第5話 黒翼の忌人
扉を開けると、外は大変な騒ぎになっていた。この酒場の下で、見たこともない巨大な黒い生物が、大木にガリガリと爪を立てていた。
首がなく、筋肉質な胴体の上部に、赤い目と口がついている。確かに五メートルはないが、それでも充分大きい。三メートルはゆうに超えている。
これが……使イ魔……。
初めて目にする異形の存在に、モレットは戦慄する。
「ワジルっ!」
「あ、あぶねぇよ、ママ! 降りちゃ駄目だ! 階段だって、すでに半分崩れてんだぜ!」
階段を降りようとするマーフィーを、さっきまでお店にいた人たちが必死に止めている。彼女の視線の先に目を向けると、一人の男の子が大木の枝にしがみついていた。
きっと、この店に避難しようとしてる途中で階段を壊されたんだ。それで慌てて、枝のほうに乗り移ったんだろう。でもあれじゃあ身動きがとれない。折れることはないだろうけど、このままじゃいずれ落ちてしまう。
「おい、あれ!」
皆があたふたとしていると、客の一人が上を指差した。
突然、大木の上から女の子が降ってきたのだ。
この村の人たちが着ているのと同じ緑色の服に、首元まで伸びた雪のように真っ白な髪が目立つ。
女の子は軽々と枝を伝って降りながら、その背中に負っている、布が巻かれた棒状の物を両手で掴んだ。そして……。
思いきり振り下ろされたそれは使イ魔の頭に直撃して、女の子は使イ魔と一緒に地面に転がった。
「うおぉぉぉ!」
「すげぇ! ちょっと前まで店にいた女の子だろ!」
す、すごい……。そうだ、僕だって武器を持ってるんだ。短刀だけど……いや、あいつと戦わなくても、ほかにできることがある! こんなところで臆していたら、この先旅を続けることなんて到底できない!
モレットは決心すると、階段から大木の枝へと飛び移った。そして女の子がやったように、同じ要領で下へと降りていく。
急げ、急げ! 使イ魔がまだ倒れているうちに、ワジルくんを助けるんだ! 木登りは小さい頃から散々やった。得意のはずだろ!
枝の上を走って、幹の凹凸に上手く足を引っかけながら、モレットはどうにか子どものいる枝先まで到達した。
「ワ、ワジルくん、もう大丈夫だから、僕の手を掴んで」
がんばって笑顔を向けて、モレットは彼のほうへ右手を伸ばした。しかしワジルは怯えているせいか、一向に手を掴んでくれない。
モレットは困り、どうすればいいのか頭を働かせた。そしてふいに、あの男の顔を思い出した。
「僕は、モレットって言うんだ。君に危害を加えるつもりはないから、必ず助けるから、安心して……ほしい」
頼む、手を出してくれ!
モレットは必死に手を伸ばす。早くここから移動しなければ、使イ魔がまた襲ってくるかもしれない。
モレットの想いが届いたのか、ようやくワジルが手を掴んでくれた。
力を振り絞って、なんとかこちらまで引き寄せる。
よかった、どこも怪我してないみたいだ。あのルカビエルって人のおかげで、助かった。
名前を教えることで、相手に安心感を与えられるようだ。
いや、まだ助かったとは言えない。早くここから動かないと。枝の上はさすがに不安定だ。
ワジルの手を握り、大木の幹のほうへ走りだした矢先、大きな揺れが二人を襲った。
起き上がった使イ魔が、怒りに任せて大木を殴ったのだ。
「うわっ、やば……」
必死に平衡を保とうとしたがモレットの足は儚くも虚しく、空を踏む。
まさに急転直下。頭から地面へと落ちていく中、モレットはせめてもと、ワジルを胸に抱いた。
ふと、走馬灯が頭を駆け抜ける。
クレアシ村の人たち、爺ちゃんと婆ちゃん、ベッドで眠っている母——その首筋にある、黒い痣——
地面が眼前に迫り、モレットは死を確信した。
ごめん、ワジルくん。僕は君を――。
「やぁ、またお会いしましたね。臙脂色の少年」
聞き覚えのある声。
とてつもない速さで迫っていた地面が、今はゆっくりと近づいてくる。そして身体に触れる、柔らかい土の感触。
気づけば、モレットは地面に横たわっていた。
