第18話 動乱

「おい、さっさと起きろ! このボケ!」


 顔面に氷水をかけられ、肌を刺すような冷たさにモレットは跳ね起きた。ぶんぶんと首を振って居間を見回すと、サロアが仁王立ちで見下ろしていた。


「なになに⁉ ごめん! 特訓ならすぐに準備して——」

「それどころじゃねぇ、バカ! この音が聞こえねぇのか⁉」


 音? 

 モレットは一呼吸して、一度落ち着いた。すると耳をすませずとも、ドンドンという大きな音が、外から鳴っているのがわかった。

 これは、太鼓とかいう楽器の……。


 モレットは状況を理解して、短刀を掴んで立ち上がった。筋肉痛で力をいれづらいが、そんなことを気にしている場合ではない。サロアはすでに居間を出て、外へと向かっている。

 あの太鼓の音は、城下町に鬼が現れた時にも鳴っていた。きっと今回も同じだ。前回よりも、音の量が尋常じゃない気がするけれど。


 モレットも外に出ると、言葉を発することさえ忘れてしまうほど、町は大きく様変わりしていた。家屋が壊れ、人々が逃げ惑っている。自分の視界だけで、巨大な鬼が二体も暴れている。

 城下町のほうも黒煙が至る所から立ち昇っており、もっとたくさんの鬼の咆哮が聞こえてくる。


「……一体、何が起きてるの? こんなの……」


 人にどうにかできるのか?


「俺が知るか! だがボサッとしてる暇はねぇ。お前はゼン爺さんを探しに行け。昨日、スサクの所に出掛けてから、帰ってきてねぇんだ。もう手遅れかもしれねぇが」

「サロアはどうするの⁉」


 鬼のほうに走っていく彼の背中に向かって、モレットは叫んだ。


「俺は片っ端からあいつらの相手をする。元々、それがこの国に来た理由だしな!」


 いくらなんでも無茶だ。武士も騎士も周りにはいない。おそらく、城下町のほうで手一杯なのだ。向こうは、こちらよりも町民の数が多い。それに何より、二陽城にはこの国の長である、御将様がいる。


「サロア、僕も手伝ったほうが——」

「行け! 師匠の命令だぞ!」


 モレットは奥歯を噛み締め、サロアとは反対方向に駆けた。逃げる人たちの群れを掻い潜って、城下町へと急いだ。


 まずは、スサクさんのお店に行ってみよう。運がよければ、武士か騎士に保護されているだろう。

 そういえばイサネは? 彼女のことだから、無事だとは思うけど……。


 モレットは城下町への入り口、路地の迷路に辿り着くと、少し迷ってから家々の屋根を上っていった。祭りの日の一度きりしか通っていないから、道はほとんど覚えていない。屋根を走っていくのが、一番確実だ。

 太鼓の音がうるさくて仕方ない。が、それがこの国の危機を端的に表していた。





  ***


 城下町は混乱に陥っていた。武士も騎士も、鬼の相手をしながら、民衆の避難経路を確保している。鬼が同時多発的に出現してすぐ、御将様の進言によって二陽城周壁内の広場が避難場所として開放されたことで、武士と騎士の負担はかなり減ったが、それでも城下町にいる人の数と鬼の数を考慮すると、とても手が足りなかった。まだ武士見習いという身のイサネにさえ、国内での金棒の所持権限が与えられ、駆り出される事態となっていた。

 昨日、久々にリョウと手合わせた身体は、体力が戻りきっていなかった。ゼンキチとの確執から気を紛らわせるのには最適だったが、今となっては後悔だ。

 しかしリョウやアイジロウが汗水を流しながら、傷を負いながら、何体もの鬼から町の人たちを守っている場面を目にすると、到底弱気になっている場合ではなかった。診療所の中は、とくにひどい状況だ。

 リョウの指示で、イサネは負傷者を抱えては、二陽城広場に設置された仮設診療所に運びこんでいた。床はすでに歩けないほど人々で埋め尽くされ、その人たちの呻き声や子どもの泣き声で、部屋は充満していた。医師や看護師は無言で、ただ目の前の負傷者を素早く手当てしていっている。

 この人たちは皆、つい先日の祭りでは笑い合っていたのだ。

 そう思うとイサネの心はどうしようもなく、怒りと悲しみに震えた。


「イサネちゃん! すまないが、こっちを手伝ってくれ! 一本角ともう一体、見たことのない化け物が来ている! おそらく使イ魔というやつだ!」


 リョウの声が診療所まで飛んできて、イサネは瞬時に身体を動かした。


「悪いけど、あっちの使イ魔を遠くへ誘導してほしいんだ。私もこっちの一本角を倒したら、すぐに援護に向かう」


 リョウが指差したほうを見て、イサネは金棒を構える。確かに、三メートル近い一本角と、それより遥かに小柄な、獣のような黒い使イ魔が、家々を破壊しながらこちらへ近づいていた。


 鬼じゃない使イ魔まで……一体どうなってるの?


