焉天の旅人

士田 松次

序章

 炎の中に飛び入った虫が、灰となって煙と一緒に天へと昇る。

 鼻腔をつく血の匂い。森の中に氾濫する遺体の海原。怒号と剣のぶつかり合う音の間で、悲鳴や呻き声がかき消されて行く。

 ハァハァと息を切らしながら、青年は暗い暗い戦場を駆ける。ただでさえ傷だらけの身体にも関わらず、背中に女性を負い、胸には紐で縛りつけた幼子を抱えて。

ふらつく足は、すでに限界を迎えていた。


 くそっ、くそっ! 俺のせいで。俺がもっとしっかりしておけば――


 夜空から降ってきた騎士が、燃えた倒木に落ち、崩れて、火の粉が舞った。

 肉の焼ける匂いに顔を背けながら、青年は尚も走る。

 まだ立ち止まるわけにはいかなかった。

 砂煙に覆われ、右も左もわからない森の中、強く光を放つ一粒の星を目指して、青年は走った。

 次第に、自分を追う騎士たちの声が聞こえ始める。いつの間にか自分は失速していたようだが、もはや速度を上げることもできない。足を動かすだけで、気力を消費していた。


 それでも、それでも……。


 朦朧となりながらも、青年はようやくそこに辿り着いた。

 このモアリオ大陸の端、雲海に続く断崖に。

 本当にこれで大丈夫なのだろうか。迷う青年に、しかし時間は考える間も与えてくれない。後方には騎士たちの姿が見え始めていた。


 くっ……。

 もうやるしかない。


 青年は、意識のない女性の胸に幼子を縛りつけて——

 ふいに、手が止まってしまう。


 すやすやと穏やかに眠る、まだ赤子と言ってもいいぐらいの小さい子どもを見ては、これから自分がすることに心が痛んでたまらなくなる。

 しかしもう、あとには引けない。

 青年は、紐をきつく縛り終えると。


 すみません。どうか、どうか無事で。



 ――ケイエ・フェザーランドは悲痛の表情で、母子おやこを雲海へと放り投げた。

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