恐怖と共に思い知った。


 ――しかも敵はベテランの張郃だ。だからこそ経験の少ないお前は孔明の指示に従い、経験豊富な王平の言うことも素直に聞かないと行けなかったんだ。……って、え?


 将平は、愕然とした。


 ――あの時の俺と全く同じじゃん。


 工場での経験がほとんど無いのに理屈と理想だけで製造工程の変更を主張し、経験豊富な工場長町山の反対を押し切ってその工程による注文を受けたが、結果として大失敗に終わったあの時。


 ――あの時の俺も、焦らずに町山さんや工場の人たちの忠告を素直に聞いておけば……。


 悔恨が、締め付けるように胸中に広がった。


 翌日も、街亭の戦況は変わらなかった。

 張郃軍にはこちらを攻撃して来る気配も無いが、布陣を変える気配も無い。油断も隙も見られず、見事な包囲体制を続けている。


 その張郃軍の本営で、総大将の張郃はじっと南山の山頂を見つめていた。

 かたわらの側近が言った。


「このまま包囲を続けるのですか。敵は高所にあるとは言え、兵数ではこちらが遥かに多い。一気に攻め滅ぼしてしまえば良いと思うのですが」


 対して、張郃は微笑した。


「それも良いが、孫子にある通り、追い詰められた敵と言うのは必死になって普段以上の力を出すことがある。こちらの勝利は間違いなかろうが、想定以上の損害を被る可能性も高い。あの山に水が無いことは密偵の報告でわかっている。このまま包囲していれば馬謖軍は水が尽きて自滅するであろう。或いは、焦って攻撃に出て来たところを袋叩きにする。そうすれば損害は最小限ですむ」

「なるほど」

「陛下より預かった大事な軍だ。兵士たちもなるべく死なせたくないからな」

「流石です」


 側近は、張郃の深謀と兵士たちへの思いやりに改めて感心した。


「ああ、そうだ。だが、今夜あたり、馬謖軍は水を求めて密かに一隊を麓に送って来るかも知れん。水源の辺りはわざと手薄にし、その周囲に兵を伏せておけ」


 張郃は、まるで何でもない雑用を言いつけるかのように、さらっと命じた。



 その夜、全軍の食事はいつもよりも少なかった。

 煮炊きに使う水を節約したからである。当然、配られた飲み水も非常に少ない。

 だが、もちろん兵士たちは納得ができず、あちこちから不平の声が上がった。

 それをなだめるべく、将平は外に出て、


「皆、すまないが我慢して欲しい。皆が少しずつ我慢すれば、その分明日、明後日までと飲める水が増えるのだ。そうして耐えている間に、反撃の機をうかがうのだ」


 と、自ら兵士たちに説いて回ったが、


「喉が渇いてたらいざとい言う時に戦えないよ」

「反撃って、倍以上の敵に包囲されてるのになあ」


 などと、兵士たちは明らかに馬謖を冷ややかな目で見て、静かに反発が広がったようであった。


「早くも、兵士たちの士気が落ちています」


 丸顔で髭の長い李盛が険しい顔をした。


「水はな……空腹より耐えられないもんな」


 将平は頭を抱えて、


「今ある水はあとどれぐらいもつんだ?」

「明日の夜を待たずになくなります」


 絶望感が押し寄せた。


「馬将軍、思い切って決死隊を選出し、夜闇にまぎれて麓まで水を汲みに行かせてはいかがでしょう?」


 張休が進言した。

 だが将平は首をひねり、


「上手く行くかな。水源の周りは敵の守りも堅いだろう」

「ところがです。先ほど斥候の報告によると、今ここの水場には敵兵がほとんどいないようです」


 と、張休は絵地図の一点を指した。


「ここは……周囲の地形が複雑で往来がしにくいところだな」

「はい、それ故に敵軍も我らがここを襲う可能性は低いと考え、兵を減らしているものと思われます」

「なるほど……其の無備を攻め、其の不意に出ず。兵法に適っている。やってみるか」


 こうして、敵も味方も寝静まったであろう夜半過ぎに、水を汲みに行く決死隊が出動した。


 だが、結果はあえなく失敗に終わる。


 水源の周りの防備は確かに手薄であったが、そのすぐ周囲に張郃軍の兵士たちが伏せていて、水を奪いに来た馬謖軍を一網打尽にしてしまったのだ。

 張郃は、ここの防備を手薄にしておけば、今晩には耐えきれずに水を奪いに来ると読んでいて、伏兵を置いていたのだった。


 将平はますます頭を悩ませた。


 ――確実に、歴史の通りになっている。このまま、俺は馬謖として街亭で負け、孔明に斬られてしまうのか。


 翌日になっても、やはり戦況は変わらない。

 張郃軍は変わらず一糸乱れぬ包囲陣を続けている。逆に、馬謖軍は早くも水が尽きて動揺が広がり、士気はどん底にまで落ちていた。


 ――どうすればいい、どうすればいいんだ。


 山頂から張郃軍の包囲を見つめながら、将平は必死に馬謖の頭脳を働かせて考えた。


 ――そう言えば、ネットでこんな展開の小説を読んだことあったな。過去にタイムスリップしたり異世界に行ったりするんだけど、現代の知識を活かして活躍する、みたいな。そんなうまく行くかよ、って笑ってたけど、俺もなんとかできないかな。


