4話 こんな人生終わりだよ



「支配欲の現れ……。私の『自分から楽しんで勉強できるようになってほしい』って気持ちも、押し付けだったのかな……」

「俺もお前の傲慢さについては散々指摘してきたと思うが」

「ごめんね。格下からの助言ってどうも頭に入ってこなくて……」

「たまには俺がお前を窓から突き落とすのもアリだと思わないか?」


 うおおおおおおおと七階教官室の窓際で激しい攻防が広げられる十九時十五分。体格や膂力からすればどう考えてもミハロに勝ち目はないように思われたが、彼女は躊躇なく変身の札を切った。日頃からオーバーサイズのローブを着ているのはそのためで、それが功を奏してごく軽快な動きでディーを窓の外に押し出した。かつてはこの変身魔法を用いてパーティの緊急前衛を務めたものである。


 しかしそれを懐かしむだけの余裕は、今の彼女にはなかった。


「支配欲の現れかあ……」

「ディー・ヨド! 生きてるかい!?」

「死んだ」

「うわあ! じゃあ今の君は幽霊ってこと!?」

「そうだ。俺は幽霊、復讐の化身……」


 窓から這い上ってきたディー・ヨドと、それに手を貸すオルキス・ハートウォーツがいる。「触れる!」と叫んでいる。触れるに決まっている。「いいなあ、気楽な人たちは」とミハロはアンニュイな溜息を吐いた。


「支配欲の現れ、かあ……」

「おい、あいつさっきから慰めてほしいオーラがすごいぞ。オルキス・ハートウォーツ。優しい言葉をかけてやれ」

「えっ。でも、ちょっと事実っぽくて僕からは何とも……」

「支配欲の現れかあ!!!」

「早く言ってやれ! 爆発する!!」

「えぇっ!? もうこうして何かを言わせようとしているのが支配欲の現れって感じしない!?」


 その言葉に傷付き、ミハロは一旦オルキスのことも窓際に追い詰めようかと思った。しかしまっとうな人間に理不尽に力を向けてしまったら終わりだ……その程度のことを判断するだけの理性はまだ残っており、オルキスの命は救われた。あともしかしたらオルキスが相手だと変身しても力負けするかもしれないという打算が働いた。ミハロは魔法に関する万能家であるに留まらず、戦闘知能も非常に高い。


「でも実際、そこまで悪いこと?」

 身体を動かしてスッキリしたのか、少しばかり気を取り直してミハロは言った。


「『子どもの学ぶ意欲を育てます!』とかどこでも言ってることじゃん。何がいけないの?」

「どこでも言ってるからと言って正しいこととは限らんだろ」

「でも、僕も流石にそのくらいのことは言ってもいいと思うなあ。ディー。君ならあの先生が言った理由がわかるのかな」


 何となくはな、とディーは言った。

 だからミハロもオルキスも、じっと彼を見た。


「たとえばそうだな。ミハロ・クローバ。お前がある日、魚釣りの名人が営む超巨大魚釣り学園に入学したとする」

「別に入学したくないけど……」

「だろうな。お前は魚釣りに興味がない。しかし入学することで家族が泣くほど喜んだり安心したり、卒業することで今後の収入が倍近くに膨れ上がったりすることが予想されている。これならどうだ?」

「……まあ、ギリ入るかも」

「よし。するとそこに大体二十五歳くらいの教官が現れた。オルキス・ハートウォーツ。その役をやってみてくれ」


 突然話を振られたオルキスは「えっ」と困惑しながらも「うん」と素直に頷いた。自分の髪を持って口の上のあたりに持ってくると、「儂は魚釣り名人じゃ」と言った。「いや二十五歳でいい。大体ありのままだ」とディーからの演技指導が入り、「こんにちは。僕は魚釣り名人です」と言い直した。爽やかだった。


