5話 本当に終わりなのだろうか?
1
ナノ・カッツェとミハロ・クローバの一方的な接触。
その最後の一回。冬学期の一番初め。夏学期と何も変わらない講義が続いていると確かめることだけを目的とした、予定では三十分程度で離席するはずだった、その聴講。
結果としてナノ・カッツェは午前中いっぱい、その席を動くことはできず。
鐘の鳴る音と、学生たちが席を立つ音を聞きながら、こんなことを思っていたのを覚えている。
ミハロ・クローバ。
不世出の、若き魔法の天才。
彼女ならひょっとすると、自分が『諦めた理想』に手をかけることができるかもしれない。
2
腕時計を見る。
結局あの四人を寮に送り届ける頃には時刻は二十時を回り、説教を終えた後となっては、さらにそこから十分が経っていた。
送り届けるところまでで、ナノは自分の役割を終えるつもりでいた。しかしそうもいかなかった。叱るための役職と言っても過言ではない寮監が不在だったのだ。詳しい学生を捕まえて話を聞けば、どうも学外の自宅に所用ができたとかで、「すぐに戻る」との言葉を残して旅立ってしまったそうである。いつ戻ってくるか、具体的な伝言はなかった。
仕方なく寮監に代わって烈火のごとく四人を叱り、「裏切られた」「大人はみな嘘つき」「まるで食べるために太らせたようなものだ」という感情をたっぷり与えた後、「ピザが冷めてしまうからこのあたりにしておきましょう」と喜ばせ、最後に「次に裏路地でこそこそしているのを見かけたらこの七倍は怒ります」とさらに釘を刺して、それから。
寮監がいないままというのも具合が悪かろう、と。
寮のエントランス。談話室の端で、ナノ・カッツェは少しばかり時間を潰していた。
幾人かの学生の姿は視界に入ってくる。そのどれもをナノ・カッツェは知っている。そして同時に、彼ら彼女らが自分の存在に緊張していることもわかる。そそくさと部屋に引き上げてしまう者もいる。邪魔者であるのはわかっていて、さらに五分が経って二十時十五分。外に出て寒さに耐えてみようか、という気持ちが首をもたげ始めた頃。
とても堂々と。
自分の目の前で、寮の外に出ていこうとする学生の姿を見かけた。
「待ちなさい」
「……?」
声をかける。学生が振り向く。知っている顔。今日は随分縁があると思う。
ミハロ・クローバの担当クラスに所属する学生。
クゼ・ピクセルロードが、寮の玄関で外に出る扉に手を掛けていた。
意外だった。優等生だ、と思っていたから。さっき送り届けた四人とは逆。むしろクラスにいてくれた方がありがたいだろう学生のひとり。
「閉寮の時間は過ぎていますよ。どこに行くつもりですか」
「…………ああ」
そういうことか、というようにクゼは頷く。内心でナノは思う。自分にこういう声掛けをされて、初対面で委縮しない学生は珍しい。
「学外には出ません。校舎の方に」
「理由を聞かせてもらえますか」
「クローバ教授の教官室に行きたくて。質問があるんです」
そういうことか、と頷いたのは、今度はナノの方だった。しかしすぐに「ん?」と怪訝に思う。時刻は二十時十七分。
「クローバ教授はもう帰宅していると思いますよ。さっき教官室を訪ねましたが、不在でした」
今度はクゼが「ん?」と怪訝な顔をする。攻守交代。
「そうなんですか? いつもクローバ教授は二十一時まで教官室にいて、質問を受け付けてくれているんですが」
「にじゅっ……二十一時まで?」
「家にいると家が汚れるから、できるだけ教官室で過ごすようにしているそうです。自分で掃除しなくても定期清掃が入ってくれて楽、と言っていました」
「…………」
知られざるミハロ・クローバの生態を知らされ、しばしナノは言葉を失った。その反応にあまり興味はないのか、クゼは平熱の口調で「何か用事でもあったのかな」とひとりごとのように呟いた。
「教えてくれてありがとうございます。……えーと」
「ナノ・カッツェ。准教授です」
