Ⅳ 聖夜
ホテルの最上階、1人用ソファに腰掛け、俺は煙草の煙を吐いた。
磨り硝子の向こうはシャワールームになっており、リリィが流す水が床を打つ音が、不規則に鳴る。
身体を洗わせてやっても良かったのだが、何となく今夜はそんな気分になれない。
……何かが、普段と違う気がする。
「お待たせ」
違和感の正体を掴めないまま、水に濡れた彼女と目が合う。彼女の様子は例年通りだ。髪を拭き、バスローブを脱いで下着をつけ、ガウンを羽織る。
彼女の頬に触れてみる。白くて、小さい。少し強く押すと、頬骨に当たる。僅かに口を開けさせ、指を入れる。彼女の口腔は、熱い。
リリィは俺の手を止めず、身を預けてくれる。ただ、俺に触れて来ることはない。
その時、俺は違和感の正体に気づいてしまった。
――俺は、彼女に愛されたがっている。
「……ははっ」
あまりに子供染みた心境の変化に、呆れて、乾いた笑い声が漏れる。
きっと彼女が、領主の話をしたせいだ。
今まではリリィの気持ちなど、どうでも良かった。俺が愛しているから、傍若無人に振る舞ってきた。
しかし、彼女が俺ならざる領主のことを『素敵な人』などと形容するものだから、欲が湧いてしまった。
買い手である俺自身も、彼女に好かれたい、と。
馬鹿野郎。……何もかも、手遅れだ。
「どうしたの」
「大した事ではない。ただ、今夜は止めよう」
俺の様子が変だと気づいた彼女が声をかけてくれる。愛らしい心配の声は胸を打つが、もう彼女に手を出す気持ちになれなかった。
「飯でも食べないか。ここのホテルは、ルームサービスが一流なんだ。ワインは飲めるか」
「……ええ」
リリィは、突然の事に戸惑いを隠せないようだ。これまでの関係を振り返れば、彼女の動揺も腑に落ちる。
どう見繕っても未成年である彼女の分まで
「リリィは、この先どうなるんだ」
「……え?」
珍しく、目を見開いて驚いた表情をする彼女に、俺はもう一度聞いた。
「お前はまだ子供だろ? 将来、どうなる予定なんだ」
「……あと2、3年したら、誰かの物になるわ。それは今のお客様の中にいるかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、きっとその方の所で子供を産むわ」
「『鬼』の一生ってのは、そんなものか」
投げやりな言い方になった。しばし、沈黙が訪れる。
微かに、窓の外から讃美歌が聞こえてきた。窓を見遣ると、僅かに開いている。
「この曲、知っている」
「へえ、習ったのか」
彼女は首を振った。空気が揺れ、甘い匂いが鼻をくすぐる。
「花屋の近くに教会があるでしょ。聖歌隊の歌を聞いて覚えたの」
「そうか」
初耳だった。彼女が俺のことを知らないように、俺もリリィのことを何も理解していない。
むしろ俺は、知る事を避けていた。子供に優しいとか、歌が上手いとか、これ以上知ると
俺とリリィの間に、何度目かの沈黙。口火を切ったのは、彼女の方だった。
「……ねえ、今夜は本当に何もしないの?」
「へ?」
まさかの発言に、恐ろしく情けない声が出た。慌てて彼女の方を向くと、その赤い瞳は真っ直ぐ俺を捕らえていた。
「
「でも、今日は聖夜。クリスマスと言えば、プレゼントでしょう? 私は、何も贈れる物がないの」
それを言うなら俺だって彼女に何もあげていない。でもこの言葉には、お金を貰ったと返されそうだ。
彼女の時間と身柄は金銭と引き換えだから、実質物など贈る必要はないのだが、どうも納得してくれなさそうだ。
――それなら。
「歌を、歌ってくれよ、俺のために。それでいい」
彼女は少し躊躇っていたが、やがて口を開いた。
ホテルの最上階、丸いバスタブとキングベッドが目立つ部屋の中が、リリィの舞台となる。
その甘く、切ない歌声は、俺のちっぽけな心を優しく震わせる。俺は手で顔を隠し、その声をいつまでも聞いていた。
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