「ミハロ・クローバ。お前は全く以て魚釣りに興味がない。入学して、卒業さえできればいい」

「うん」

「しかし魚釣り名人はそうは思っていない。お前が魚釣りをしたくてしたくてたまらないと思っている」

「うわ」

「さあ、今日も魚を釣ってみよう!」

「しかしお前は魚釣りに興味がない」

「うん」

「すると教官は裏でこう思い始めた。『魚釣り学園に入学したのに魚釣りをする気がないなんて……』」

「何のためにここに来てるんだろう、この子」

「全然魚を釣るのが上手くならないお前を見てさらにこう思う。『できなくて当たり前だ』」

「やってないんだもん」

「あまつさえこんなことを裏で普通に言葉にし始める。『生徒たちはみな幼く、ものを考える力もなく、放っておくとすぐに努力を怠るから』」

「しっかり僕が責任を持って導かないと……!」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 一旦ミハロはストップをかけることにした。内容もさることながら、もっと気になることがあったからだ。


「なんでさっきからふたりの連携はそんなにスムーズなんですか。打合せして台本作った? テレパシー?」

「なんだ、まだ気付いてないのか。得てして自分の知能に自信がある人間ほど視野狭窄に陥りがちなものだな」

「…………」

「わかりやすいやつをやってやろう。最終的に魚釣り名人はこういう結論に辿り着いた。『大切なのは目の前にいる魚を釣れるかどうかではなく、今後の人生で困難に出会ったとき、何かの技能を習得したいと自主的に思い立ち、それを楽しめるかだ』つまり――」

「能力よりも、意欲が先!」

「うわあああああああああああっっっ!!!!!!!!」


 あまりの衝撃にミハロは吹っ飛んで背中から壁に叩き付けられた。「大丈夫!?」とオルキスが駆け寄ってくる。大丈夫なわけはなく、ミハロはそのまま息絶えた。さようなら。


「ものを教えるというのは特権意識を生むものだ。あくまで予想だが、あの教務主任が答えてくれたのは『ただ魔法を教えるというだけの立場なのに』『魔法技術だけではなく本人の内心や考え方まで変えようとするのは』『自身の立場に自惚れているのではないか』という考えだったんじゃないか。実際、お前の目標は『学生たちがプライベートの時間も自主的に魔法に没頭するようになること』だと思うが、それは『他人が人生の大半の時間を何に注ぎ込むかに影響を与えたい』ということに似ている。支配欲と読み替えることもある程度可能だろう」

「ディー。ミハロが息してない……」

「安心しろ。俺のありがたい説教は天国・地国・人国の大三国を鐘の音のごとく遍く響き渡る。こいつも霊になってなお俺の声を聞くことができて幸福だろう」

「勝手なこと言ってんじゃねえぞ」


 そして怒りのあまりミハロは蘇生した。こんにちは。残念ながらディーの言うことは事実であり、ありがたい説教は死んでいてもなお脳に届いており、ちゃんと処理されていた。


「本当は……途中でわかってたんです。魚釣り名人が私だって」

「二重人格で夜な夜な魚を釣って歩いていた連続魚釣鬼の自白みたいだな」

「わけわかんねえこと言ってんじゃねえぞ。……でも。ちょっとだけ目を逸らしてみたかったんです。自分が本当はすごく傲慢で、自惚れ屋で、支配欲をこじらせてるって事実から……」

「そもそもたかだか二十年生きたくらいで人生の先達面をしながら学生にグチグチ言ってる時点で気付くべきだったな。傍から見ていて滑稽だったぞ。社会でふらふらふらふらフラついてただけのやつが社会の何を知った気になっていたんだ? それからお前は魔法を通して学ぶことの大切さを知り大変有意義な生き方ができるようになったらしいが、今のこの有様はなんだ? 説明してもらえるか?」

「追い打ちを畳みかけてくるなよ反省してんだからさあ!」


 たくもう、とミハロは立ち上がる。背中をはたいて埃を払う。もう痛くない。振り向いて壁をきっと睨む。お前より私の方が強い。舐めるなよ。


「魚釣り名人を通して客観的に自分を見つめ直してよくわかりました。私は大して年も変わらない相手に上から目線で『自分は大切なことを知っているから愚かなお前を啓蒙してやる』と鼻持ちならない態度でウザ絡みする、魔法の大天才です」

