第1部 少年の旅立ち〜ローレンス公国

第1話 空昇りの儀

 銀色の朝日が昇る。どこか遠く、広大に続く海の向こうからか、はたまた上層大陸の浮かぶ大空の何処からか、竜の咆哮が轟いて世界へと響き渡った。

 さらさらとした風が金色の麦畑を撫でて、木造の簡素な家々にぶつかる。

 クレアシ村に住む人々が起き出して、いつもと同じ生活を始める。山へ動物を狩りに行く者や、川で洗濯をする者。薄紅色の浜辺に、魚貝を獲りに下りる者もいる。誰かに命令されているわけでも、操られているわけでもない。何百年と繰り返されてきた、クレアシ村の日常である。

 しかし今日、モレットという一人の少年だけは、いつもと同じ日常から旅立とうしていた——。



 目を覚ますと、少年は勢いよく布団を跳ねのけた。急いで村伝統の白服に着替え、臙脂の外套をその上から被り、昨日の夜に準備しておいた緑色の背嚢はいのうを手に取った。

 階段を降りて居間へと向かえば、すでに祖父と祖母がテーブルについて、朝食を食べていた。


「おはよう、モレット。朝ごはんぐらいは食べていきなよ」

「うん、ありがとう……」


 モレットは二人とあまり目も合わせず、椅子に座って、祖母の作ってくれたご飯をできるだけ早くお腹におさめた。少しでも長くここにいれば、決心が鈍りそうだった。


「ごちそうさま」


 モレットは食べ終えた食器を洗い場に持っていくと、母のいる寝室へと入る。寝台のほかには、数冊の書物が並べられた本棚があるだけだ。

 十年前から変わらない光景……。まるでこの部屋だけが、時間の外側に存在しているようだった。

 母はすやすやと眠っている。その表情は穏やかで、だがなんの感情も読み取れない。モレットは安心すると同時に空しさを覚えた。最後に言葉を交わしたのはモレットが三歳の時だから、当然ほとんど記憶にはなく……もう母の声も忘れてしまっていた。


 母はもう十年、目を覚ましていない。身体は切り傷まみれで、呼吸もせず心臓も動いていないが、肌は生者のように褐色が良いまま、いつまでも腐食しない。村にいる医者も死んではいないはずだと言うが、こんな症状は初めて見ると謝られるばかりだった。

 だけど何もしなければ、母は目覚めることなどないというのが、子どものモレットにもわかりきっていた。

 そう、何もしなければ……。


「じゃあ行ってくるよ。必ず、オールの花を見つけて戻ってくるから」


 母の左手を数秒握って、モレットは寝室を出た。居間を通って、玄関の扉を開ける。木製の取っ手の、触り慣れた感触さえも彼の心を揺さぶった。祖父たちのそばから離れ、まったく知らない外界へと旅立つことに、好奇心よりも恐怖の感情が勝っていた。

 それでも、自分は行かなければならない。

 自分で決めたことなのだと、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。


「待てモレット。お前にこれを渡しておく」


 後ろで祖父の声がした。振り向くと眉間に皺を寄せた白髪頭の老人の手に、黒い鞘に紋様のはいった短剣が乗っていた。

 刃が少し反っていて、モレットは初めて目にするものだった。


「上にはいろんな生きモンがおる。使イ魔や忌人、人間も……とにかくいろんな生きモンがな。うちにはこんな物しかないが、それでも先祖たちから受け継いできた、立派な物だ。きっと必要になる」

「そんなの受け取れないよ。動物を仕留めるための鉈なら、もう持ってるし」

「これは武器だ。戦うための、自分を守るための武器だ。短刀と言う。ヘンリエッタが出て行った時に、渡したやつでもあるんだ。いいから持っていけ」


 爺ちゃんが無理矢理、モレットの手にそれを握らせる。モレットは仕方なく、それを腰の黒帯に差した。


「ありがとう、大事に使うよ」


 少しだけ恐怖が消えた。

 玄関に向き直って、モレットはようやく外に出る。心地よい風が身体を包んで、短い前髪がふわりとなびいた。


「気をつけてな」「気をつけてね」


 背中で、祖父と祖母の声が重なる。言った二人が顔を合わせて、くすりと微笑み合う。

 モレットも笑って、「行ってきます」と返した。


 どこか遠くで、竜の咆哮が鳴る。一日の始まりを告げる、時の声だ。



「モレットかいな。とうとう出ていくんやね。元気でやるんやよ」

「はい。ジャミおばさんも元気で」

「おい、モレット! 全くお前ら親子には驚かされる。空へ行くのは、我々に災難が降りかかるかもしれんというのに」

「そ、村長……。すみません」

「まぁ、お前の決断も当然か。これは少ないが餞別だ。うちの畑で獲れたミツの実だ。腹の足しになるだろう」

「あ……ありがとうございます!」

「やーい、モレット~! 戻ってきたら、また森で、三人で遊ぼうなぁ!」

「ああ! マッツとレティも元気でね!」


 村人たちと別れの挨拶を終えたモレットは、とうとう村を囲む木柵の向こうへと、足を踏み入れた。奥には繫茂した木々によってできた隧道すいどうが続き、この小さな島の八割を占める、今は活動していない火山へと繋がっている。

