3話 そんな人生終わりだよ



「お茶ってすごいねえ。飲むと生き返ったような気持ちになるよ」

「ほんとだ。土気色だった顔がみるみるうちに薔薇色に」

「人間ってそんな仕組みだったか?」


 共和国内部。学園。

 さらにその内部にある七階、ミハロ・クローバの教官室。


 普段であればそこにいるのはミハロたったひとり。しかし今は、もうふたりを数えることができる。


 ひとりはディー・ヨド。

 世界を救い、遊園地を爆発させ、この場所に辿り着いた剣士。


 もうひとりは。


「それにしても久しぶりですね、オルキス・ハートウォーツ! 私は一年ぶりですけど、ディー・ヨドは?」

「俺もだ。結局あの後、まとまって集まることもなかったからな」

「そうだねえ。もう一年……まだ一年かあ」


 オルキス・ハートウォーツ。

 世界を救った四人のうちのひとり――騎士をそこに数えることができる。


「今日は意外な再会ばかりです。パーッとパーティでもしてみましょうか!」

「悪くないな。こうなると、レトリシア・スディもこの場に欲しくなるが」

「あ~、懐かしいねえ。レトリシア。今頃どうしてるんだろうねえ」


 オルキス・ハートウォーツは『おっとり』や『優男』を絵に描いたり文字に書いたりしたような印象の、二十代前半の男である。強いてそれ以外に特徴を挙げてみるとするなら、よく前髪の奥、額に絆創膏を貼っている。身長が高いために鴨居に頭をぶつけるのだ。


 ミハロ・クローバとディー・ヨドは、さっむいさっむい一階講義室からたっかいたっかい七階教官室に戻ってくると、扉の前で行き倒れている何者かを発見した。一旦見なかったことにするという選択肢が(少なくとも)ミハロの頭の中には生まれたが、引いて開ける扉なので困った。生きているのだろうか。後頭部を覗き込んだ。誰なのか思い出した。


 というわけでふたりで肩を貸して教官室に担ぎ込み、茶を与えた。

 すると地面にぼとりと落ちた椿が急に大ジャンプをして茎にもう一回突き刺さったみたいなダイナミックさでオルキス・ハートウォーツは蘇り、今のような状況になっている。


 四人掛けのソファがあって幸いだった。三人はそれぞれゆったりと座り、ちょっとした再会の挨拶に花を咲かせた。オルキスのカップはまた空になり、ミハロが立ち上がろうとすると殊勝にも「自分で淹れるよ」と自己申告し、自分で淹れ、再びカップを両手で握る。


 そして言った。


「いやあ、本当に生き返るなあ。素寒貧になってから何も口にしてなかったから」

「今の何気ない一言でだいたいわかっちゃったんですけど、どうして今日はここに来たんですか?」

「えっ、今のだけで? すごいなあ。相変わらずミハロは頭が良いね」

「誰でもわかるわ」


 そうなんだ、とオルキスは微笑んで、


「語れば長い話になるんだけど……」

「オルキス・ハートウォーツ。ここは結論から行こう。論文のように」

「遊園地が爆発しちゃって」

「なんで遊園地が爆発して一文無しになってるやつがふたりもいるんだよ!」

「よし、いいぞ! 順を追って話せ!」


 そうだなあ、とマイペースに、緩やかな口調でオルキスは語り出した。


「まず、あの魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカを倒したじゃないか。そうしたら各国から……」

「いやそのあたりはいい。俺たちは誰もそうだからな。飛ばせ。スキップだ」

「ちょっとディー・ヨド。そんな人を人とも思わない言い草を……」

「結局、対立していたホスト店と売上で勝負を決めることになっちゃってね」

「何が起こったんだよ」

「オルキス! 戻せ! もっと前からだ!」

「そうしたら僕、寝返りの勢いで壁をぶっ壊しちゃったらしくてさ」

「馬鹿野郎、戻しすぎだ!」

「お前も人のこと言えないしその幼少期のエピソードもなんなんだよ」


 放っておいたらディーの堪え性のなさのためにオルキスの生涯に渡る思い出を聞かされそうな気がしたので、ミハロは指定することにした。とりあえず色々褒美とかを取らされたところまでは共通していると思うので、その後どこに就職したとか、最初に何の事業を始めたとか、そういう話から始めてください、と。任せてよ、とオルキスは言った。ミハロはオルキスのことをかなり善良な人間だと思っているが、その言葉に安堵を覚えるにはすでに交流を重ねすぎていた。