「よかった。心は折れてないみたいだよ」

「正直ここまで来ると尊敬の念も湧いてくるな」


 あと、と。

 さっき見てきたナノ・カッツェの講義を思い出しながら、


「中等科レベルの内容だけを教えて点を取らせることだけを目的として捉えたら、教務主任に普通に講義の質で負けてるかな~……」

「そうなの? ディー」

「認めざるを得ないんじゃないか。こいつの講義はものすごくでかい大掴みを一気に呑み込ませることを目的にしているが、向こうは限られた範囲を何度も繰り返す。あれだと勉強をして覚えるというか、何回も会った人間の顔だから忘れられないとか、そんな感じだろう」

「ね。私もびっくりした。中等科の教科書薄すぎだろお前の一年は三日しかないんかってずっと思ってたんだけど、ああいうのを教官側が主導で進めてたら確かにぴったりくらいに収まるかも」

「……言われてみれば僕も、全然内容はわからなかったのに重要単語だけは頭に残ってるかも」


 でもさ、とオルキスが言う。


「やっぱり僕は、『学ぶ意欲を育てる』ってことがそんなに悪いこととは思えないなあ。だって、楽しい方が良いし、学校を出た後も学び続けられるってすごく良いことじゃない? 魚釣り名人の話もそうだよ。確かに魚釣りに興味がなかったとしても、実際に教えられて魚釣りを好きになったり、何かの技術を習得するやり方を覚えられたら、きっと楽しいよ」

「まあな」


 言って、ディー・ヨドがソファに腰を下ろした。

 少し腰を前に出すように。ずるり、と滑り落ちかねないくらいに背もたれに体重を預けて天井を見る。ミハロも釣られて同じ場所を見たが、特に何もなかった。


「俺もミハロ・クローバの人格を指摘して説教するのが気持ち良かっただけという面は否定できん」

「おい」

「そして俺もお前と同じようにずっと荒野にいたから社会のことなど何も知らんし、今はこの有様だ」

「急に自爆して悲しいこと言うなよ……」

「他人の善意の怪しい側面を取り上げて声高に糾弾するなんて、どんな落ちぶれた人間でもできる一番簡単なことだからな。お前らもこんな風にはなるなよ」

「大丈夫です。心配しないで。絶対ならないから。死んでも。そこまで堕ちるのって逆に難しいし」

「おい」


 なれ、と言って呪われそうな手つきをディーがした。嫌だ、と言ってミハロは両腕を交差させ、バリアを貼った。カキーンと跳ね返ればオルキスに飛んでいっただろうが、彼は「そんなに自分を卑下しなくても……」とちゃんと気遣ってくれており、カキーンと跳ね返る前に場が浄化された。このようにして世界の平和が常に保たれてくれるとよいのだが、実際にはもっとひどいことになる場面の方が多く、難しい問題である。


「俺も別に、お前の理想の全てが間違いだとは思わん。何事にも良し悪しはあり、後は程度を見つつ評価を決めていくしかない……ただ。その言動の端々から漏れ出る傲慢さは年を重ねるにつれてひたすらにデメリットを生み出すようになるから、今のうちに隠し方を覚えておいた方が良いとは思うが」

「先輩……」

「初めて敬称で呼ばれたが、面白いほど虚しいな」


 ううん、と。

 言われたことを含めて、色々とミハロ・クローバは考えた。


 自分の考えていることはどのくらい正しいのだろうか。どのくらい間違っているのだろうか。求められた技術や知識だけを教えるべきだろうか。けれど未学者がどれだけ正しく自分が本当に求める技術や知識を把握できるだろう。それに、学生にとって本当に自分は『技術を教えるだけの人』なのだろうか。学園という特殊な環境において、本当にたったそれだけの振る舞いをしていればいいのだろうか。押し付けは悪かもしれない。なら干渉は? 影響は? 自分がするべきことは教科書の重要な場所を何度も読み上げて頭に刷り込むことなのだろうか。それとも、もっとそれ以上のこと? それ以上とそれ以下で、一体何が違う?


 そういうことを、色々考えて。


「……決めました。聞いてくれますか」

「うん。いつでも聞くよ」

「ああ。聞くだけならな」

「私は――」


 最終的に、ミハロは。




「やっぱり魔法がこの世で一番面白いと思うし、それを『つまんね』って目の前で捨てられたらめっちゃムカつく!


