第15話 別れ

 怒涛の一夜が明け、モレットたちは虹の湖を訪れていた。

 まだ少し眠たい気持ちを我慢してここへ来たのには、ある理由があった。イサネやシエラ、ローグも一緒で、トレースの原住民たちもいる。モレットは自分の隣にいる、アーススに顔を向けた。

 彼女の目は潤んでいた。村を追い出されてから、二年ぶりの場所なのだそうだ。


「アーススさん、よければ皆さまと一緒に、ローレンスに来られませんか? 住まいを提供してあげられます。いえ、させてください」


 七色に変わりゆく湖を眺めながら、シエラが口を開いた。誰かが話を切りださなければ、永遠に誰も、言葉を発することはなかっただろう。

 王女様の視察ということで、観光客の立ち入りを禁止している現在の湖は、昨日訪れた時とうって変わり、静寂が周囲を満たしていた。

 時折跳ねる、魚の音でさえ聞こえてくる。


「ありがとうございます。ですが、ここが私たちの居場所ですから」


 車椅子に座っているアーススが、自分の胸に手を当てて答えた。


「アーススさん……」


 シエラが哀しげな目で、身体中に包帯を巻いた、弱弱しい老婆を見つめる。


 アーススさんは、この村で死を迎えたいんだ……。




 昨日、メイスたちを捕縛してから、アーススたち原住民の人々はトレースの診療所へと移送された。

 彼女らの治療が無事終わると、すでに全てを知ったシエラは、額を地面にすりつけて、謝罪を繰り返した。


「シエラ様、頭をお上げください。そのようなことは——」

「ローグ! これは私たちの罪でしょう!」


 悵然たる一言の直後、ローグはシエラの背後に回り、さらにそこにいた騎士たちも一斉に膝をついて、頭を下げた。

 モレットとイサネは、その光景にただただ圧倒されるばかりだった。ボロボロの身体で、治療の手伝いをして感じていた疲労も、どこかへ飛んでしまうほどに。

 しかしシエラのあるまじき行動には、騎士たちの犯した罪のこと以外にも、べつの想いが含まれていた。一緒に治療を手伝っていたモレットも、医者の言葉が耳に入って知っていた。

 アーススの身体は、重い病に侵されていた。アーススは否定していたが、呼吸をするだけでも肺に痛みが走っているはずだと、医者は言っていた。




 シエラやローグに対して、恨みつらみを吐くこともせず、ただ虹の湖を眺め続ける老婆を、モレットは見つめ続ける。視線を感じたのか、ふいに目と目が合った。

 アーススは目を細くして、優しく笑う。


「この湖のほとりには、かつて一体の石像が奉ってありました」


 彼女がそっと、まるで思い出を一歩一歩踏み締めるように、モレットたちにではなく自分に言い聞かせるように、過去を語り始めた——。



  ***


 この湖のほとりには、かつて一体の石像が奉ってあった。村と湖を守る、守り神だった。

 アーススは、トレースの村長だったハサンの妻として村人たちに慕われていて、時にはハサンに代わり、村のみんなをまとめることもあった。

 村には、ある決まりがあった。決まりといっても、厳しいものではない。ただ毎朝、村の守り神に祈るというものだ。

 騎士たちに村が開発されるまで、虹の湖のほとりには、小さな竜の子どもの石像が奉られていた。つるつるの頭には二本の角がたち、背中には可愛らしい翼が生えた、村の人たちから見ても不思議な石像だった。

 虹色の湖がまだ虹色ではなかった時代に俺の祖先が作ったのだと、いつの頃か、ハサンが教えてくれた。この村を守ってくれるよう、そう祈りを込めて、作られたのだと。実際、何度も不思議な力で村を救ってきたらしい、と。

 けれどそんなことを言われても、アーススは半信半疑だった。今思えば、ハサンでさえそうだったのだと思う。寝過ごして、朝の祈りをしない日もあったのを、アーススは思い出していた。


 けれどある時、トレースの村の人々は、石像のもつ力を目の当たりにする。それは、まだ忌人との戦争が続いていた、二十年以上も前のことだ。

 村を囲っていた林が、戦の飛び火で燃やされたことがあった。それも見たことのない、黒色の炎だった。いくら水をかけても消えることはなく、次第に林全体へと広がっていった。火を消すために尽力していたハサンたちも、一時村へと非難することになった。

 このままでは、いずれ村にも被害が及ぶ。火が回る前に外へ出るべきだと、ハサンが主張した直後、それは起こった。

 村の出入口にまるで見えない境界でもあるように、黒炎が村を避けて広がっていったのだ。村の中にも木はあるのに一向に燃え移らない。アーススも含め、みんなが困惑していた。そこへ、村人の一人が大声を出して駆けてきた。