 上層大陸へ行くためには、その場所である儀式をしなければならない。

 徐々に震えてくる手を抑え、坂になった隧道を駆け上がった。やがて道は荒れたデコボコ石階段に変わり、傾斜もさらに激しくなる。二回ほど祖父と一緒に登ったことはあるが、やはりこの悪路には慣れない。上層大陸に昇ってからが本番のモレットは、極力体力を減らさないよう無心で歩き続け、銀色の太陽が頭上にくる前には、どうにか頂上へと辿り着くことができた。

 しかしやはり、その頃には息もあがり、服は汗で湿っていた。


 手拭いで身体を拭くと、途中脱いでいた外套を被り直す。少し暑いが、どこかに置いておくと忘れそうで怖い。

 一息つくこともせず、モレットはせっせと儀式の準備を始めた。

 といっても、燃えやすいユユの木の葉を点火具として、火を焚くだけである。


 空昇からのぼりの儀——。


 クレアシ村の人間が、山の頂上で火を焚き、天に祈りを捧げる。そうしてしばらく待てば、上層大陸へと運んでもらえるのだ。

 パチパチと音を立てて燃える炎を横に、祈りを終えたモレットは火口湖やクレアシ村を眺めながら、その時を待った。

 緑に囲まれ、青く透き通った湖は、危険だからと祖父に止められ、近づいたことはない。反対に、クレアシ村の周辺で行ったことがない場所などなかった。

 金色の麦畑と、ところどころにある木製の家屋たち。奥には薄赤色の浜辺と、その先にはどこまでも続く海……。それ以外何もない村だけど、それだけで充分な村だ。周辺の森や浜辺で遊ぶことは、十年以上の歳月を経ても、飽きることはなかった。いつも、何か新しい発見があった。


「でもこの先にはきっと、今まで以上の発見があるんだよな……」


 自分に言い聞かせて、モレットは震える手を握る。未知の世界は怖い。家にある僅かばかりの書物を読んで、米粒程度の知識があるだけだ。

 その瞬間、上空でゴォォォッという音が鳴りだすと同時に、軽い地響きが起きた。


 来た!


 思いのほか早いお迎えに、モレットは感傷に浸る暇もなくクレアシ村の風景を目に焼きつけると、焚いた炎を瓢箪の水で消した。

 そして強張る身体をほぐすために、目を閉じて息を吐いた。

 足がふわりと地面から離れ、身体が宙に浮く。

 しかし決して騒がず、冷静に。

 空に吸い込まれていくように、地面がみるみる遠ざかっていく。足はぶらぶらと感じたことのない不安に揺れ、内臓は上下しているような気持ち悪さに襲われる。

 やがてクレアシ村は小さくなり、青い海に囲まれた島が視界に納まるようになる。

 もはやかなりの高度を飛んでいて、自分でも血の気が引いていくのがわかった。そしてその海の向こう、大きな陸地が見え始めた所で、モレットの視界は雲に覆われた。


 大丈夫、大丈夫。母さんだって十年前、同じように昇っていったんだから……。


 ゆっくり頭上に目を向けると、もうすでに巨大な上層大陸の底が迫っていて——


「……え?」


 小さな石や砂粒がパラパラと落ちてきた。

 と思ったら、大陸の底に大きな亀裂がはいり……ガパリと口を開けた。


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」



 モレットは、



 ***


「行ってしまったな……」


 雲の中に消えた小さい人影を見送ったエドは、同じく後ろで見守っていたウイに言葉をかけた。彼女の顔は、悲しくも晴れやかで……。

 きっと、自分も今同じ表情をしているのだろう。

 動かない娘の横で、涙を浮かべて一緒に寝るあの子は、いつの間にか遠くなった過去だ。

 つくづく、子どもの成長というのは早いものだと思う。

 考えだしたら心配や不安は尽きないが、それでも両親がいない中、よく育ってくれた。

 オールの花。その伝説の植物を獲りに、この村から出ることなど思いもよらなかった。エドもその存在は知っていたが、行こうとはならなかった。ウイを連れて行くことも、置いていくこともできないと、自分に言い聞かせて行かなかった。

 けれど本当は、ただ怖かっただけだ。人の人生は様々だからと、生も死も、幸も不幸も、全ては自然の流れ――仕方のないことだとわかった気になって、いつしか心の冷え切ってしまった部分で、ヘンリエッタのことを諦めていた。

 こんなだから、きっと年齢も関係ないだろう。仮に自分がモレットと同じ年だったとしても、何かしら理由をつけて、行かなかったに違いない。

 モレットの旅がどうなるのかはわからない。心配も不安も尽きないが、仕方がないで終わらせようとしない孫を、エドとウイは誇りに思っていた。


「いってらっしゃい、モレット。必ずここに、帰ってくるんだぞ」

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