「って言っても、最初は何の変哲もないんだ。僕、遍歴騎士だったからさ。ちゃんと功績を挙げたからって故郷の王国に召し抱えられることになったんだよ」

「ほう。役職は?」

「騎士団の副団長」

「ほう……フフフ」

「その『落ちる前の地位は高ければ高いほど面白い』みたいな笑い方、性格悪く見えるからやめた方がいいですよ」

「見えるだけではなく、実際にそうだ」

「知ってて気を遣ってやったんだよわかれよ」


 だけどね、と他人事のようなのんびりぶりでオルキスは続ける。


「あんまり馴染めなくて」

「どんな風にだ?」

「なんかこう……ああいうところって、ビシバシしてるじゃないか」

「そうだな」「そうなんですか?」

「そうすると自分で全部やりたくなっちゃうんだよね。可哀想で」

「ああ……」

「『自分がやった方が効率が良い』で部下を成長させられない上司の典型だな」


 そうなんだよ、と彼は指摘を素直に受け入れて、


「それで通常業務の他に経理も手伝ってたら、横領してるのを見つけちゃって」

「おっと?」「風向きが変わってきたな」

「問い詰めたら決闘になっちゃって」

「おっとっと?」「風が強くなってきたな」

「勝って罪は認めさせて、団長に推挙もしてもらったんだけど」

「おい! 話が変わってきたぞ!」

「落ち着けよ」

「『一生こういうことをやるのかな』って思ったら虚しくなって辞めちゃった」

「よし。収まるところに収まったな」

「肩組みに行くなよ雲泥だよ」


 でもそれ辞めない方が良かったんじゃないですか、とミハロは指摘した。オルキスみたいに不正を摘発できる人が政治の中枢にいた方が国のためになると思うんですけど、と。すると彼は答えた。綺麗に掃除してきたから大丈夫だよ。深く訊くのが怖くなり、そこでやめておくことにした。


「それで次は何の仕事に就こうかなって考えてさ。やっぱり、人に喜んでもらえる仕事がいいよなあと思って」

「ああ、それで遊園地に……ん?」

「いや違うな、さっき確かオルキスは――」

「ホストになることにしたんだ」

「ホスト編あるんだ! 大長編だな!」

「いいな。面白くなってきたぞ」


 そんなに面白くはないと思うよ、と困ったようにオルキスは笑う。というか、オルキスは困ると笑う。あまり騎士っぽくない言動なので色々就職中は苦労したのではないかとミハロは勝手に想像している。