 馬謖の頭脳からは良い考えが出て来ないので、将平は自分の持っている二十一世紀の知識をフル活用させようとした。

 だが、


 ――駄目だ。無い水を作り出す知識なんてないし、現代人の俺が戦争慣れしている歴史上の人物が率いる倍以上の敵軍に勝つなんて無理だ。現代知識でどうこうとかそう上手く行くわけねえよ。


 将平は、渇きに喘ぐ兵士らが恨めしそうに自分を見る中、目を伏せて自分の幕舎に戻った。


 夕刻になり、赤いが西方の高い山間さんかんを黄色く染める頃。給仕係の兵士が食事を運んで来た。

 兵士が将平の前に出した膳には、焼いた干し肉と野菜の漬物が乗っていたが、主食となる麦飯は量が少なめで、しかも一目で硬めだとわかるものであった。

 水が枯渇している証拠である。

 だが、そのような食膳でも、運んで来た兵士は羨ましそうな目で見ていた。兵士の顔を見るとまだ非常に若いが、浅黒い顔には艶が無く乾ききっていた。


「食べているか?」


 将平は申し訳なさそうに訊いてみた。


「ええ。飯は」


 兵士は短く答えた。


「飯は……? あっ」


 将平は気づいた。兵士の羨ましそうな視線は、ぜんの上の食事ではなく、将平の傍らに置かれていた青銅の水差しに注がれていたのである。

 将平も、その水は渇きに耐えながら節約して飲んでいたのだが、総大将馬謖である将平ですらそうなのであるから、末端の兵士らはもっと渇きに苦しんでいることは違いない。


 将平は少し考えてから、


「名前は何と言う?」

羅憲らけんと申します」

羅憲らけんか。他の誰にも決して言わないと約束できるならば、今ここにある水を少し飲ませてあげよう。どうだ?」


 羅憲と言う若者は、暗かった顔を一瞬で明るくして、


「誠でございますか?」

「本当だ。だけど……だが、ここで水をもらったことを他の者に一言でも言ったならば、私はお前を斬る。言わないと誓えるか?」


 馬謖との一体化がかなり進んでいるのだろう。将平は、自然とこの時代の武将が言うようなことを言った。


「はい。誓いまする」


 羅憲は顔を強張こわばらせながら頷いた。


「よし」


 将平が自ら水差しから水を椀に汲んで羅憲に出してやると、羅憲は実に美味そうに飲み干し、何度も礼を言ってから幕舎を出て行った。

 その後ろ姿を見送った後、将平は空腹であったにも関わらず何故か目の前の食事を食べる気にならなかった。


 ――何とかしないと……何とか……。


 将平は、眼前の焼肉を食べる気にもならず、箸でつつきながら考え込んでいた。


 ――このままだと俺は史実通りに孔明に斬られる。だけど俺一人だけじゃない。俺、馬謖の判断ミスで万に近い兵士たち全員が死んでしまうんだ。


 途方もなく多い人命の重さが将平の心を圧していた。


 ――馬謖……気持ちはわかるけど、なんで孔明の指示通りにしなかったんだ。それに王平の言うことも聞いておけよ。


 将平は、心中で馬謖を罵ったが、すぐに白けたような気持ちになった。


 ――俺が言えたことじゃないけどな。同じような失敗しているし。あの時も、町山さんや工場の人たちの反対意見をもっと聞いておけばなあ。


 失敗直後はまだ自分の非を完全に受け入れられなかった将平であったが、時間が経ったからなのか、それとも千八百年前に飛ばされて馬謖として生き始めたからか、今では完全にあのことは自分の間違いだったと認めて後悔していた。


 ――さしずめ、町山さんが王平ってところかな。


 将平は自虐的に苦笑した。その時、脳裏に何かが電撃的に閃いた。


 ――王平……そうだ、王平だ! 俺は孤立無援じゃない。近くにはベテランの王平がいるんだ。


 将平は、幕舎の隅から與地図よちずを引っ張り出して机の上に広げると、松明たいまつ手繰たぐり寄せた。


 ――俺はここで張郃軍に完全包囲されているが、南西の街亭隘路には王平が布陣している。張郃は当然王平軍にも気を配っているだろうが、この王平軍を何とか活かせないかな?


 将平は、地図の隅から隅まで見回し、それこそ穴の開くほど見入いりながら思考をフル回転させた。


 ――王平は一千でこの隘路にいて……張郃軍は俺がいる南山を包囲している……うん? 南山? 南山と言う山があるならもしかして……。


 将平は、地図上に落としていた視線を、自分がいる南山から麓の平野部へ、そして更にその北へと移した。

 麓は盆地状の平野である。そして、ここが南山と言う名だけあって、平野を挟んだ北側にも似たような山があった。


 ――これだ!


 将平の頭脳に、電撃的に一つの策が閃いた。

 暗闇に一筋の光明が差し込んだようであった。


 ――早速、王平宛ての手紙を書いて誰か使者を向かわせよう。


 と、将平は文箱を取ったが、王平は字が読めないことを思い出した。

 更に、街亭に来て喧嘩に近い口論になったことも。

 将平は即座に決断した。


「俺が行く時だ」


 将平は立ち上がって剣をき、手槍を取ると幕舎を出た。

 机の上の焼肉と麦飯はほとんど減っていなかった。

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