第13話 恐怖に打ち勝て!

 筋骨隆々とした身体に、赤褐色の鎧。聞き覚えのある声に、見覚えのある横顔……。

 アーススの寝床ですでに気絶しているセプターを、笑いながら蹴り続ける男の正体に信じられず、モレットは呆然として動けなかった。


 そんな、なんで……メイスさんが……。


 横にいるイサネと、顔を見合わせる。その表情には怒りも悲しみもなく、ただただ驚き、困惑していた。


「もうやめてよっ!」


 思考が止まりかけたモレットを引き戻したのは、フィノの声だ。メイスを止めるために、彼の足にしがみついたのだ。


「邪魔だ、くそガキ!」


 メイスはそれを容赦なく振り払い、細い腕を掴み上げると、そばに生えている木に投げつけた。

 地面に倒れたフィノは身体を丸くして、苦しそうに咳き込んだ。


「お前は大事な商品になるんだ。大人しくしてろよ」


「あいつ……!」


 直後、モレットの隣にいたイサネが飛び出していった。


「メイス‼」


 名前を呼ばれたメイスはビクリとなり、まるで小動物が肉食動物の気配を感じて振り返るようだった。けれどすぐにそこにいるのがイサネだとわかると、安心したように笑みを洩らした。


「なんだ、お嬢ちゃんかよ。驚いたじゃねぇか」

「あんた騎士でしょ? 何してるの?」


 対してイサネは、その目と声に怒りを宿していた。金棒を構え、すでに臨戦態勢だ。


「知られたんなら、しょうがねぇな。随分やる気みたいだが……でもまぁ、今ならまだ殺しはしねぇぞ」

「は? なに言ってんの?」

「俺に従いな。そこのガキと一緒に、商品として売ってやる」


 イサネは身体を震わせ、「ふざけんな!」と金棒を振り上げる。

 メイスも剣を抜いて応対し、耳を刺すような金属音が林の中に鳴り響いた。


 どうする? 僕はどうすればいい?


 出ていったところで、到底勝ち目はないだろう。相手は自分よりも遥かに大きな大人だ。けれど、もはやフィノだけを連れて逃げるわけにはいかない。


 イサネを援護しないと……。


 短刀に触れる手が震えている。喜々として、人に暴力を振るえる人間を目にしたのは初めてだった。悪意をもって人に向かって剣を振り、腕や足を折るような人間を……。

 ローグはつくづく、優しかったのだと悟った。迫力も恐怖もあったが、彼女の鉄杖からは殺意は感じられなかった。いたずらに傷つけるようなことはされないだろうと、確信していた。

 ローグと対峙した時とは全くべつの恐怖が、モレットの身体をぎりぎりと締め付けていた。


 不協和音みたいに鳴り続けていた音が、最後に大きな音を立ててやんだ。イサネの金棒が、メイスの豪腕な剣術に吹き飛ばされたのだ。決して軽くはないのに、金棒はくるくると回って、枝葉の茂っている木の中へと消えた。


「終わりだな」


 イサネの体勢が崩れたその隙を突いて、メイスが彼女の首を掴み握り締めた。木に押しつけ、片手でイサネの身体を地面から浮かせた。

 イサネは首を絞めている腕に爪を立てて抵抗するが、メイスは痛む素振りも見せず、締める力を強めた。イサネが声になっていない呻き声をあげる。


「その人を離してよ!」


 メイスの後ろにいたフィノが、どこからか拾った木の枝を振り回して、立ち向かっていく。しかしそれもカンカンと鎧を鳴らすばかりで、メイスには効くわけもなかった。


「うるせぇガキだな……」


 メイスはフィノを見下ろし、その身体を足で蹴り飛ばした。

 それでもなお、フィノはまだ立ち上がろうとしている。お腹を押さえながら、痛みに顔を歪めながら、二倍以上背丈の違う男に、立ち向かおうとしている。


 何をしているんだ、僕は……。


 このままではみんなやられてしまうというのに、手の震えを止められない。身体が動かない。


 命の危険も覚悟して、旅に出たはずなのに……僕は、どうして……。


 顔を下げたその時、ふと、そばに落ちている巾着袋が視界に入った。イサネが飛び出す直前に、懐から零れたのだろう。

 その小袋の口を縛っている紐が少し緩み、そこからカミヨリの葉とアンの実が、ちらりと見えた。マーフィーから貰ったものだ。

 モレットの頭に、ドスカフ村での出来事が蘇る。使イ魔が襲ってきて、ワジルを助けようとして、でも助けられずに、結局ルカビエルに命を救われた。

それでもあの時、マーフィーは……。


『あんたたちは村を、ワジルを守ってくれたから』


 記憶の欠片が電撃となって、頭から身体にかけて迸る。ほとんど反射的に、モレットは短刀の柄を、ぎゅっと握り締めた。


 違う! 僕は誰も助けられなかった! あの時助けたのは、イサネとルカビエルさんだ!

