Ⅲ 鬼の歌

「……そろそろ行くか」

「ええ」


 俺とリリィは街外れのホテル街へ向かっていた。折角一晩買ったのだ、抱かなければ意味がない。


 彼女だって、そのつもりだろう。



 広場の人混みを抜けた時、近くで子供の声がした。


「あぅっ!」


 数秒後、子供の手から離れたくまが、俺の足元まで転がってきた。


 無視を決め込むか逡巡する前に、リリィが子供に駆け寄った。


 ――あろうことか、繋いでいた俺の手を、振り払って。


 転んだ拍子に膝を擦りむいて、今にも泣き出しそうな女の子の前に、リリィはしゃがんでいた。


「大丈夫、痛くないわ」


 言い聞かせるように彼女は言ったが、女の子はみるみる泣き顔になり、ついには泣き声をあげた。


 痛みが遅れてやってきたのだろう。


 リリィは涙を零す女の子の前で、少し躊躇った後、口を開いた。


「いたいの、とんでけ。向こうのお山に、お空の雲に。とんだら、もう、痛くない――♪」


 鈴の音が唇から紡がれ、空気を揺らす。


 俺は、彼女の歌声を初めて聴いた。


 女の子は涙に濡れた目を瞬かせたが、やがて手を叩いた。


「お姉ちゃん、お歌じょうず。ねえ、もっと聞かせて」


 その時、遠くから女の子を呼ぶ声がした。母親らしき人が、こちらに向かって来る。


「おい、あんたが親か。お前のせいで――」

「触らないで!!!」


 突如響いた金切り声。


「『鬼』が、私の娘に触らないでよ!」


 母親から、リリィの赤い瞳が見えたらしい。リリィは俯いて女の子から数歩、後ろに下がった。


「ああ、穢らわしい! なんで鬼なんているのかしら。今度私の娘に近づいたら、領主であるベルナール公にお願いして、あんたを処分してもらうからね!」


 ……ベルナール、か。


 突如呼ばれたを反芻し、俺は事実を告げる。


「領主は、無益な願いは聞きたくないだろうよ」

 

 母親の返事も待たず、拾い上げたくまのぬいぐるみを女の子に差し出す。


「ほら、これ持って消えな」

「……うん。お姉ちゃん、お歌ありがとう。またね」


 小さな手を振る女の子は、母親に連れられて遠ざかってゆく。


 見送りもせず俯いたままのリリィの肩を、俺は強引に抱いた。


「リリィ、俺は言いたいことがある」


 寂しげな、赤い瞳。彼女の心の内は誰にも分からない。


「勝手に俺の手を離すな」

「……ごめんなさい」


 こんなことで謝らせる俺は、なんて子供っぽいんだろうか。

 

 苛々する。俺が居ながら、彼女に寂寥せきりょうたる顔をさせてしまった事に。そして、そんなことよりも、彼女が呆気なく自分の手を離した事に。


 彼女は俺の事など、厄介な客としか思っていない――理解わかっている。


 あの母親も、軽率に俺の名前を出しやがって。


 俺は領主として、素顔を隠している。リリィにも、可能な限り俺の情報を伏せたかった。


 ……実際、彼女はどこまで俺のことを知っているのだろう?


 彼女と関係を持っている客は多くいるだろうし、花屋の経営者や、同僚との会話で俺の名前が出ないとも限らない。


「お前は、領主の名前を知っていたか?」

「……いいえ。名前ファーストネームは初めて聞いたわ。でも、噂は聞こえてくる」


「どんなだ」

「『民のことを一番に考える素敵な方。欲に溺れず、昼夜問わず仕事に邁進し、若くして鉱石の流通ルートを開拓した。街の発展は、領主様の恩恵だ』って」


 想像以上に、彼女は領主の事を知っていた。だが、その大層な言葉の羅列からイメージできる人物は、凡そ俺とはかけ離れている。


 本当の俺を知ったら、彼女は、そして領民は、どんな視線を俺に向けるだろうか。


 少し凄惨な予想をして固まった俺の手を、リリィは強く握ってくれた。


 大丈夫、怖くないわ。そう、語りかけているようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る