視線を空に向けると、眼前に広がるのは漆黒の、四枚の大きな翼。
たくさんの羽根がゆらゆらと、右へ左へと舞っている。
ぼぅっとした頭で、モレットは無意識にその羽根に触れようとした。
「触ってはいけない。私の羽根は鋭く、よく切れますので」
ルカビエルに腕を掴まれて、ハッと我に返る。ワジルが、モレットの胸の中で静かに泣いていた。
……僕たちは、生きてるんだ。
「あ、ありがとうございます――」
「ちょっとぉ、誰か援護してぇ! 私一人じゃ無理だったぁ!」
遠くから、女の子の声が聞こえてきた。最初の迫力はどこへ行ったのか、今は使イ魔から必死に逃げ回っている。
「おやおや、あれは先ほど上の酒場でお会いした……イサネ」
ルカビエルがそう言ったと思ったら、
「あっ! あんた、店で会った! ルカ!」
いつの間にか、使イ魔の前に立ち塞がっていた。
一瞬であそこまで移動したのか……。
「ようやく見つけました。まだ無事でよかったです」
使イ魔が咆哮し、その拳がルカビエルに直撃した。砂埃が周囲を包んで、モレットからは何も見えなくなった。
そんな……後ろに女の子がいたから、避けられなかったのか?
ワジルを連れてここも離れなければと、モレットは腰の抜けた身体を必死に動かす。
だがその警戒も無用だった。
砂埃が掃けると、ルカビエルはなんと右手だけで使イ魔の拳を制していた。
「一度眠りなさい。私たちの国へ行きましょう」
そこからは一瞬の出来事で、モレットの目には何が起きたのかわからなかった。ただ、ルカビエルが使イ魔の顔の前に左手を出して、すると突然、上から巨大な岩でも落とされたみたいに、使イ魔の身体が地面に倒れた。
風塵から顔を守りながら、モレットは使イ魔を圧倒した黒翼の男を、ただただ見とれていた。
……かっこいい。
「今の何? あんたの力?」
「ええまぁ、そんなところです。それでは……」
イサネの問いに答えたルカビエルは、今度は木の上にいる人たちを見上げては、声を張った。
「お騒がせしてすみませんでした。この使イ魔は私が連れていきますので、もうご安心ください。壊した階段については、必要であれば、私の仲間を手配して直させますので——」
「ふ、ふざけるな! その翼、お前もそいつの仲間じゃないか。忌人だ!」
「化け物は、早くこの村から出て行ってくれ!」
頭上の家々から降ってくるのは、感謝ではなく罵声だった。村の皆全員が、ルカビエルを早く追い出そうと躍起になっている。
モレットの読んだ書物にはそう書いてあった。けれど……。
「参りましたね……。サロア、君の忠告通りになってしまったよ」
頭を掻いたルカビエルの顔は、笑っていたけれど少し寂しそうだった。なんでサロアが一緒ではないのか、その理由を悟った。
あの外見だから、人間の村には……。
モレットは思わず目を伏せる。
そこへ、木の蔓を利用して降りてきたマーフィーが駆け寄ってきた。ワジルをぎゅっと抱き締めると、ルカビエルへ顔を向けた。
「ありがとう。村を守ってくれて」
「いえ、私はただ、自分のすべきことをしただけなので。礼には及びませんよ」
「……でも、すまないけれど、この村にはもう来ないでほしい。階段も、私たちで直すから」
「ええ。大丈夫、わかっています。こういうことは慣れていますので——」
「違うんだ。この村は、昔から使イ魔が跋扈していた。だから私たちの上の世代は、追いやられるように高い木の上に家を建てたのさ。使イ魔は、木の上に登れるような頭脳を持っていないから。けれどそれも十年前の、あんたら忌人との戦争に巻き込まれたせいで全部破壊されて……この村のほとんどの人間が、大切な人を失くしたんだ。私も旦那を失くした。その年を越えて、この子が生まれたんだ」
マーフィーが、そっと息子の頭を撫でた。その仕草からは、彼女の愛や優しさが滲み出ていた。
「おい、マーフィー! あんまりそいつと話すな! 油断させて、殺す気かもしれん!」