 イサネは金棒を構えると、地面を力強く蹴った。

 大きく振りかぶった一撃は躱される。しかし路地裏に逃げ込んでくれたおかげで、二陽城から遠ざけることには成功した。それに壁や屋根、足場が増えた狭い場所は、イサネの得意とする戦場だ。

 使イ魔の爪を、壁を蹴って避ける。そして身体を回転させながら、金棒を振り抜いた。軽々と飛んだ使イ魔は、壁にぶち当たって倒れた。

 弱い。動きは俊敏だが、一本角やドスカフ村に現れた使イ魔のような、めちゃくちゃな腕力はない。

 こいつらは一体なんなのだろう。ヒノキでこんな種類の使イ魔は、一度も見たことがない。リョウやアイジロウだって、初めて見るようだった。武士たちは今、凄まじい適応力で対処しているのだ。

 一体、この国で今何が起きているのか。


 モレットたちは大丈夫かな? サロアが近くにいるなら、問題はないだろうけど——

 ふっと、黒い影がイサネの周囲一帯を覆う。咄嗟に頭上を見上げると、巨大な一本角が拳を振り上げていた。


 しまった。さらにもう一体いた!


 右も左も家の壁に囲まれた、狭い路地。さっきまで有利に働いてくれていた場所が一変して、イサネを窮地に陥れた。


 どこにも逃げられない……。


 大人さえ簡単に握り潰せるほどの大きな拳が、両側の家を破壊しながら迫ってくる。

 しかし突然、一本角の拳の方向が変わった。横の家屋が砕け、ばらばらと木片が散る。イサネはその衝撃波に飛ばされながらも、金棒で顔を守り、受け身をとった。


「無事か、イサネ!」


 すぐさま起き上がったイサネの前に、黒髪を束ねた武士が降り立った。鬼の拳を薙ぎ払ってくれたのは……。


「ミツ兄!」


 伸びてきた手を握ると、力強くイサネを引き立たせてくれた。その間にもヨシミツの後方から、何十人もの武士が現れて、たちまちに一本角を倒してしまった。


「遅くなってすまない。怪我はないか?」

「私は大丈夫。私は大丈夫だけど……」


 イサネの瞳に涙が滲む。兄に助けられて、緊張の糸が切れてしまった。


「診療所が……診療所が、もういっぱいで……だけど鬼は止まらないし……武士も町の人たちも、みんなが……」


 ハァハァと息を洩らしながら、イサネは言葉を振り絞った。

 ヨシミツがそっと、彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫だ。ヒノキの人間は、そんなにヤワじゃない。それに一時間もすれば、全部終わっているさ。……俺がさせる」


 ヨシミツの言葉には、不思議な力があった。彼に言われると、根拠もないのに安心できた。

 幼い時から引っ張っていってくれた、兄の声だからなのかもしれない。


「ヨシミツ!」


 リョウが駆けてきて、ヨシミツの横に並んだ。すでに身体中、傷だらけだ。


「リョウか。アイジロウはどこにいる?」

「わからない。きっと私らと同じように、どこかでこの事態に応対しているんだろう」

「そうか……。俺はアイジロウを探しつつ、外町のほうを回る。リョウはイサネと——」

「いや、こっちは人手が足りてる。あんたが、イサネちゃんを連れて行きな」

「え?」


 イサネは思わず声を洩らして、リョウを見つめた。

 彼女がヨシミツの指示に意見したのは初めてだった。ローレンスの騎士と違って、武士に上下関係はない。御将様が最上位であり、その命令だけが、武士にとって絶対だからだ。けれどもイサネの兄は武士の中でも腕っぷしが強く、常に冷静で、自然と皆のまとめ役のような存在となって慕われていた。

 それに、人手が足りているなど大嘘だ。今の城下町のどこをどう見ても、武士の力を必要としない場所などありはしない。

 ヨシミツだってそんなことはわかっているだろう。そんな嘘が、通用するはずがない。

 リョウの言動は明らかにおかしかった。

 だがヨシミツは、


「……すまない」


 と、それ以上何も言わなかった。


「イサネ、俺と一緒に来い。鬼どもを殲滅するぞ」

「ちょ、ちょっと待って! ねぇ、ミツ兄!」


 ヨシミツが金棒を背負い、踵を返した。

 ぐんぐんと先を行く兄の背中を、イサネは全力で追った。


「私たちも城下町を守ったほうがいいんじゃないの? リョウさんも様子がヘンだったよ! ねぇ、ミツ兄ってば! 気づいてたでしょ!」


 しつこいぐらいに話しかけ続けると、ヨシミツはようやく足を止めてくれた。おもむろに、横顔をこちらに見せる。


「外町にも複数体の使イ魔が目撃されているんだ。もちろん鬼もな。あっちに比べれば、城下町はまだ武士の数が多い。ヒノキの民の命を、天秤にかけるようなことはしない。それに、リョウなら大丈夫だ。あいつは俺に、時間をくれただけだ」

「時間? 時間って、なんの——!」


 イサネは再度訊ねようとしたが、言葉を詰まらせた。

 外町にも、複数の鬼と使イ魔がいる?