 何としてでも『面白すぎる!』『もっと勉強したいのに一日が短すぎる!』って号泣させてやりたいです!」




 十九時三十分。

 とうとう私欲100%の完全体になり。


 そのあと流れで、遊園地を作ることが決まった。






「…………」

 もう帰ってしまったのか、と思いながら握るドアノブは冷たい。


 十九時四十分。講義後の質疑応答を済ませたナノ・カッツェは、帰宅の前に立ち寄ったミハロ・クローバ教授の教官室の前で、その扉に鍵がかかっていることを確かめていた。


 彼女は確か、とナノ・カッツェは思い出す。職員寮の住人ではなく、学外の一軒家を借りて住んでいる。終業後に職員寮に乗り込むのも気が引けるが、これから住所録を調べて学外の自宅に乗り込んでいくのはもっと気が引ける。端的に言って気味悪くもあるし、場合によっては通報もされうるだろう。


「……大丈夫だったかな」

 だからぽつりと一言零すほか、今の彼女にできることはない。


 もう一度、ノックをしてみる。少し反応を待ってみる。返ってこない。廊下の明かりも消してみる。長年の軋みを経て生まれた壁と扉の隙間から、けれど明かりが漏れ出る気配はない。不在。念のため、もう一度ドアノブを回す。開かない。


 今日やれることは、とりあえずなさそうだ。

 踵を返す。ナノ・カッツェは、彼女にしては少し緩やかな速度で七階を後にした。


 夜の学園は暗い。昼の間も決して華やかとは言いがたい場所だが、夜になれば気温もグッと下がる。日の光が当たらなくなるというのもそうだが、ここにたむろする多くの体温が消え去ってしまうから。青い月明かり程度では、とてもその代役には荷が重い。


 階段を下る。七階から一階。とにかくこの学園は階段の上り下りが発生しがちだが、これはもちろん意図的なものだと教務主任は知っている。学生たちに一定の運動を強いるためだ。本当なら普段の講義でも一時間程度に一度は別の階の講義室に移動させたいと思っているが、以前にその提案を職員会議で行ったところ「面倒」「というか不可能」という理由で却下された。学園の教授たちは高齢がちで、健康にも結構な問題を抱えがちでもあり、


 また。

 ミハロ・クローバのような若き天才に、政治的な対抗心を燃やしがちでもある。


 一階の玄関にナノ・カッツェは降りていく。ガラス張りの窓からは真っ青な暗闇が差し込む。扉を押すと、きぃ、と音がする。校舎の中も寒かったけれど、外に出ればなお寒い。また今年も一年が過ぎ去っていく。そう思いながら、鞄からマフラーと手袋を取り出す。


 ミハロ・クローバのことを思う。

 正直なところナノ・カッツェは、彼女のことを尊敬している。


 ほとんど繋がりはない。学園の教授同士は、基本的には不干渉だ。そのうえクローバ教授は研究キャリアや教育者訓練課程を経ず、共和国行政府から特例で教授職に就けられた異例の人物でもある。


 この学園における教務主任は『対外的な折衝業務と時間割の作成業務、学内行事の運営業務における教職側の責任者』以外の何者でもなく、組織図における上位者ではない。


 ゆえに、ナノがクローバ教授と直接接触した回数はこれまでに六回のみ。双方向からの、と条件を絞ればそのうちたったの三回。ついさっき、講義の休憩時間中の会話。それより少し前、昼のあの通達。そして長く長く遡って、年の初めの教官室や学舎案内、時間割作成。それらの手伝いをしたとき。


 一方的なものは、と。

 渡り廊下の軒下で自転車の鍵を外しながら、ナノは思い出している。


 彼女の講義初日のこと。大丈夫だろうか、と思ってナノは、彼女の講義を見に行った。彼女はあまり学生の反応を見るタイプではないし、さっきもあれだけ稚拙な変装で乗り込んでバレないと思っていたらしかったから、恐らく気付かなかったはずだと思う。