「とりあえず入店してみてナンバーワンにはなったんだけど」

「こいつ全ての能力が高いな」

「荒野から出て大暴れじゃないですか」

「その土地の業界で、お客さんに対する悪質な詐欺行為が横行しているのを見つけちゃって」

「こいつ悪事を見つけるの上手いな」

「やっぱ騎士が天職だったと思うんですけど」

「問い詰めたら結局、対立していたホスト店と売上で勝負を決めることになっちゃってね」

「おっ、戻ってきたぞ」

「戻ってきたのはいいんですけどどういう世界観で動いてるんですか?」

「勝って罪は認めさせて、伝説になったんだけど」

「勝ってるし」

「悪質な詐欺行為を働いている奴らを相手に真正面から売上勝負で勝ったのか?」

「『こんなにお酒ばっかり飲んでたらお客さんの健康に悪いんじゃないかな』と思って『ホストクラブを喫茶店にしよう』って提案したら追い出されちゃった」

「優しさが仇となる」

「いや待て。法律で許された範囲の自己破壊行為を止めるのが優しさかそうでないかについては議論の余地があるぞ」


 じゃあ議論しますか、とミハロが訊ねると、後でな、とディーは答えた。本当に後で激論を交わす羽目になるのだろうなとミハロは思う。ディー・ヨドはそういう男だ。


「それで次は何の仕事に就こうかなって考えてさ。やっぱり、人に喜んでもらえる仕事がいいよなあと思って」

「リベンジか」

「そこ別にブレなかったってことはちゃんと接客楽しめてたんでしょうね」

「遊園地のマスコットの着ぐるみアクターになってみることにしたんだ」

「馬鹿野郎!!!!! マスコットの中に人なんか入ってるわけがないだろ!!!」

「いきなり元遊園地経営者としてのこだわりを表出させるなよ」


 ああごめんごめん、とオルキスはすぐさま謝り、うむ、とディーはそれを受け入れた。しかし傍から見ていたミハロの目にそれは納得しかねる流れに見えたので、バランスを取るために彼女はオルキスに「よっ、楽しませ王子!」とエールを送り、ディーには「ばーか」と舌を出した。オルキスは何もわかってなさそうな顔で「それほどでもないよ」と言い、ディーは二秒の間を開けてから「うむ」と頷いた。このようにして世界の調和は保たれている。


「でもその遊園地で人が消えるって噂が流れててね」

「遊園地にも影が差す」

「この世に安寧の地はないな」

「勝ったんだけど」

「何に?」

「悪しき闇の勢力とかだろ」

「『悪しき』か『闇』のどっちか片方に絞って良くないですか?」

「爆発したんだ」

「何が?」

「遊園地に仕掛けられた時限爆弾だろう。客の避難は何とかなったが、いかにオルキス・ハートウォーツといえど、爆弾を腹の下に抱え込んだくらいでは威力を殺し切ることができなかったのだろうな」

「そうなんだよ」

「そうなのかよ」


 なんで遊園地が爆発しちゃうんだろう不思議だね、とオルキスは言った。ああ全く不思議だ、とディーは言った。本当に不思議なのは、とミハロは思った。遊園地が爆発したことで素寒貧になった人間がふたりも自分を訪ねてきていることだった。


「で、色々あって全部お給料をもらう前に辞めちゃったからさ」

「働いた分は普通にもらえますよ、オルキス・ハートウォーツ……」

「全部普通じゃないところだったから。それに貯金も、募金箱とか見かけるたびにお金を入れてたらいつの間にかなくなっちゃって」

「優しさが牙を剥く」

「それで、そういえばミハロが『何かあったら自分を頼って!』って言ってくれてたなって思い出して」

「過去の自分に追い掛けられている気分はどうだ? ミハロ・クローバ」

「あんまり言葉って喋るもんじゃないなという教訓を得つつあります」


 でも、と。

 そこでようやく話は終わったとばかりにオルキスは座り直す。すでに冬の空気に冷め始めたカップを手に取って、改めてディーの方を見る。


「どうして君もここにいるんだい。ディー・ヨド」

「遊園地が爆発してな」

「へえ、僕と同じじゃないか! やっぱり僕たち、運命か何かで繋がっているのかもねえ」

「ふ。かもしれんな」

「こんなに嫌な運命もなかなかないだろ」


 そして運命の結果として自分のところにふたりが揃っているのも嫌だった。運命の輪に囲まれてぎゅうぎゅうに締め付けられているような気がする。やめてほしい。


「それで、その。申し訳ないんだけど何か仕事はないかな。ミハロ」

「……え?」


 そういうことを考えていたから、ミハロは問いかけにすぐには反応できなかった。


「ごめん。図々しかったよね」

「あ、いやいや! 別に全然! あ、仕事? てっきり私……」

「てっきり?」

「ディー・ヨドみたいにタカりに来たものかと」

「ディー・ヨド。君、そんなことをしに来てたの? ダメだよ」

「いいや。メインは落ちぶれた同類の姿を見て人生に喜びを見出すことであって、タカるのはあくまで第二以降の目的だ。金に困っていそうだったらもちろんタカらん。俺には良識がある」

「そう。ならいいか」

「いや良くはないですけど」

「ちなみに現時点でこいつは金に困ってなさそうなんだが、将来的に困ることが確定しているので、今回はタカらんことにした」

「確定していてたまるかよ」

「そうなの? ミハロ。共和国で学園で教授なのに……?」


 心配そうな顔でオルキスがミハロを見た。こんなに純粋な心配を向けられたのは本当に久しぶりで、ミハロは心を打たれた。だから話すことにした。


 かくかくしかじか、と。


「というわけで、学園の教授はほぼ間違いなくクビになっちゃうと思うんですが、悔いはありません! そして堅実に貯金もしているので将来的にお金に困る予定もありません。馬鹿が!」