「そんな……」

「親父は家にいるんだろ? 一度、会わないとな」


 そう言ったヨシミツの目は、悲しげに細くなった。イサネも急に、ゼンキチのことが心配になる。モレットたちと違って、ゼンキチは家にいることが多い。だからあまり、心配はしていなかったのだが。


「ゼン爺……」


 祭りの日以来、まともに話していない。もしかしたら……。


「親父と何かあったのか?」


 イサネの表情の変化は、すぐにヨシミツに見抜かれた。なんでもないように、笑顔を取り繕ってはぐらかそうとしたが、


「お前は、後ろめたいことがあると顔を伏せる」

「え⁉ そ、そうなの⁉」


 イサネは咄嗟に、頬を両手で包んだ。冷静に指摘されて、もう隠すことをできなくなった。


「嘘だ。カマをかけてみたんだ。すまないな」

「なにそれ⁉ ひどい!」


 顔を赤くして睨みつけると、ヨシミツはなぜか笑みを浮かべた。


「すまないと言った。お前は……心に素直だからな。俺や親父にはない、お前の魅力だ」


 そんなことを言われたのは初めてだった。イサネの顔が、また赤くなる。


「聞かせてくれないか? おそらくだが、親父が酒にでも酔って失言したんだろう?」


 いつにも増して優しい口調で言われると、イサネにはもう祭りの日の帰り道のことを、打ち明けるしかなかった。


「……やはり、そういうわけだったか」


 途中、口を挟むこともなく聞き終えたヨシミツは、静かにそう呟いた。


「俺が言うのもなんだが、親父はホントに口下手だな」

「口下手? そんな話じゃないと思うけど。ゼン爺にとって私は……家族じゃないんだよ……」


 涙が頬をつたう。口にしたい言葉ではなかった。口にすることで、自分でも認めてしまう気がした。血が繋がっていないという事実に、負けてしまいそうだ……。

 ヨシミツの大きくて鍛えられた手が、イサネの頭にそっと乗っかる。嗚咽まで洩れだしてしまって、まるで子どもの頃、転んで怪我をして慰められたあの日のように、時間が戻ったみたいだった。

 顔を上げると、ヨシミツは微笑んでいた。


「『センベエ伝』で、なぜ先の御将様はセンベエを、王妃を救う武士の隊に加えなかったと思う?」


 急になんだろう。鬼に大切な人を攫われた鍛冶師の、昔話なんて……。

 疑問に思いながらも、イサネは途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「それは、センベエが弱かったからでしょ? 強い武士を、御将様は集めていたから……」


 ヨシミツは短く、首を振った。


「御将様は、娘の大事な人間を死なせたくなかったんだと、俺は思ってる」

「センベエを? 危険から遠ざけるために……?」

「ああ、そうだ。結果的に、センベエに一人で、シキ様を助けに行かせることになってしまうが……」


 ヨシミツは遠くを眺めると、一度息を吐いてから続けた。


「きっと、親父もそうなんだよ。お前をなるべく、この国の危険から遠ざけたいんだ。きっと、俺のこともな。だから理由はなんでもいいから、お前に旅をさせようとしているんだよ」

「そんなの勝手じゃん! 私は——」

「わかっている。親父は、お前の心を無視しているよな。許せとは言わないが、せめて、わかってやれ。親父も俺も、お前を家族じゃないなんて思っていない」


 ずるい。そんな風に言われたら、言い返せないじゃん。


 でも……と、イサネは着物の袖で涙を拭った。

 次会ったら、今度はちゃんと話し合えるかもしれない。


「少し休憩が長くなったな。さぁ、行くぞ。今は、目の前の敵に専念しないとな。雨も降ってきそうだ」


 言われて、イサネは空を見上げた。つい数時間前まで晴れていたのに、今では重たい雲が空に広がっていた。

 ヨシミツが再び駆けだして、イサネもそのあとに倣う。


 だがその矢先、イサネの心を再度揺るがす信じられない情報が、耳に飛び込んできた。

 一人の武士が近づいてきて、大声でヨシミツの名前を叫んだ。


「ヨシミツ! 二陽城に侵入者だ! もう拘束したんだが……」

「侵入者? 一体どこのどいつだ! 騎士か!」

「違う! お前の親父さんだ!」


 イサネは目を大きくして、ヨシミツと顔を合わせる。兄も珍しく動揺して、驚きを隠せずにいた。

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