 そして今だって……。

 僕は、なんの覚悟もできていなかった。優しい村で育って、ドスカフ村でも優しい人たちに出会って、世界は優しいものなんだと、勝手に思い込んでいた。

 この場所で起きた戦争の歴史だって、知っているくせに。ローグのように優しい人もいるけれど、騎士は人を傷つける職業に違いはないのに。

 僕はとっくに知っていたのに……。



「その手を離せ、メイス!」


 モレットは短刀を両手で構え、メイスの背中に叫んだ。手の震えはまだ収まっていない。

 それでも、もう構いはしなかった。


「なんだ、お前までいたのか」


 メイスは、半ば呆れた顔でため息を吐いた。


「まぁいいか、ガキは高く売れるしな。何人いてもいい」


 モレットを見下すその表情に、最初に出会った頃のような陽気さはなかった。

 一度深呼吸し、乱雑に斬りかかる。が、当然メイスは一切焦ることもなく、右手の剣で簡単にあしらわれた。大して力も入れてないだろうに、モレットにとってはずっしりと重たい一撃だった。体勢を崩し、よろよろと後退する。さらにすぐさま、メイスの丸太のような足が飛んできて――

 モレットは咄嗟に、両腕を交差させて受けた。


「嬢ちゃん共々、ずっと隠れてりゃあ、安全だったのによ」


 モレットはゴロゴロと転がって、寝床の柱にぶつかった。腕がじんじんと痛い。折れたんじゃないかと錯覚するほどだ。


「これでも……」


 モレットがなんとか立ち上がった時、メイスの向こうでイサネが言葉を発した。モレットに気を取られたおかげで、イサネの首を締めていた腕の力が緩んだらしい。


「これでも、厳しい武士たちに育てられてきたんだ、舐めるな!」


 イサネが、思いきり足を蹴り上げた。それは油断していたメイスの顎に直撃し、さらにその勢いを生かしたまま、イサネは身体をくるりと反転させる。そこから木の幹に足を着地させると、地面と平行になった状態で幹を蹴った。

 そしてメイスの背後に舞い降りては、一歩、二歩と跳躍し、モレットの隣へと逃れた。

 ゲホゲホと首をさすりながら、イサネが礼を口にした。


「ありがとう、モレット。ちょっと遅かったけど」

「うん……ごめん」

「まだ動ける?」


 メイスを見据えたまま訊ねてくるイサネの目は、まだ絶望も観念もしていなかった。

 強いな……と、モレットは自分と背丈の変わらない女の子の横顔を見つめる。


「考えがあるの。あいつを、なんとかあの木の下に誘い出して」


 そう言ってイサネは、メイスの右側にある一本の木を指差した。


「あの木? 一体何が――!」


 そういうことかとモレットが察した時には、イサネはもう駆けだしていた。


「このガキ!」


 眉間に皺を寄せて剣を振るうメイスを軽々と躱し、イサネはフィノの手を取ると、彼女を連れて林の奥へと消えた。

 それを追おうとするメイスに向かって、モレットが短刀の鞘を投げつける。しかしまたしても、剣であっけなく弾かれてしまった。


「ちっ、逃げることを選んだか。だが、わかってるぜ。ガキを置いて必ずまた、ここに戻ってくるってなぁ」


 メイスがモレットを振り向き、不敵に笑う。


「ほかの村人も助けるんだろう。お前もそのうちの一人だ、モレット。お前はあの嬢ちゃんより弱いもんなぁ。とくに俺みたいな強者を前にすると、自分が惨めで仕方ねぇだろう」


 わかってる。僕が弱いことは、僕が一番よくわかってる。イサネよりも、メイスよりも、遥かに弱い臆病者だ。だけど……。


「お前は決して、強くなんかない!」


 身体中の血流が速くなる。今まで堰き止めていたものが、怒りが、溢れだしてきた。


「人を傷つけて喜ぶ人は、強者じゃない。一番弱い人間だ‼」


 もはや、メイスに対して恐怖は消えていた。手の震えも、いつの間にか止まっている。

 モレットが、メイスに立ち向かった。

 短刀の一閃を避けられると、左の拳で顔を殴られた。続けて腹を蹴られ、モレットはまたも簡単に飛ばされる。


 息ができない……けど、こんなの痛くない!


 モレットは四つん這いになりながらも、少しずつ移動する。怯え逃げている獲物を追い込むのが楽しいのか、メイスは愉悦の表情に顔を歪め、距離を詰めてきた。

 何度殴られようが、何度蹴られようが、モレットは地面を這い続けた。

 メイスの目には情けなく映っているのかもしれない。惨めに映っているのかもしれない。


 だけど……ようやく、


「終わりだ、メイス」


 血の混じったしゃがれ声で、モレットは告げる。

 メイスが頭上を見上げると、空には金棒を振りかざしたイサネが。

 使イ魔を地に倒した時と同じ方法だ。ドスカフ村の時ほどの高低差はないが、その威力はすでに見て知っている。



 イサネの振り下ろした金棒が、瞬時に対応してくる剣をへし折って、メイスの頭へと直撃した。

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