 ディーに向かって吐き捨てて、


「さ、辛気臭い話はここまで! ディー・ヨドの言うことを認めるのも癪ですが、確かに私は上手く社会に馴染めませんでした! ここは社会に馴染めなかった者同士で、久しぶりに旧交を温めましょうか!」


 鍋しましょう鍋、とミハロは言った。

 オルキスは何も答えなかった。「あれ?」とミハロは思った。


 あ、鍋じゃなくてもっといい感じの……チーズフォンデュとかにしましょうか、とミハロは言った。

 オルキスは何も答えなかった。「あれ……?」とミハロは思った。


 見つめ合って、五秒。

 オルキスが口を開く。




「講義に来なくなった学生を放置するのって、ちょっと無責任じゃない……?」

 正論だった。






 教務主任ナノ・カッツェは『几帳面』や『規則主義』を絵に描いたような、あるいは文字で書いたような三十代中盤の女性であり、実際にその印象通り何事もテキパキこなす性質である。


 常に背筋は伸び、教官としての本分である講義準備など、学期の始まりの時点ですでに一から十まで終えている。朝七時半には出勤してコーヒー片手に最新論文に目を通し、夕方五時の講義を終えればそれから三十分の質疑応答の時間を済ませてすぐさま自転車で帰宅する。学園の敷地内に存在する職員寮に住所を置かないのは運動不足を解消し、さらに生活にメリハリをつけるためであるが、しかし帰宅してからの彼女の動きも常人の目から見れば十分テキパキしている。週に六日は自炊して、残りの一日はカフェテラスで専門書を読みながら少食に済ます。毎日決まった時間に眠り、決まった時間に起きる。ひょっとすると一年間の彼女の生活を再現してみれば、ぴったり全て同じ動作をしている日が神経衰弱の如く2ペアは見つかるのではないかという驚くべきテキパキぶりである。


 しかし今日、夕方五時を過ぎてもナノ・カッツェは学園の中にいた。

 学園の代表として、都市行政主催の横断連絡会議に出ていたからである。


 会議開始二十分前にナノ・カッツェは自転車で学園を出た。そして連絡会議で八面六臂の活躍を残したのち、再び自転車で学園に帰還した。門の前で彼女は細い腕時計に目をやる。昼、二時四十五分。普段より二時間後ろ倒しで講義を行うことはすでに学生たちに通知してある。全寮制で運営される学園の管理には色々と気を回すところも多いが、こうした時間の融通が利きやすいのは純粋に助かる部分でもあった。手帳を開く。『時間外 +2.0時間』と記録する。この時間の累計分、春期休講中にまとまった休みを取り、どこかに旅行に出るつもりだ。


 教室に着く。

 すでにほとんどが揃って席を埋めているのを見渡して、教壇に上る。


「はい、それでは十分後から講義を始めます。みなさん、今日はこちらのスケジュール調整に協力してもらい、ありがとうございました」


 きっかり十分後、ナノ・カッツェは前回の復習から講義を始めた。


 まずは概要と定義の確認。基本の定理は証明方法までしっかりやる。重要なことは何度も言う。板書を取らせることで、集中力を欠いた生徒たちにも多少なり講義の内容を頭に残させる。時にはいくつかの問題を生徒に投げ掛けて、緊張感を保つ。黒板に記した問題を解かせるときは多少の間延びを覚悟した十分な時間を取って、自主的な理解と整理を促す。


 一時間程度に一回は、休憩を入れる。

 それはもちろん体力的、知力的な消耗をリセットさせるためでもある。学生たちは席を立ち、思い思いに軽い体操をする。しかし実を言うと、これは単に学生たちのためだけではなく彼女自身のためのものでもある。


「…………ふう」

 きゅ、と水筒の蓋を閉めながら、ナノ・カッツェは椅子の上で溜息を吐いた。


 教員という仕事は、ある程度体力仕事でもある。一日に何時間も喋る上に、おおむね立ちっぱなしで過ごすのだ。喉は乾くし足はむくむ。昔から健康に気を遣う性質ではあったが、時折、「あと何年この仕事ができるだろう」と頭を過ることもある。少しずつ講義数を減らし、現場から遠ざかっていくこともあるのだろうか。