 教科書の内容を読み上げるだけの、当たり障りのない、砂を噛んだような講義だった。


 ナノ・カッツェは、それを酷評をしようとは思わない。この程度の講義をする教授は学内にもままいる。教育よりも研究が本分、と語る人物も多く、おそらくミハロ・クローバもそのタイプなのだろうと思った。彼女はすでに魔法史の最も新しい行に名を連ねる偉大な魔法使いであり、またおそらく、彼女の遺した数多の公式は以後何百年に渡って、魔法研究者が取り組むべき最も重大な関心事として学園の中心に残り続けることだろう。


 むしろ、とナノは思っていた。十九歳。教壇の向かいにノートを構える学生たちとそれほど変わらぬ身でありながら、教科書などただの体裁と言いたげに教卓の上に放り投げて、滔々と淀みなく、理路整然と喋る。その堂々とした姿には一種の頼もしさすら覚えた。念のためその次の日も様子を見に行った。彼女の振る舞いは初日に限ったものではなかったことがわかった。そして夏の学期の終わり、彼女の担当したクラスは全てにおいて平均的な成績を記録した。クローバ教授は与えられた役割を全うしている。自分が十九歳だったら、と成績表を見ながら考えた。同じことができただろうか。


 自転車を押しながら門を出る。傍らの守衛に、「お疲れ様です」と頭を下げる。彼も帽子を上げて「どうも。冷えますから、帰り道はお気を付けて」と挨拶してくれる。「ええ、どうも」と答えながら、ふと立ち止まる。戻る。「最近、手続きに則らない学内入退場が増えているように思うのですが、所感はどうですか」「あー……。いやー……申し訳ない」「責めているわけではありません。ただ、実際仕事をされていてどうなのかな、と」「……裏道がね。心配だから、できれば全部塞ぎたいんだけど。塞いだら塞いだで、ほら、今度はどこにどうやって開けるかわかったもんじゃないですから。学生証とか公的身分証明の有無とかで結界のチェックが働いている今の方が、下手に触って悪化させるよりは、と。すみません」わかりました、とナノ・カッツェは答える。職員会議の議題に挙げてみようと思います、いつもご苦労をおかけします。ああいえいえこちらこそ、あ、この間はコーヒーご馳走様でした。貰いものですから、ではそちらもお気を付けて。ええ、どうもどうも。門を離れていく。


 学園から出ると、不思議と寒さはより厳しくなったように思えた。サドルに跨る。サドルが冷たい。この冷たさをどうにかするものを、そろそろ開発しようと思っている。


 最後の一回は、冬学期の一番初めだった。

 頬を切るような寒風に吹かれながら、ペダルを漕いで、ナノは思い出している。


 何か具体的な目的があって聴講に出たわけではなかった。ただの確認。変わらぬ講義が続いていることを見届けて、今学期も心配はなさそうだと安心するためだけの、名ばかりの教務主任の職務には含まれていない、ただの個人的なお節介――、


「――、」

 思考を切る。


 道の途中で、ブレーキを握った。


 キキー、と甲高い音が鳴って顔を顰める。長く使っている自転車だから、手入れをしてもあちこちガタが来ている。そろそろどこかで一度分解して組み立て直そう。頭の中で予定を立てる。自転車を降りる。


 夜の、繁華街のあたりでのことだった。


 家がこのあたりにあるわけでもなければ、学園からの直線距離上にあるわけでもない。単に夜になってもまだ比較的まだ明るく、人通りが多い場所だから。安全のために少しの遠回りをしてもナノはこのあたりの道を通るようにしているし、毎夜立ち並ぶ飲食店から香る油の匂いと空腹を戦わせている。


 けれど所詮は夜の街だから、全てが明るいというわけではなく。

 少し路地を覗き込んでみれば、いかにも危うげな暗がりがいくらでも存在してしまう。


 そんな場所。

 その暗闇の向こうに、知っている顔が見えた気がした。


「…………」

 自転車のスタンドを立てる。コートの裏にしっかりと護身用の魔法具が仕込んであることも確かめる。あまり直接的なやり取りは得意な方ではない……が、軍隊にでも囲まれない限りは、誰かを連れて逃げるくらいのことはできるはずだ。