 みんな、こっちに来てくれ、と。

 湖のほとりにある石像が、光を放っていたのだ。とてもまばゆいのに穏やかで温かく、じっと見つめていても目が痛むことはない、優しい光だった。

 黒炎が自然に消えるまで、アーススはハサンと、村人たちと奇跡を喜び合った。

 それ以来、トレースの村人たちにとって、湖の石像は本当の守り神となった――。


 アーススたちが守ってあげられなかった石像……。騎士たちに破壊され、強制的に村を追い出されたあの日以来、ずっと心に残っていたしこり。


 ごめんなさいね。今まで、ありがとうございました。

 さようなら……。


 ようやく、謝ることができた。ようやく別れを告げることができた。




 朝の肌寒い風に包まれて、イサネが身震いする。それを見たアーススは、すっきりとした表情でシエラに言った。


「朝は冷えますね。そろそろ行きましょうか」


 一同が湖を離れようとした時、ふと何を思ったのか、モレットがその場にしゃがみ込んだ。自分たちが住んでいた時には生えていなかった芝生の先端を、さらさらと撫でている。

 不思議な子だ、とアーススは思う。イサネと違って大人しいが、そのうちには確かな芯を持っている。

 メイスと戦っていたモレットの姿が、今も脳裏に焼きついていた。

 まったく力のない者が悪人に立ち向かうためには、力のある者が立ち向かうときのそれとは、比べ物にならないほどの勇気が必要だ。

 そして、モレットは底抜けに優しい。昨日は一晩中、シエラ様や診療所の医師と一緒に、村の皆の看病をしてくれた。イサネが眠りに就いたあとも、真剣に目を見開いて、傷薬を塗っては包帯を巻いて私たちを労わってくれた。自分も、傷だらけだというのに……。


 アーススは知っていた。えてして、こういう子は苦労するものだと。


 しかし、アーススは知っている。

 こういう子が人を救えるのだということも。



  ***


 練所に戻ると、すでにシエラの馬車が用意されてあった。昨日はいなかったヒレウマもいて、元気に草を食べては、もぞもぞと身体を動かしていた。退屈なのだろう。早く歩きたいのか、はたまた泳ぎたいのか、腰や脚部の側面に折り畳んでいるヒレを広げては、パタパタしている。


「シエラ様、私の願いを聞いて下さり、ありがとうございました」


 アーススが深々と頭を下げた。シエラは「いえ……」と一度首を振り、


「しかし本当によいのですか? 一緒にローレンスへ来られませんか?」と言った。


「先ほども言いましたが、ここが私の居場所なので」

「ではせめて、あなた方の家を、この村に建てさせてください。アーススさんがなんと言おうと、これだけは譲れません」


 シエラの純黒の瞳は、アーススに拒否することを許さなかった。

 了承するのを渋っていたアーススだったが、ついに根負けして、再び頭を下げた。


「ありがとうございます。このご恩は、必ずいつか返します」

「お気になさらないでください。元々、あなた方をこの村から追い出したのは私たちなのですから。それと……フィノちゃんについても、本当に良かったのですか?」


 馬車の中で、すやすやと眠っている女の子に顔を向けた。


「え⁉」と、イサネが驚きの声をあげる。


「フィノ⁉ もしかして連れて行くの⁉ そんなの独りになっちゃうじゃん!」


 モレットも同感だった。二人して抗議の姿勢を見せ、アーススに詰め寄った。

 村の人たちを、あれだけ助けようとしていたのだ。離れ離れになるなんて、フィノは悲しむに決まっている。


「大丈夫。今日の朝早く、ちゃんと話し合ったから。今そこにいるのも、その子が自分で乗り込んだからよ」

「だけど……」

「確かに、最初はごねたけれどね……。でも人は環境が変わっても、適応して生きていけるものだから」


 重い言葉だった。アーススに言われると、何も返せなくなる。


「ごめんなさい。意地が悪かったわね」


アーススがフフッと笑って、遠くを見るようにモレットたちから顔を逸らした。


「それに、フィノは独りではありません。三年前、サツキという少年と共に彷徨い歩いているところを、私たちが発見したのです」


 フィノは、トレースの村人じゃなかったのか……。それじゃあ二人は、なんでこの場所に根付いたのだろう? 