 時計を見る。

 十七時五十六分。最後の休憩。窓の外はすでに冬の夜。学生たちの顔色にも疲れが滲んでいる。


 目を瞑る。

 最後の一時間だ。学生たちより何より、まずは自分がしっかりしなくては。


 目を開ける。椅子から立ち上がる。気が早いけれど、自分も肩をほぐす運動でもしようとそう思って、ナノ・カッツェは。



「い、いけてる……?」

「いけてるな」

「ほら、言ったでしょ。ローブを被れば怪しくないって」


「……………………」



 教室の最後列にコソコソ入り込んできた、謎の不審者三人衆の存在に気が付いた。






「ミハロはそれでもいいかもしれないけど、講義に来なくなった子たちのことはもっと気にしてあげるべきだと思うな。だってそれって、ミハロが担当してたから講義に出なくなってるってことなんでしょ?」


 十七時四十二分。ミハロ・クローバは正論で詰められており、正論のない国に行きたいと思っていた。


「いや、あの……。まあ、多分、そう。そうなんですけど……」

「けど?」

「そう責めてやるな。オルキス・ハートウォーツ。学生が講義に出てこないのは正常なことだ。むしろ出ている方が異常だ。どうかしてる」

「おい講義に出てくれてる子のこと悪く言うなよ!」

「庇って損した」


 十七時四十三分。ミハロ・クローバは、やはり正論の存在する国の方が良いと思い直した。傲岸不遜を絵に描いたり文字にしたようなディー・ヨドはこのようによく大切なことを教えてくれる。本人は別にその大切なことに一切の興味がなさそうだが。


「なんかオルキスに言われたら急にそんな気もしてきた……。私ってもしかして無責任……?」

「きつい言い方になってたらごめんね。でも、事実だから」

「なんで今追い打ちかけた?」

「俺も追い打ちをかけてみるか。ミハロ・クローバ。お前は社会人に求められる必要最低限のあらゆるものを欠いている」

「それは別に色々諦めがついて気楽かも」

「えぇ……。ミハロ、大丈夫……?」

「二十歳にして終わり方が完成してきてるな」


 えーでもさあ、とミハロは口ごたえを始めた。口ごたえ。昔の彼女がとても好きだった言葉だ。今はそうでもない。する側からされる側に少しずつスライドし始めているのを感じるから。


「そりゃ私の講義がつまらないとか下手だとかそういうのがあるなら反省するし努力もするけどさ」

「でも自分でも『短期的な成績は上がりづらいかも』とは認識してるんだよね」

「はい……」

「それに今の誰も講義に出てきてない状況は、ミハロが掲げる『能力よりも意欲が先』って考え方にもそぐわない状況なんじゃないかな」

「はい……」

「大丈夫か。俺が代わりに反論しておこうか」

「試しに一回やってみて……」

「『いいんじゃないか、所詮はその学生の人生なんだし』」

「ダメだ……! 私は右も左もわからないバカなガキどもに対してそこまで冷酷な態度は取れない……!」

「どっちもどっちだからな」


 ちょっと待ってください、とミハロ・クローバは言った。十五歳のときの自分なんて思い返してみれば死ぬほどバカだったじゃないですか。いやそりゃあその時点で私は大抵の人間より卓越した頭脳を誇っていたわけなんですけど二十歳の今の私から見たらやっぱりバカガキだし目の前にいたらグーで殴ると思うんです。『若い』っていうのは絶対的にはともかく相対的には『バカ』を意味するって言い切っちゃっていいと思うんですよ。毎日毎日昨日の自分より賢くなろうっていう向上心を持って日々を過ごしてきた限り。たとえどんな人間でも、『若い』というたった一点のみで自分の身の丈を超えた愚かな選択をしてしまう可能性はあって、そうならないように周りの人間が助けるべきだと思うんです。あと普通に何かの事情で来られないだけなのかもしれないし。


 そうか、とディー・ヨドは言った。ちょっと優しい顔をしていた。


「志だけは立派だな」

「うるせえな!!! いいだろ志まで貧相になるよりは!!!!」

「それで、僕から提案なんだけどさ」


 ミハロがディーを七階の外に押しやっているのとは全く無関係の穏やかな口調でオルキス・ハートウォーツは手を打った。十七時四十九分。にっこりと穏やかな微笑みを浮かべて。こうして役に立てるなら今日自分がここに来た甲斐もあったという調子の、聖なる声色で。



「一度、他の教官の授業を見にいってみるっていうのはどうかな。ミハロの講義がいくら面白くても、学生たちの求めるものとは違っちゃってるのかもしれないし。何か参考になるものが見つかるかも」