「カッツェ准教授。すみません。人の顔と名前を覚えるのが苦手で」
「気にすることはありません。私も毎年、名簿と突き合わせて新入生の顔を覚えるのに必死ですから。ところでクローバ教授への質問とのことでしたが、勉強に関することですか」
「まあ、はい」
「よければ見せてみてください。私で対応できるようならこの場で答えますよ」
あまりこの学園では、他の教員が担当している学生の勉強を見ることはない。
教え方の違いで矛盾が生じたとき学生がその処理に苦労する……に飽き足らず、教員同士の激しい論争に発展することもあるからだ。
けれどそれを危惧して避けるのは、まずその質問事項を確認してからでも遅くはあるまい。そう思って訊ねれば、「これなんですが」と言ってクゼ・ピクセルロードは、腕に抱えていた本をこちらに開いてみせた。
「『エン=リック過熱体』の低級相似体が五次元空間上で動くときの軌道なんですが、どうしても理解できないところがあって。この『制御魔線①』は、『+』『-』『+』の順で動くとあるんですが、『-』『+』『-』の順ではないんですか」
どうなんでしょう、と差し出されたそれに、驚かずにはいられない。
「『エン=リック過熱体』……」
「すみません。専門外でしょうか」
「いえ、この程度なら問題ありません。……誤植ですね、これは。クゼさんの言うとおり『-』『+』『-』の順で動きます。合っていますよ」
「誤植?」
「ええ。高等科までの教材は作成時のチェック人数が多いのであまり見られないんですが、大学レベルになるとよくあるんです。……ああ、図書館で借りたんですね。確か去年新版が出ているので、そちらを探してみるといいかもしれません。もう少し読みやすくなっていると思いますよ」
それは明らかに、中等科の範疇を超えた質問だったから。
低級相似体。ああ、と思う。確かに自分も、もし全てを自由に講義していいのだったら、相似体の単元を学習させる際にそこまで体系的に教えてしまいたい。教えてしまいたいと、そう思うが。
実際にできるかどうかは別の話で。
ましてそれを、いくら優秀とはいえ中等科の学生に、基本書の誤植を指摘させる水準まで一気に教え込めるのかなんて。
思えば。
「…………?」
「ありがとうございます。カッツェ准教授。助かりました。……あ、じゃあここも誤植か。確かに多い……」
引っかかることが、今あった。
「少し、訊いてもいいですか」
「僕に答えられることなら」
「『エン=リック過熱体』の低級相似体。それはクローバ教授の講義で教えられたものですね。相似の単元で発展として教えられたものですか」
「はい」
「普段からこのレベルの発展を?」
「教わっているのがどのレベルなのか、僕自身は正確には測りかねますが。毎回、高等科で教わる範囲より先までは講義で取り扱っていると思います」
おかしい、と思う。
最初にそれを聞いたときから。ミハロ・クローバが担当するクラスの中間試験の結果を見たときから抱えていた違和感。今それが、無視できなくなっている。きっと過渡期だからだろうとか、短期的には結果を出しにくいからなのだろうとか、そういう形で処理していた疑問が、くっきりと浮かび上がってくる。
どうして。
「……これはピクセルロードさんの主観で、というより、答えにくければ答えなくて構わない質問なのですが」
「はい」
ここまでしっかりと、優秀な学生に理解させることができているのに。
かつては優秀とは言いがたかった学生たちに、日常的に魔法に関する言葉を引き出させることまで成功しているのに。
どうして――、
「クローバ教授の講義について、クラス内での理解度はどうなっていますか?」
詮索しすぎだ、とナノは自分に思う。肩書ばかりの教務主任の職掌を超えている。学園内の不文律を破っている。何より、本人にまず訊くべき事項を――今日の終業後、それがダメなら明日の終業後に訊くはずだったことを、周りに訊いてしまっている。
