第三話
実際のところ。
夏山星舟に虚勢は張ったものの、その名もなき女間諜に、戻るべき場所などない。
見切りをつけられたのは、閨の上でのことだった。
「……幼帝の、摂政?」
「そ。まぁ就任する俺が、血筋はともかく若過ぎるとか、母親のこととか言われてるみたいだけど、主だってそんな文句をつける
放言とともに、天蓋より抜け出たサガラは軍服に袖を通す。
たとえ私的な場であっても、いかなる耳目があるともしれず、許される発言ではない。だがそんなことを構いもしないほどに、半壊する帝都を、自らの権威を縫い込ませて修繕したサガラの基板は、盤石なものとなっているのだろう。
「でもそれはついでだ。後々のことがやり易いというだけで」
「後々のこと……」
まさか帝位に就くとでも言う気か。
馬鹿馬鹿しい。それこそ
わずかに向けた黒竜の横顔は、口元は、笑っている。
相手の不理解に対する憐れみ、蔑み。それを向けられ、女は裸身をもたげた。
「すべて崩れ去ったあの時、瓦礫の中から偶然あるものを見つけてね」
おもむろにサガラは言った。
「大凡の人や竜にとっては意味はあっても手にしたところで役に立たない代物だけど、俺にとってはそうでもない」
それは比喩か事実か。いずれにせよ、そのことについて詳らかに打ち明ける気配はなさそうだった。
「で、さ」
なんて事のないような調子でサガラは彼女に言った。
「この先、お前が担える役割が、何かあるのかな?」
……手切れは、唐突で脈絡なく、一方的かつ無慈悲で端的に切り出された。
いや、ただサガラの方はただ問うたのみ。選び、答えるのは女の方だ。
もっとも、いかに己の有用性を説いたところで、あるいは感情に訴えたところで、『すでにどうでもいい相手』に、この男が意見を覆すことなどありはしない。
……選ぶ、と言うのは語弊があるか。
「ない,のでしょうね。少なくとも、貴方の内では」
正しくは、その事実を我から認め、そして口にするという権利だけだ。
食い下がる権利など、あるべくもない。
彼にはすべてを与えられた。生きていくだけの技術も、権限も、肉親の保護厚遇も……そして、情愛も。
それら全てが偽りであったわけではない。思いたくもない。
だが、彼にとってはそれは、あくまで貸与していたものに過ぎないのだろう。彼が望めば、箪笥より衣服を取り出すように、奪還できる。その程度のもの。後に残るは、この寝台のごとく、空白に流れ込む寒々しさだけだ。
「あぁそうそう。星舟のとこに行くつもりならさ……私信程度で良いから、奴の体調とか、ちょっと教えてくれない?」
去り際にそんな厚かましいことを言われたが、聞き流した。そんな道理があると思うのか。冗談のつもりだったのか。
聞きたかったのは、そんな言葉ではない。彼が奪い返したもの。それもさして問題ではない。
共に来てくれと誘われれば、価値など見出されずとも捨て石ぐらいに喜んでなった。
そうでなくとも、これまでの献身に対する、感謝だけでもあれば。
せめて一瞬、この伸ばしかけた髪について言葉や手で触れることがあれば。
……せめて、別れ際に身を寄せ、名を呼んでくれたのならば。
同じ時を過ごし、少しでも苦楽を共有出来ていたならば。
彼の一端なりとも、心の奥底に傷痕として残せたものを。
それなのに。
「髪、伸びたな」
こんな奴に。
「もし行く宛もないなら、オレらと来るか?」
こんな奴が。
「でも楽しかったろ。一緒にいて」
こんな、どこまでも浅薄で、半端で、本質を観る能力はサガラに及ばず、いや何一つとして彼に勝るところがない男が。
どうせ、こちらのことなどまったくまるで汲み取れていない癖に。
許さない。
これ以上は、踏み込ませない。
何も与えさせない。
空いた隙間に潜り込む、無思慮で厚顔な男。
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