 そう思うから、ナノ・カッツェは暗がりの中に早足で入っていく。

 幸いにも、どんな危険に遭うこともなく、目当ての人物には辿り着けた。


「こら」

「え」「うわっ」「どわあっ!!」「…………」


 普通に振り返った者。びくりと肩を震わせた者。こちらが驚くくらいの声を上げた者。驚きすぎたのか固まってしまった者。


 四人全員を、ナノ・カッツェは知っている。


「クローバ教授のクラスの学生たちですね。閉寮の時間はとっくに過ぎていますが、外泊許可は取っていますか。それとも、何かのトラブルですか」


 子どもたちは、頭ごなしに疑われるのを嫌がる。

 だからそう訊いてみたけれど、実のところ答えが「いいえ」であることはわかっていた。


 ナノ・カッツェは少なくとも中等科の学生たちの顔と名前は全て覚えているが、特にこの四人は覚えやすい。良く言えば目立つ。普通に言えば手がかかる。悪くは言いたくないので、言わない。


 夏学期の開始前、この全員をクローバ教授の担当とする編成案を事務方から見せられたときにはその政治的な……あるいはもっと小規模で些細な、体力や日々の労力を理由とした意図や背景も察するところがあった。もっとも、その他に名前を連ねていた面々も大概で、結局自分の力ではこの四人を他のクラスに散らすことができず、彼女の担当にそのまま残してしまったけれど。


「あー、いや。……うす」

 一番大きな声を上げた学生が言う。爪先が横を向いている。逃げるかどうか迷っている。他の三人も、その学生の動向を窺っている。学園は放任主義だから、本当にそれで済んでしまう。


「別に、怒りはしません」

「ぅえ」

 だからナノ・カッツェは、そう言って先手を打った。


 爪先がこちらに傾いた。ナノは肩の力を抜く。単純にそうしたい気分でもあったし、そうした方が学生たちも緊張しないだろうと思ったから。


「今は勤務時間外ですし、寮生の生活指導は私の業務管轄外ですから」

「あ、はい、」


 ども、と学生が小さく頭を下げるから、あまり間を空けすぎないテンポで、


「ただ、裏路地を行くのは控えましょう。道の陰に潜んでいるかもしれない不審者や通り魔に襲われるより、こんな風にちょっとした小言を言ってくる学園関係者に見つかる方が嫌ですか?」


 いや、別に、と拍子抜けしたように学生たちは顔を見合わせる。

 ナノ・カッツェは、自分が学生たちの目からどう見えているか、おおよそのところは把握しているつもりだ。細かいことにグチグチうるさい。厳しい。気難しい。性格が悪い。そんなところだろうし、別に否定するつもりもない。


「夜食ですか」

「あ。……まあ、そんな感じっす。成長期で」

「そう。では、行きましょうか」

「い、……え?」


 ただ、こういうときは便利だと思う。



「ここで七年も働いていますから。あなたたちよりは、美味しいお店に詳しいと思いますよ」



 結局、人は。

 想像していたよりも楽な結果に終わったとき、自然とガードを解くものなのだから。






「カッツェ教授って、もっと話しにくい人だと思ってたっす」


 たったこれだけのやり取りでこの打ち解け方になるのを見ると、この学生は周りからよっぽど『話しやすい人』だと思われていることだろう。そんなことを思いながら「いえ、私は話しにくい人ですよ」とナノ・カッツェは言って、自転車をカラカラと押す。んは、と学生は笑った。嬉しい気持ちになる。自分の発言で笑ってもらえることは、実を言うとあまりない。


 ピザ屋に、と学生たちは言った。夜にピザ、と眉をしかめそうになったが、何しろこちらと向こうでは年齢が倍以上違うし、そもそも自分も一緒になって食べるわけではない。快く頷いて、それほど値段の高くはない店に連れていく。どうやら学生たちの知らない店を上手く案内できたらしく、品物を受け取ってから「では学園まで送ります」と告げたときの反発は、思ったほどではなかった。