クゼ・ピクセルロードはその質問を投げかけられて、数秒、考える素振りを見せた。
そのあと、「ああ」と確かな察しの良さを発揮して、彼はこう答えた。
「中間試験の結果が悪いのは、僕以外が全く講義に出ていないからだと思います。
みんな留年したがっているみたいで」
二十時十七分。
留年したがっているやつらが性懲りもなく裏口の戸を開けて、誰にも気付かれないよう、学生寮の外に出ていく。
2
どうして人は追い詰められると遊園地を作り出すのだろう。
その答えが、ついさっきまでミハロにはわからなかった。けれど今はわかる。はっきりわかる。凄まじくわかる。
人は。
いざというとき、遊園地を必要とするものなのだ。
「おい。この図面でかすぎないか。講義室の中に収まらんぞ」
「そうだよねえ。特にこの観覧車。一階から七階まで吹き抜け? そのくらいじゃないと」
「ぶち抜いてみますか」
「取り押さえろ!」
「あ、僕が!?」
時間は遡って、二十時。学生寮の方では、ちょうど四人の問題児を引き連れたナノ・カッツェが街から帰還したころ。一方で。
さっむいさっむい一階の講義室で、さっむいさっむい冬の夜。遊園地を作ろうとする者どもの、情熱の炎が燃えている。
あれからミハロは、すごくよく考えた。
自分の望み……『勉強したさのあまり時間というものの狭量さ、融通の利かなさに怒り、悲しみ、それでもただ前に進むほかないという思いを抱かせてむせび泣かせてやりたい』という美しい願いを叶えるために、一体何が必要なのだろう、と。
結局は、とミハロは思った。
『魔法は面白い』ということを、自分がしっかりと伝えてやるしかないのだ。
もう自信はあった。迷いは捨てた。クゼ・ピクセルロードはあまり表情に出ないタイプの学生だが、それにもかかわらず今日の講義中に五分くらいペンも握らず涙を流しているだけの時間があった。あのディー・ヨドですら少し泣いていた気がする。たぶん泣いてた。きっと泣いてた。フードを深々と被っていたからはっきりとわかるわけではないが、今から講義室の後ろの方に行って彼が座っていた席の足元を調べれば、涙の跡のひとつやふたつは見つかるはずだ。
そういうことを今、オルキスの手で机の上に取り押さえられながら、ミハロは思っていた。
「ちょっと待ってください。流石に本気で天井をぶち抜いたりしませんけど。私こんなに信用ないですか?」
「躊躇なく人を七階の窓の外に押し出してくるやつが信用を得られると思うか」
「思います。全身から輝かしき知性と良識が可視光線として滲み出ているので」
「出てないよ」
「いや、一旦出ていることにしてみよう。激しい思い込みを頭から否定するのは危険だ」
ミハロは変身した。著しい膂力でオルキスの手を振り解こうとしたが、変身の時点ですでにオルキスは手を放し、争いを事前に回避していた。彼は賢い。
改めて、黒板に描かれた図面に向かい合う。
「確かにでかいと言えばでかいんですけど……。そもそも、講義室の中に収まる程度のものでいいのかって話もあるんですよ」
「でも七階までぶち抜いたら怒られると思うよ」
「それはそう」
図面は、とてもキラキラしていた。
こんな黒板をミハロは見たことがない。なぜなら夏学期の間はチョークの色変えが面倒だったからずっと白しか使わなかったし、冬学期に至る頃にはそもそも板書が面倒で時間効率も悪いということに気付き、図解やグラフ、計算式や綴りを殴り書きするための壁くらいにしか使っていなかったから。いちいち消すのも面倒で、講義の終わりにはいつも隅から隅まで埋め尽くされる。自分の部屋みたいだな、とたまに感じていた。
しかし今のこれはどうだ!
講義室を埋め尽くすキラキラしたイルミネーション。その予定。講義室を華やかに彩るアトラクション。その予定。講義室という空間そのものを楽しくさせる統一されたデザイン。その予定。
見ているだけでも胸が躍ってくるじゃないか!
