第4話 モレットの弱さ
日も暮れて周囲が闇に染まりだした頃、ようやくモレットは境内へと帰り着いた。
サロアの目がなかったから、途中歩いてしまおうかと、もっと休憩をとってしまおうかと悪い考えが浮かんだけれど、その度にモレットはブンブンと頭を振って、誘惑に抗った。これも含めて、サロアの特訓なのかもしれないと思ったし、尚更、この誘惑に負けてしまえば、強くなれない気がした。
おかげでヒノキに着いた時にはもう足を動かしている感覚はなく、自分で身体を制御できなかった。朽ちた社の横を通り、ふらふらと数歩進んだところで、とうとう地面に四つん這いになった。
ゼェゼェとなる息を整えようとするがうまくいかない。まるでずっと膨らんでいるみたいに胸が痛かった。
「遅かったじゃねぇか。朝方走りだして……ゼン爺さんの夕食前か。まぁその気力は認めて、一応体力は合格点としてやる」
いつからそこにいたのか、汗だくの顔を上げると、サロアが石畳の上で胡坐をかいて座っていた。モレットは呼吸と呼吸の合間に、必死に声を絞りだした。
「死んじゃう、死んじゃうよ……。こんなの、毎日はヤバいって。これ死んじゃうよ……」
「死ぬか、ボケ」
サロアは冷たく一蹴すると、モレットの手元に水の入った
これほど水に感謝したことはない。
その場に座り、落ち着いて話せるぐらいには生き返った。
「はぁ……疲れた。もう足がガクガクだよ。身体中怠いし……早く汗を流して眠りたい」
「何言ってんだ、お前は。今日の特訓はまだ終わってねぇぞ。今から腕立てと腹筋と屈伸運動だ。それぞれ百回ずつな」
「……え?」
顔を上げたモレットは、
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ⁉」
おそらく十三年の人生で、これだけの大声を出したのは初めてだった。
まだ続けるのか。もう体力は限界を超えているぞ。とくに足なんて、座ってても震えてるのに……無理だ。
「死んじゃう、死んじゃうって……。死んじゃうよ……」
「死ぬか、ボケ。いいからさっさとやれ。全部やり終わってバテても、まぁ……肩ぐらいは貸してやる」
珍しく、サロアにしては優しい言葉だったが、残念ながら今のモレットには一切伝わることはなかった。指示されたことをやるために、モレットは思考するのをやめて、無心となった。
それからのこと……特訓が全て終わってからの、モレットのその日の時間は恐ろしく短かった。ゼンキチの家へ帰り、居間からイサネが見慣れない着物姿で出迎えて、
「あ、モレット。今日は鍋だよ。ほら、ドスカフ村でマーフィーさんが出してくれた、コウラウサギのやつ。あれ美味しかったからゼン爺と作ってみたんだけど……大丈夫? なんだか今にも死にそうだけど」
「あぁ、イサネ。その服、素敵だね。僕は、今日はもう眠るよ……」
「あ、ありがとう。……おやすみ~」
微かに会話を交わしたことは覚えているが、それだけしか覚えていなかった。
とりあえず、ゼンキチとの仲が悪くなさそうで安心した。イサネから昨日の話をすることはないだろうし、ゼンキチのほうは覚えてすらいないかもしれないため、当然といえば当然なのだけれど。
そのあと、モレットの後ろにいたサロアが途端に何かにとり憑かれたように、バタバタと居間へ駆け込んだ。
「良い匂いがすると思ったら、おほぉ~! 今日も美味そうなメシだぁ!」
居間から聞こえてくる談笑と襖一枚だけ挟み、汗を流し終えたモレットは布団の上に倒れると、ほぼ同時に気を失った。
そして次の日も、モレットは朝早くに起こされた。身体中ひどい筋肉痛で、またヒノキからローレンスまで走らされるのかと思うと、泣きたくなるほど嫌だったが、結局拒むこともできず、追い立てられるようにゼンキチの家を出た。
「それじゃあ今日は、この俺様が直々に相手をしてやる。決まりは一つ、俺に尾を使わせることができれば、お前の勝ちだ」
「え⁉ 走り込みじゃないの⁉」
「ああ、走り込みはまた明日だ。今日は対人戦で、武器の使い方を学んでもらう」
朗報だった。明日は明日で嫌だが、少し心が軽くなった。
特訓の内容について真面目に考えてくれるようになったのかもしれない。
「じゃあまずは……そうだな。お前、武器はその短刀しか持ってねぇのか? 背嚢貸せ」
モレットが渡すよりも先に、サロアがそれを奪いとる。本当に、こういうところはつくづく荒い。
「ん? おっ、鉈も持ってんじゃねぇか。こいつも使えるな」
「それは駄目だよ。動物を仕留めるように、爺ちゃんから渡されたんだから」
「お前なぁ……」
サロアが呆れたような顔でため息を吐いた。
「喧嘩じゃあ使えるモンは全部使うんだよ。それにこれ、狩猟用って言ったが、一度ぐらい使ったのか?」
「……いや、使わずに済んでたから……」
「運のいい奴だな。まぁいい、勝手にしろ。説明は苦手だから、さっさと始めるぞ」
サロアが立ち上がって、森の中へと入る。モレットは何も言わず、あとに従った。
運のいい奴。ホントにその通りだ。
だけど、これからもそれが続くとは限らない……。
「一つ言い忘れてたが、俺の武器はこいつだけだから安心しろ」
そう言ってサロアが懐から出したのは一本の剣で、モレットには何が安心なのかさっぱりわからなかった。
「こいつはこんな鉄色をしてるが、一応
「ぼ、木剣? それが?」
たしかに綺麗な刃をしているわけではないが、見た目はどう見てもただの剣だ。
「金棒と同じ、
サロアに睨まれた。と思ったら、もう間合いを詰められていた。慌てて短刀を抜き、サロアの振る木剣を止めた。
重い! やっぱり普通の木剣じゃない!