「すんません。仕事、終わってんのに」

「上り坂ですからね。あまり何度も行き来したい道でないのは確かです」


 今度も冗談のつもりだったが、学生たちは笑わず、むしろ委縮したように見えた。しまった、と内心でナノは焦る。自分の冗談はたぶん、わかりづらい。


「でも、」

 と話し出したのは、だから、その焦りから。


「しつこいようですが、今度から夜食を買いに出るときはこんな風に明るい道を通ってください。治安の良い街ではありますが、犯罪が絶対に起こらないというわけではありません」

「いいんすか?」


 言った学生を見た。見られると「う、」とたじろいだように見えた。多分こう言いたかったのだと思う。「明るい道を通るなら、閉寮後に街を出歩いてもいいんですか?」そして目と目が合って、伝わったのだと思う。「そんなわけがないでしょう」


「悪いことをしておいて『怒られたくない』というのは虫の良い話です。堂々と悪いことをして、見つかったら堂々と怒られてください」

「……なんすか、それ」

「悪いことをしたときの責任の取り方の話です。正直、教員の側としてもそうしてくれた方が気が楽です」


 はあ、と一番喋る学生は気のない返事をした。あまり理解はされていないとナノは感じたが、それを悲しんだり残念がったりはしなかった。教員をやっていれば、それほど珍しいことではない。


 しばらく、学生たちは喋らなくなった。脅しすぎただろうか。けれど見つけた自分の時点で多少は釘を刺しておかねば、寮監を務める教職員たちの負担だろう。このくらいで丁度良いのかもしれない。


 チリチリと、車輪の回る音がする。時折はガサ、と。ピザ屋でもらった紙袋を、学生たちが抱え直す音もする。夜が更け始める。気温が下がる。手袋越しでも少しずつ指先がかじかんでくる。吐く息が白い。


 同じタイミングで、その白が空に向かうのを目で追ったのだと思う。


「あ。アクロニアの三連星」

 ぽつり、と。

 一番無口だった生徒が、思わずというように零した。


 ナノは振り向く。それに学生たちは気付いていない。言葉を発した学生にみな目をやって、その学生はずっと空を見ているから。


「出た。お前いっつもそれな」

「滅びた村を、黒衣の勇士が旅立った。彼の名はアクロニア。またの名を『星の数え方を思い出した男』……」

「詠唱始まった」

「刺激するから」

「アクロニア好きすぎだろ。所詮は全身黒服の男だぞ」

「は? お洒落じゃん」

「あばたもえくぼ」


 アクロニア。

 その名前をもちろん、ナノ・カッツェは知っている。


 天体魔法学史に名を連ねる偉大な魔法使いのひとり。さらに重ねて、魔法理学のある一分野における遠因の祖でもある。


 この学生たちがその名を知っていても、決して不思議ではない。後者としての彼を知るためには確かに大学レベルの知識が必要になるだろう。しかし前者は、自然学で習う『アクロニアの三連星』が人名由来であることを認識していればそれで済む。


 だから。

 ナノ・カッツェが唖然としたのは、学生たちがアクロニアを『知っていた』からではない。


「てかそんなに好きなら早くあの積んでる天体魔法学の本読めよ。一生四ページ目で止まってるじゃん」

「早くアクロニアを旅に送り出してやれ」

「だってあれいきなり数学の話出てくるんだもん。無礼だろ、俺に対して」

「どういうことだよ」

「あれクゼは読めるらしいよ」

「そりゃクゼは読めるだろ。クゼが読めないもん数えた方が早えよ」

「『三つだ』『――え?』『目を凝らせ。星は三つだ。希望を数えろ。三つだ。希望の数は――三つある』」

「詠唱を始めんなって」

「なんか完成度上がってきてんだよね」

「数えるのが好きなら数学やれ」


 あのさあ別に俺は全くやってないわけじゃなくて日頃からコツコツさあ、と。

 ついさっきまで無口だった学生が喋り出すのを聞きながら、ナノ・カッツェは。



 学生たちが『何気ない日常の風景の中で』アクロニアの名を『自然と』『コミュニケーションのために』引き合いに出したこと。



 それがどれだけ、この『手のかかる学生たち』が学習者として成熟していることを表すか。

 そのことを思って、茫然としていた。



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