第2話 上陸

「物にはね、人の想いが宿るのよ」


 遠くで、誰かの声が聞こえる。視界はぼやけているけれど……これは……たぶん母さんの声だ。

 クレアシ村の家じゃない。見慣れない煉瓦の壁。寝ている僕の頭を、母さんが撫でている。

 いつの記憶だろうか……。

 雨粒が窓に当たっては流れ、月の光が母さんの頬に涙みたいな影を作る。だけどその表情が暗くてよく見えないのは、もう上手く思い出せないから、なのだろう。


——自分にできる範囲でいいから、人を助けなさい。強くならなくてもいいから。あなたなら大丈夫……。


 消えゆく言葉を逃がさないように……いや、本当はただその人の頬に触れたくて、僕は手を伸ばした。


 母さん待って、母さん……!


 ぱちりと目を開いて、モレットは慌てて跳び起きた。

 頭がジンジンする。さっきまで誰かと話していた気がするけれど、思い返そうとするとさらに痛んだ。

 手で頭を抑えて、頭痛を少しでも和らげようと、深く息を吸っては吐いた。

 モレットは今、土の地面に座っている。前方には森が広がり、後ろには——


「うわぁ!」


 思わず声を出して、森のほうまで地を這った。

 すぐ後ろは断崖。下に雲海が広がる、切り立った崖となっていた。

 ここは……おそらく上層大陸の端っこだ。まさか、こんな所で気を失っていたなんて……。

 思い返すだけでぞっとする。

 寝返りの一つでも打っていれば、空へと真っ逆さまだっただろう。

 一本の木に抱きついて、深呼吸を繰り返す。

 やがてゆっくりと瞼を上げて、自分を落ち着かせた。

 落ち着け。これだけ木々が育ってる場所が崩れることはないだろうし、周りに獣がいるわけでもない。大丈夫、焦る必要はない。

 落ち着け……。

 そんなふうに自分に言い聞かせているうちに、頭痛も治まってきた。

 だけどヘンだな。何も思い出せない。

 身体が浮いて、クレアシ村がある島全体を視界に捉えられる高度まで飛んだ辺りから、ぽっかりと記憶がなかった。

 思い出そうすると再び頭が痛くなって、モレットはそれについて考えるのをやめた。

 とにかく、今は先を進もう。ここが本当に上層大陸なのかも、確かめなければならない。

 おもむろに立ち上がって、森の中に微かに確認できる、草花が踏みしめられた獣道へと入っていく。

 空昇りの儀が成功して、もしも本当に上層大陸に着いたのなら、この森を抜けた先にローレンスという大きな国があるはずだ。おそらく僕が産まれた場所であり、おそらく母さんが騎士として仕えていた場所だ——。




「ヘンリエッタは、昔から好奇心旺盛で自由奔放な子だった」


 クレアシ村を出たいと伝えた時、爺ちゃんが初めて話してくれたことがある。

 母さんが村を出た時と、村に帰ってきた時の話だ。


「物心ついた頃にはもう、上の大陸に興味を示しとった。十八年間もよく止められたと、自分を褒めたいくらいだ。結局、村の人間全員で説得する事態になっても首を縦に振らず、半ば家出するような形で、皆が寝静まった夜中の空を昇っていきおったが……」


 当時を思い出したのか、懐かしそうに笑う爺ちゃんの表情は新鮮だった。

 窓の外で揺れる稲穂は、爺ちゃんが生まれる前から紡がれてきた、この村の平和の象徴だ。せっかく外界から隔離されたこの平和から出て行く必要はないだろうというのが、爺ちゃんや婆ちゃん、村のみんなの考えだった。

 僕だって、きっと母さんがああなっていなければ、村を出ようなんて考えなかっただろう。

 それでも、初めて語られた母さんの話に、心がワクワクしたのはなぜなのだろうか。


「どうして、母さんはそんなに上層大陸に行きたかったんだろう?」

「単純に、この村での生活が退屈だっただけであろうな」

「え? そんなこと?」

「親として情けないが、あいつの考えはわからん」

「ふーん。上の世界には、見たことない植物とか生き物とか、たくさんの国があるみたいだから、そういうのに惹かれたんだと思ってた。僕は、上での生活を当然覚えてないけど」