「忌人なんて信用できないぞ! 十年前だって、そうやって近づいてきたんだ。怪我した忌人の子どもをこの村に入れて手当させて、それを俺たちが誘拐したなんて口実を作って、この村を戦場にしやがった! 早く離れるんだ、ママ!」
「私なら大丈夫さ! いいからあんたたちは、壊れた階段を直し始めな!」
遠くから再び飛んできた罵声を、マーフィーが一喝で抑えた。
「そうでしたか……。教えて頂き、ありがとうございます。マーフィーさん」
礼を言うと、ルカビエルは翼を広げた。ふわりと巻き起こった風が、周囲の地面を撫でていった。木の上の村人たちが一斉にざわめいた。
「恥ずかしながら、私は何も知りませんでした。木の上に家がある理由を、考えようともしなかった。毎日昇り降りするのは、決して楽ではないはずなのに……」
ルカビエルの表情が沈む。彼は丸太よりも太い使イ魔の腕を抱え、飛び立とうと翼を羽ばたかせた。
「あんたは、一体なんなんだい? どうして忌人が、私たち人間にそんな顔をする」
「私はただ、あなた方と仲良くしたいだけです。もっとも、それには学ぶべきことがたくさんあることを知りましたが」
なんだかよくわからないけど、モレットは悲しかった。
十年前の戦争も、忌人のことも、ルカビエルのことも、僕は何も知らない……。でも、だけど……。
「ル、ルカビエル!」
モレットはまだ、彼に言うべきことを言っていない。人間であるとか、忌人であるとか、関係のないことだ。
「助けてくれてありがとう。二回も、僕の命を救ってくれた」
ルカビエルは一瞬ぽかんとして、すぐに笑みを浮かべた。
「どういたしまして。よければ、君の名前を聞かせてもらえますか? 臙脂色の少年」
「モレット! モレット・スターライトです!」
「いい名前ですね、モレット。それではさようなら」
ルカビエルがお辞儀をした刹那、彼はすでに遥か頭上、空高く舞い上がっていった。
気づけば、陽が暮れ始めている。村の所々に差していた木漏れ日も、とうに消えている。
モレットの旅の一日目が、終わりを告げようとしていた。
モレットは部屋に入るなり、ベッドに倒れ込んだ。マーフィーに貸してもらった、酒場の三階の部屋だ。
今日は疲れた。知らない場所に降り立って、マーフィーさんたちに会って、使イ魔や忌人に会って。濃すぎる一日だった。
瞼が重い。モレットはゆっくりと、まどろみの中へ落ちていく。明かりも点けていないので、眠りを妨げるものは何もない——。
温かくて柔らかかったベッドが、ひんやりとした硬い木板の感触に変わる。カツカツという靴音が聞こえ、段々と大きくなった。
誰かが近づいてきた。
「おい、さっさと起きろ、小僧」
ぼやける視界に突然靴底が迫ってくる。鈍い痛みを額に受けて、モレットは反射的に上半身を起こした。
「いったぁ!」
動悸が激しい。辺りを見回すと、目に入るのは木目調の壁と天井。
自分がマーフィーの家にいることを、ようやく思い出した。
「いきなり起き上がんないでよ……」
そばでは床に尻もちをついたイサネが、涙目でおでこをさすっている。頬を膨らませ、「なんで私がこんな目に……」とか、ぼやいていた。
ただの夢、か? それにしては、やけに感触が生々しかったけど。あの人は一体誰だったんだろう。忌人……?
「ねぇってば! 聞いてんの、モレット!」
「あ、ご、ごめん。どうして君がここに?」
イサネに肩を揺さぶられて、モレットは呼吸を落ち着かせながら訊ねた。
「マーフィーさんが、ご飯できたって。あんたも一緒に食べるんでしょ。呼んできてって頼まれたの——」
いそいそと立ち上がったイサネがモレットの手を掴もうとして、ふと目と目が合った。
モレットは部屋が暗くなっているのをすっかり忘れていた。咄嗟に布団で顔を隠すが、すでに遅かった。
イサネは固まっている。
「モ、モレット……あんた、その目……」
布団をおろし、顔を上げる。改めて、イサネと目を合わせた。
モレットの茶色だった瞳が、暗闇の中で金色に変わっていた。
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