 三年前というと、アーススさんたちはとっくに村を追い出されているから、あの林の中で一緒に暮らしていたことになる。それに一年前には、メイスたちの圧政が始まったはずだ。離れる選択肢もないほど、アーススさんたちが大事になっていたのか。


「サツキは……おそらくローレンスにいると思います。このままでは私たち全員が離れ離れになると考え、騎士を倒して出ていったのです。今頃きっと、命懸けで盗みを働いていることでしょう」

「騎士たちに渡すための金品を……ですか」


 シエラが渋い顔をする。アーススは頷いて、続けた。


「フィノにもサツキのことを頼んでいますが、もし道中見つけることがありましたら、その時はよろしくお願いします。騎士を傷つけ、旅立ったあの子は、自分の命を見ていません」

「それは、あなたでなければ止められない気がしますが……。その子は、私や騎士を恨んでいることでしょう」

「フィノがいれば大丈夫です。フィノであれば、必ずサツキを止められます」


 アーススの言葉からは、フィノに対する強い信用が感じられた。


「それにやはり……ローレンスで暮らしていくほうが、二人のためになります。ちゃんと勉強して、いろんなことを経験して、どうか幸せの道を見つけてほしい……」


 ゆっくりと放つアーススの言葉は、優しく慈愛に溢れていた。


「もし行き違いになって、サツキがこちらへ戻ってきた時には、私のほうから全てを話し、ローレンスへ戻るよう言って聞かせますので」


 最後にもう一度頭を下げるアーススを見て、まるで二人の母親みたいだ……とモレットは思った。




 話が終わってアーススたちが診療所へと戻り、モレットたちも練所を離れようとすると、


「よければ、あなた方も乗っていきなさい。ローレンスに寄るのでしょう? オールの花について、お父様に訊いてみると約束もしましたし」


 シエラの口から思いもしない提案が飛んできた。


「シエラ様の馬車にですか⁉」


 イサネはすでに目を輝かせているが、モレットは躊躇った。王女様の馬車に、ただの平民が乗っていいものなのか? ヒレウマに乗っているジュノーも、煙たそうにこっちを睨んでいる。


「ですが……僕はいろいろと問題を起こしてしまいましたし……」

「人の好意は、ありがたく受け取るものですよ」


 シエラが凛とした表情で言う。モレットには、王女様の申し出を断る方法など、到底思いつけなかった。


 これは無理だなぁ……。


 数分前のアーススのように、モレットも折れてしまった。




 みんな乗り込むと、馬車が静かに動き始めた。一度だけ幼い頃に、クレアシ村の中をちょっとだけ乗せてもらったことがあるが、その時は振動がすごくて、すぐにお尻が痛くなった。しかし王女様の馬車は見た目も豪華だが中身も特別なのか、全く振動を感じなかった。穏やかで、居心地がいい。

 向かいには、イサネとローグが並んで座っていた。フィノはイサネの膝に頭を乗せて、未だ静かな寝息を立てている。振動がないことも相まって、五人のいる馬車の中は静かだった。気を抜くと、自分も眠ってしまいそうだ。

 けれどモレットは未だに、二人に気兼ねなく話しかけるようなことはできなかった。シエラは言うまでもなく、美しいローレンスの王女様だし、ローグは林で対立した一件があってから、気まずさを感じていた。


「モレット……大丈夫?」


 だから、こんな時にイサネがいてくれると心底ホッとした。


「え? 大丈夫って、何が?」

「元気ないみたいだから……。モレットが気にすることないよ」


 なんのことを言っているのかわからず、モレットは首を傾げた。しかしすぐに、シエラの後方、馬車を引くヒレウマの上から、自分を見ている視線のことを言っているのだと気づいた。ジュノーだ。

 視線はずっと感じていたが、気にしないようにしていた。理由はわかっている。いまだにモレットを怪しんでいるのだ。

 シエラの近くにいるから、というのも理由だろうが、やはり面白くない。ジュノーの顔を見ていると、どうしても投げ飛ばされた時のことを思い出してしまう。

 すると急に、ローグが後ろにある帳を閉めて、ジュノーとの間に壁を作った。


「私を信用していないとは心外だな」


 ローグの大きな声はいかにもわざとらしくて、シエラとイサネがくすっと笑った。つられて、モレットも微笑を浮かべる。

「大丈夫だよ……ありがとう」、と二人に頭を下げた。

 イサネは照れ隠しするように腕を組んで、ふふんと得意気に鼻で笑う。すると何か思い出したように、「あっ」と声を出した。


「そういえば、さっき湖の所でしゃがんでた時、何を見てたの?」

「え? ああ、あれは……なんでもないよ」


 えぇ~、と納得のいっていない表情のイサネを無視して、モレットは再度、窓の外に目を向けた。

 レンガ造りの赤い家々が建ち並び、お洒落な屋台にはたくさんの人が集まっている。


 あの家に住んでいるのは、屋台や雑貨屋で働いている、ローレンスから派遣されてきた人たちなんだよな。

 それに湖を囲む芝生は、人工的なものだった。最初、湖へ行った時に僕が抱いた違和感の正体は、あれだったんだ。あの自然の中で唯一手を加えられていた場所だから……。



「わぁ! 素敵な町ね。ねぇ、早く虹の湖を見に行きましょうよ!」


 腕を組んだ若い男女が笑い合って、モレットたちを乗せる馬車とすれ違っていった。

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