「部屋のでかさに対して詰め込み過ぎじゃないか?」
「うん……少なくともこんなにたくさんアトラクションは置けないよね」
「それだけじゃない。このデザイン量をこの容積に押し込めようとしたらとんでもない密度になる。イルミネーションの光もお互い干渉するし、明るすぎて何も見えなくなるぞ」
「文句を言うだけなら誰でもできるぞ、君たち!」
「文句をつける人間がいないとこの世に悪が蔓延るからな」
「僕も文句をつけるくらいしかちゃんとできることないし……」
辛気臭いふたり組の寝言は放っておくとして、もちろんミハロはこの設計図をそのまま現実に再現しようなどとは思っていなかった。当たり前だ。これは自分の理想とする夢をいっぱいに詰め込んだだけ。いわば夢の具現化。夢の全てがそのまま叶ったりなんてしない。そうだろうか? そんなこともない気がしてきた。いつだって自分は他人に笑いものにされるような巨大な目標に向かって全速力で走ってきたではないか。
「…………バレなきゃいいか……」
「おい、バレた後のこともしっかり考えろよ」
「ミハロ。バレたらいけないことっていうのはね、そもそもやっちゃいけないことなんだよ」
「社会に蔓延る綺麗事が人間の形を取って私の行動を制限してくる」
「思わぬ高評価だな」
「これからも社会が綺麗になるよう積極的に口を出していくよ」
行動が制限されたことで内心にも影響が及ぶ。大人しくミハロは、法に触れないギリギリの範囲と、良識に多少は触れているけれど誰の心にも深刻な傷を残さずに済む範囲で物を考えることにした。
そのためには、前提をしっかり確認し直す必要がある。
だからミハロは、強く強く、遊園地を作る目的のことを頭の中に念じた。
それはもちろん。
学生たちを、講義に引っ張り出すためである。
ミハロ・クローバには自信がある。話せばわかる。しっかりとまとまった時間を取って講義さえできれば、必ず学生たちをむせび泣かせることができる。
しかしそこで問題がある。
あまり知られていないことだが、言葉とは一方的に投げかけるだけでは十分に機能しないのだ。
別に言葉それ自体の美しさは機能するし、たとえば世界が明日滅びるともミハロは普通に魔法の研究をしてそれを公式に起こしたりしてはその美しさと自身の才能に惚れ惚れして今日の日を過ごすことだろうが、それとはまた異なる話。言葉に『他人への伝達』という機能を欲したとき、常に受け手が必要になってしまうのだ。
どれだけ講義に自信があったとしても。
その講義を聞かせることができなければ意味がない。
だからこその、遊園地だった。
これだけ綺麗な観光スポットがあれば、必ず講義室に来たくなるに違いない!
「でも、ここ一階だし。窓向こうの中庭をちょっと使わせてもらうくらいはセーフっぽい雰囲気ないですか?」
「ごめん。僕たちに判断を委ねられても困るかも」
「今日来たばかりで雰囲気は判断できんぞ。規則ではどうなってるんだ」
「真面目に調べたことないけど、たぶん『中庭に遊園地を作ってはいけません』って規則はないと思う」
「だろうな」
「いやもっとこう、理念規定みたいなやつがあるんじゃないの……?」
中庭も遊園地に含めることにした。窓を開け放つ。寒い。一旦閉める。窓の硝子に反射して講義室の中と自分とダブル素寒貧が映る。その絵面に「もしかして今の私はヤバいのではないか?」という懸念がうっすらと頭を過る。過り切り、また別の場所を目指して去っていく。さよなら。額がついてしまうくらいの距離まで窓に近付く。やたらにじめじめした空き地が映る。前から思っていたけれど、この中庭という名の湿気まみれの空間は何を目的として作られたのだろう。墓場と言われた方がまだ納得がいく。
「これだけ面積が使えるなら、結構図面通りにいけそうかも」
「いけるか……? 流石に厳しいような気がするが」
「拡張魔法を使います。ほら、レトリシア・スディがよく使ってたやつ。建物相手にやるのは色々ダルいというか修理費発生しちゃうんで嫌ですけど、これだけ何もないまっさらの土地だったらいけるでしょう」
「ああ、なるほどな」
「トントン拍子で進んでるけど、トントン拍子で本当に大丈夫?」
不安そうにオルキス・ハートウォーツが言った。だからミハロは彼を見た。目と目で二秒ほど見つめ合って、それから無言で親指をズバンと上げて差し出してやった。すると彼はああこのやたらに不敵なサムズアップにあの旅でも救われたことがあったみたいな感じのことを考えていそうな顔で微笑んだ。ミハロは満足した。また人を救ってしまった。