「……モレット、お前は……そうか」


 一瞬、雷に打たれたみたいに呆けた爺ちゃんは、けれどすぐに納得したように哀しそうな顔をして、「話を続けようか」、と言った。


「あれは、この村では珍しい嵐の夜だった。未だ忘れもしない十年前だ……。すぐに保護できたのは今でも奇跡だと思っている。雨の中、畑の防風網が壊れていないか見て回っていた村長が、たまたま見つけてくれたのだ。銀色の鎧に身を包んだヘンリエッタと、まだ小さかったお前を。凍りついているヘンリエッタが影響を受けることはなかったかもしれんが、お前は違う。大雨に打たれて泣いていたお前は、見つけるのが遅れていれば重体になっていただろう」


 ふと、爺ちゃんの言葉に怒りが含まれていくのを感じた。そして、「少し待っておれ」と席を立った爺ちゃんが、再び戻ってきて手にしていたものは、水に濡れてしわしわになった一枚の紙だった。二つ折りにされていたそれを開くと、そこには書き殴られたような文字で、『ヘンリエッタと息子のモレットを、どうかお願いします。』とだけが書かれていた。

 この手紙を書いたのはおそらく……。

 父親かもしれない者の痕跡に初めて触れたモレットの血流が、どくどくと速くなった。


「無責任なものだろう。上で何かが起こり、お前たち二人を助けるためだったのかもしれんが、それでも俺は許すことができん。仮に、ヘンリエッタ自身が頼んだことなのだとしてもな」


 爺ちゃんは悔しそうに、手紙をくしゃりと握った。


「ヘンリエッタが目覚めることは、もうないのかもしれん。それが恐くてたまらん……。たとえ会えずとも、上層大陸で幸せに過ごしてくれればそれでよかったのにな。モレットよ、上へ行けばお前もそうなるかもしれん。それでも行くのか?」


 時々、母さんの顔を見に寝室へと入る、爺ちゃんと婆ちゃんの寂しそうな背中を僕は知っていた。

 これ以上、二人に悲しい顔をさせたくない。

 それでも。

 母さんを治す方法は、上にしかないから……。

 僕はただ爺ちゃんの目を見つめて、「うん」、と答えた。


「ならばもう、何も言うまい。お前の意志を尊重しよう」

「ありがとう。それに大丈夫だよ。僕は必ず、オールの花を持って帰ってくるから」


 話が終わると、僕は椅子の背にもたれては、部屋の天井を仰いだ。深く息を吐いたのは、上層大陸に行きたいという意志をとうとう打ち明けてしまったことと、母さんの話に心が高揚していたからだ。


「最後に一つだけいいか?」


部屋を出て行こうとする爺ちゃんが、こっちを振り向いて言った。


「どうして今まで、ヘンリエッタと父親のことについて訊ねてこなかった。気になっていたのだろう?」

「爺ちゃんと婆ちゃんなら、いずれ教えてくれると思ってたし。それに教えてくれなかったとしても、上層大陸に行けばどのみちわかることだと思ったから」

「ふむ……。俺の知らんうちに賢くなったのだな」


 ガハハハッと笑って、爺ちゃんは畑の作業に戻っていった。

 その後、納屋で見せてもらった母さんのボロボロの鎧には、書物でしか見たことがなかった、ローレンスの国章が刻まれていた——。



 今まで訊ねなかったのには、もう一つ理由がある。爺ちゃんと婆ちゃんに訊いたところで、ほとんどが憶測でしかないこともわかっていたからだ。

 父が、僕と母さんをクレアシ村へ帰したことも。

助けようとしてくれたのだということも。

 母さんがローレンスの騎士であることも。

 僕がローレンスで産まれたことも。

 結局、全ては憶測でしかない。

 確かめるには、進むしかないのだ。


 獣道は川や池に繋がっている可能性が高い。猟師が通った跡も見つけられるかもしれない。

 早く答えを知りたくて、モレットの足は無意識に早くなっていった。

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