連撃に圧され、モレットは反撃する間もなく後退する。
受け身では駄目だ。こちらからも攻撃しなければ。
短刀を構え地面を蹴る。サロアに攻撃する様子はない。直感的に、自分は今試されているのだと感じた。
サロアに向かって、短刀を振り下ろすが——
「お前、俺をナメてんのか」
強烈な水平斬りを受けて、短刀が払い飛ばされた。手、いや腕までビリビリと衝撃が走る。そして次の瞬間にはサロアの左拳が頬にめり込み、モレットはゴロゴロと転がっていった。
「攻撃するときに、一瞬短刀がブレていた。まだ振り慣れてないから、剣線が歪むのは仕方ねぇが、お前の場合はそれだけじゃねぇ」
立ち上がろうとするモレットの掌が、サロアの右足に踏まれる。続けて木剣を首筋に当てられ、無理矢理顎を上げさせられた。
「サツキと喧嘩した時もそうだった。……お前、自分で気づいてるのか知らねぇが、攻撃するのを躊躇ってるな」
サロアの鋭い眼光に、モレットはまるで心を射抜かれたようだった。
「なんで躊躇う。答えろ。その答え次第で、これから先の特訓はナシだ」
なんで……? モレットは理由を考えた。
いや、違う。本当は、自分でもわかっている。本当は……選ぶ言葉を考えているだけだ。
しかし結局、サロアを納得させられる説明など、思いつかなかった。
「あ、相手に怪我させるのが怖くて……たぶんそれで、無意識に迷ってしまったんだと……思う……」
言っていて、自分でも情けない言葉だと思った。
モレットは地面に跪いて頭を垂れる。やがて見えていたサロアの足先が、視界から消えた。
終わりだ。せっかく、受け入れてもらったのに……。
失意に呑まれ、自分の甘さに嫌になって、モレットはぎゅっと目を瞑った。すると——
ザクッと音がしてモレットは目を開ける。
顔のすぐ横に、短刀が突き刺さっていた。
「もう一度だ。さっさと立て」
モレットは顔を上げ、目を大きくしてサロアを見た。
「え? 終わりじゃないの?」
「その甘さは苛々するほどムカつくし、正直、一発ぶん殴って全部投げだしてぇが……ルカビエル様に頼まれたからな。よくよく考えれば、俺の独断で中止するわけにはいかねぇんだ」
サロアは、まるで言い訳するみたいにモレットから顔を逸らして、頭を掻いた。
……それに、たぶんお前は間違ってない。
サロアが踵を返し、その背中から小さく発された言葉は、しかしモレットの耳に届くことはなかった。
「だが、もしまた躊躇するようなことをしたら、今度こそ中止だ。そのときはもう、ルカビエル様に怒られても構わねぇ。いいか。俺様がお前の攻撃を食らうことはないし、仮に、万が一にもその短剣が俺様に当たるようなことがあっても、尻尾でぶっ飛ばしてやる。だから遠慮なくかかってこい」
サロアが元の位置に戻り、木剣を構え直す。モレットも立ちあがって、短刀を掴んだ。みなまで聞かずとも、彼の優しさが伝わった……気がしたのだが——
「俺も、もう手加減しねぇからな。本気でやらねぇと死ぬぜ」
またしても、瞬時に間合いを詰められる。サロアの攻撃はさらに重さを増し、短刀で防いでいると、いずれ折れてしまいそうだった。
見ろ! よく見るんだ、サロアの木剣を!
木剣が迫ってくるたびに閉じそうになる目を頑張って見開き、モレットは短刀で受けるのではなく、避け始めた。
「おぉ。だが、それじゃあまだまだだ」
途端に、モレットの右足に痛みが走る。蹴られたのだ。腕ばかり見ていたせいで、木剣以外の動きに気づけなかった。
体勢が崩れ、胸ぐらを掴まれたモレットは、地面に引き倒された。
くそぉ、強い……。
「敵と相対した瞬間から、常にその敵の全身を視界に入れるよう、心がけろ。使イ魔みたいなバカデカい奴はまた別だが、人間相手だとやられる確率を低くできる」
やっぱり、サロアは優しい……。
モレットは土を握り締めて、再び立ち上がった。
わかった気がする。少なくとも今この場では、迷うことも躊躇うことも、サロアに対して失礼でしかないんだ。
サロアは僕を強くしようと、真正面から見てくれているのだから。
「もう一度……お願いします!」
サロアの鋭い牙がちらりと見えた。
森の中に何十何百と、本気の剣がぶつかり合う音が響く。
初めての感情だ。自分でもわからないけれど。
さらにひどくなる筋肉痛に短刀が握れなくなっても、何度攻撃をくらっても、モレットはずっと、こうして戦っていたかった。
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