「オーケー。それじゃあ場所の問題は解決なんだね。で、アトラクションを作る材料はどうするの?」
「…………」
「考えてなかったの?」
そしてものすごく芯を食った指摘をされた。
もう一度オルキスが問い掛けてくる。考えてなかったの。ミハロは答える。勿論考えていた。考えていたに決まっている。その証拠に、何が問題なのかよくわかっている。つまり、問題は――
「それなんだよなあ~!」
「何もわかってなくない?」
「そんなことわざわざ口にするくらいなら言葉を捨てろ」
実際のところ、とミハロは考える。一番の問題はそれだ。
土地はこれ見よがしに「遊園地を立ててください」と言わんばかりのものがある。しかしアトラクションはそうはいかない。
とりあえず最低限建造するつもりのものたち。ジェットコースター。観覧車。お化け屋敷。メリーゴーラウンド。この四点セットを揃えるだけでも大変なのに、さらに雰囲気づくりのための石畳や、イルミネーションまで必要になってくるのだ。
まず以て、それらを動かすための魔力の供給も難しい。別に自分で出せなくもないが(天才なので)、できれば講義の方に集中力を割きたい。となると何らかの魔源を確保しなければならない。その上、材料までとなれば。
壁掛けの時計を見る。
二十時十分。
「……お店、もう閉まっちゃってるよね」
「開いていても無理だろ。仕入れを舐めるな」
「ミハロ、明日から頑張ろう。遊園地は一日にして成らずだよ」
「そうだ。日々のたゆまぬ努力が遊園地を作るんだ」
「爆発するときは?」
「一瞬だった」「一瞬だったね」
言うとおりだ、とミハロは思う。ディー・ヨドとオルキス・ハートウォーツの言うとおり。何もかもは刹那に過ぎ去る。いや違う。何事も一日では済むということはない。日々のたゆまぬ努力が大事。それはわかる。
わかるが。
「…………めんどくせ……」
「おい」「ちょっと」
まだ二十二時より前なのだ。
そのことを、ミハロは思う。
ミハロは毎日二十二時に寝る。六時から八時くらいに起きる。いつも通りであれば、まだ寝るまでに二時間近く余裕がある。帰宅して入浴する時間を考えると一時間ちょっと。
自分の良いところは、ミハロは考える。
「もうすぐ寝る時間だな」と思ってから実際に寝るまでの時間の間に、何かをちゃかちゃかやって明日に積み残しそうなものを速やかに消してしまえることだ(長いこと誰でもできることだと思っていたが、最近はそんなに誰でもできることではないらしいと理解が深まってきた)。
一日を過ごすとき、最後まで油断してはならない。
なぜならば『たった一日』の『たった一時間』は、一週間で七時間、一ヶ月で三十時間、一生ならば……と積み重なっていくものだからだ。
というわけで、ミハロは「やっちゃいたい」と思っている。
材料さえあれば一時間で仮組みくらいまでは持っていける。肝心の材料さえあれば。黒板を見ながら、腕組みをして考える。どうにかする方法はないだろうか。
「……こんなとき、レトリシア・スディがいてくれればなあ」
「だな。俺も遊園地を作るとき、あいつがいてくれればと何度も思った」
「僕も思ったなあ……。頼りになるもん」
「そう? なら呼んでくれれば良かったのに」
「確かに。連絡先とか知らなかったんですか、ディー・ヨド」
「オルキス・ハートウォーツもそうだが、途中から消息が掴めなくてな。何のかんのと言って、今でもしっかり仕事を続けているのはお前だけなのかもしれん」
「えっへん」
「口で言うやつを初めて見た」
「僕は最初からミハロのところに頼りに来ちゃったけど……。そうなんだ。何してるんだろうね。レトリシア・スディ。昔みたいにお店をやりたいって言ってたのに」
「やってはみたんだけどね」
「ああ。やってはいたんだろうが、どうも早くに閉めてしまったようでな」
「ふうん……。どうしたんでしょうね。あ、もしかして」
「ん、」「もしかして?」「想像付かないと思うけど」
「ここまで来ると、レトリシア・スディも遊園地を作ってたりするかもしれないですね!」
「すごい。どうしてわかったの? ミハロ・クローバ」
三人は、声のした方を見た。
二十時十三分。さっむいさっむい冬の夜。共和国。学園。一階講義室。
人影四つ。
「確かに私、遊園地を作ってた。爆発させちゃったけど」
いた。
3
二十時四十五分。学生寮。
いやあ大変だった、と何かをやり遂げた顔で寮監が戻ってくる。すかさずナノ・カッツェ准教授が動く。早口でかくかくしかじか自分がここにいる理由を説明した後「説教は終わっています、後は任せます」と足早に玄関から出ていく。
その背中を見送ってから。
寮監が「なんだ?」と首を傾げて自室に戻っていくのを見届けてから。
かたり、とクゼ・ピクセルロードは談話室の椅子を引いて立ち上がった。
暖炉から遠ざかると一気に寒くなる。古い寮内の廊下は今にも夜霜が降りてきかねない。その奥へ行く。食堂の前を通りがかる。なぜ談話室に行かないのか、ペンギンの仲間か何かなのか、寮生たちの会話の声が聞こえてくる。通り過ぎる。声が遠ざかっていく。その代わりに、目的の場所が近くなる。
倉庫。
異様に冷たいノブは、捻ると簡単に回った。埃臭い、異様に凍える空気に襲われる。クゼは顔を顰める。けれどその奥にすたすたと進んでいく。クッションを置く。その上に座る。姿勢を低くする。低い位置にある窓を開ける。
窓から外に手を出す。
心臓が止まりそうなほど冷たい、その薄い金属の筒を掴んで引っ張る。
揺する。たぶん、向こうではカランコロンと音が鳴っているはずだと思う。
少し待った。
『はいよ。誰?』
「クゼだ」
『おー。どした?』
外から見た方が、きっとよくわかったと思う。
そのブリキの筒の底には、紐糸が繋がっている。誰も通りがかって怪我する心配がないような、狭く囲われた場所。そこに糸が渡っている。仮にもし奇特すぎる人間が通りがかって足を引っ掛けたとしても、引っ掛けたことに気付く間もなく千切ってしまうだろう脆さの、細い糸。学生寮から、校舎に向かって。
ピンと張り詰めているから、向こうの声が聞こえてくる。
反対にこちらの声も、もちろんのこと。
「一応忠告だ。ナノ・カッツェ准教授がそっちに行くかもしれない」
『は?』
唖然とした声が小さく聞こえて、それからさらにはっきりと。
『ピザの話? まだ?』
「いや、別件だ。君たちが講義に出ずに留年しようとしている話をしたら、顔色が変わった」
『言ったのかよ!』
「百留するつもりなら、教員側に留年の意図を隠すのは不可能じゃないか?」
少しの沈黙があり、
『確かに』
そう素直に認められても、クゼも困るところがあった。全体的にこいつらはどういう計画で動いているのだろう、と思った。
『え、なんでカッツェ?』
「知らない。クローバ教授と仲が良いとか、そういうのなんじゃないか」
『実際そうなん?』
「さあ。一応、教授が学内で僕以外と話しているところは見たことがない」
しばらく、声は返ってこなかった。
代わりにもぞもぞと向こう側で複数人の微かな声が聞こえてきていた。かろうじて拾えた単語もいくつかある。どうすんべ。なんでカッツェ。やっぱピザか。別に関係なくね。
「別に君たちの居場所を吐いたわけじゃないぞ」
拾えたから、クゼは言った。
「いつもこの時間は校舎に行って怪しい計画を立ててるとかは、別に。留年の話をした後に急に顔色を変えて、寮監が戻ってきたら早足で出ていったから、もしかしてと思って。念のための忠告だ」
しばらくまた、沈黙がある。
返ってくるのは、やはり聞き慣れた声。
『あ、何。そゆこと? 別にこっちの方に来るかもってだけ?』
「校舎の方に向かったようには見えた」
『はーん……。なるほどね』
なるほどなるほど、と声は遠ざかる。拾える音もある。自転車の置き場所。教授の方じゃね。どうせ帰ってるからそんなに時間は。
『了解。サンキュな』
声が近付いてくる。
『証拠隠滅してしばらく大人しくしとくわ。寮監は戻ってんだよな?』
「部屋に引っ込んだ。裏口で問題ないと思う」
『りょーかいりょーかい』
サンキュな、ともう一度言われる。それを最後に糸から緊張が抜ける。へにょ、と窓の向こうの枯れ芝の上に垂れ下がる。クゼは五秒待つ。それが再び張り詰めそうな気配はとりあえずのところ、ない。
コップを窓の向こうに再び追いやる。窓を閉める。鍵もかける。ふう、と立ち上がる。体温を上げるために、必要以上に足の筋肉を使うような形で。
さて、と踵を返す。見つからないよう、暗くしたままの部屋の中。足を止める。ふと思い出す。
手の中を見る。
相似体の扱いに関する学術書。もう一冊重ねて、高等科で使用することになる問題集。口元に手を当てる。暗闇の中で考え込む。
くう、と腹が鳴った。
クゼ・ピクセルロードは、知らない人を見つめるような顔をして、自分の腹部を見下ろした。
顔を上げる。
「食べに行くか」
忍び足で倉庫を出る。
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