「ミハロ・クローバ教授。何をしているんですか、あなたは」

「はい……すみません……」


 十七時五十七分。ミハロ・クローバは廊下に出されて問い詰められていた。


 途中までは順調だった、とミハロは思っている。オルキスに訊ねられた。誰か参考になりそうな人はいないの。じゃあ、とミハロは思い浮かべた。ナノ・カッツェ教務主任。接点はほとんどないが、教務主任という肩書はなんだか強そうなので講義も上手そうだと思った。そして連鎖的に思い出した。これから出張に行く、と言っていたこと。もしかするとそのために時間を後ろ倒しにして、今もまだ講義をしているかもしれない。


 善は急げ、ということになった。とりあえず自分だけで潜入してみようかと思ったけれど、つい数時間前に「成績低迷の言い訳を用意しておけ」と言い渡された身で堂々途中入室も気が引ける。するとディー・ヨドが言った。そのでかいローブのフードを被って変装すればいいんじゃないか。さらにオルキス・ハートウォーツが言った。変装がアリなら僕たちも一緒に行ってみようよ、違う見方ができるかも。


 そして順調だと思っていたのが全て錯覚だったということが、現在は発覚している。


 教壇から降りてきたナノ・カッツェに「ちょっとこっちに」と呼び出されて出てきた六階のさっむいさっむい廊下。そこでミハロは神妙に立っていた。


「そちらのふたりは……そちらは昼にもお会いしたと思いますが、学外の方ですよね」

「はい……そうです」

「入場パスを首から提げていないようですが、ちゃんと届けは出していますか? クローバ教授のご友人ということなら怪しい方ではないと思いますが、手続きはしっかりしてください。結界の仕様上、確かに学内に部外者の方が入るのは黙認されている節がありますが、いざというとき学生たちの安全管理の問題に発展する可能性もあります」

「はい…………」


 怪しいか怪しくないかで言うと怪しいような気もしたが、一旦ミハロは口を噤んだ。横のふたりも口を噤んでいた。呼び出されて後をついて歩く間に「余計なことは何も喋るなよ」と釘を刺しまくり、磔にしておいたのだ。


 ふう、とナノ・カッツェは溜息を吐いた。腕時計を見た。十七時五十八分。


「それで?」

「え」

「何か用があって講義室まで来たのではありませんか。昼に伝えたこともありますし。講義の再開は十八時五分を予定していますから、あと七分の余裕があります。もし急ぐようであれば、今ここで聞いてしまいますが」


「あ、」

 の形にミハロは口を開いた。こういう流れになると思っていなかったから、咄嗟に質問が出てこなかったのだ。


 ナノ・カッツェ教務主任。一年くらい前に、一度だけ挨拶をした。教務主任というすごそうな肩書を持ちながら、実を言うとミハロは彼女と仕事上の接点をほとんど持っていない。


 というのも、ミハロは世界を救った鳴り物入りの天才魔法使いという扱いでこの学園の教授職に配置され、ゆえに上にも横にもほとんど学内での繋がりを持っていないのだ。昨年の学期末に、ちらっと前任の講義を聴講した程度。元より学園全体が各教官ごと講義の独自性を担保しているのもあって、だからほとんどミハロは、目の前の彼女のことを知らないと言い切ってしまって構わない。


「えと、」

「……?」


 意外に思って、言葉が出てこない。

 単に「ちょっと厳しそうな人だな」程度の認識しか持っていなかった相手だから、どこからどこまでを話せばいいのか、話していいのか、わからない。


「もし言いにくいことでしたら、後で時間を調整――」

「能力と、意欲」


 咄嗟に出たのは、結局。


「どちらを教えるべきだと、思いますか」

 自分でも少しだけ、確信が持てていなかったからなのかもしれない。


 質問の脈絡が読み取れなかったのだろう。ナノ・カッツェは面食らった顔をした。


 けれどすぐに彼女は、いつもの冷静で真剣な顔つきを取り戻す。そうですね、とまるで練り上げた原稿を読み上げるような真摯さで。


 彼女は、口を開く。




「難しい問題ですが……最近、思うようになりました。学生の意欲まで自分の思い通りにしようというのは、自分の支配欲や、自惚れの現れなのではないかと」




 そこから先の会話を、あまりミハロは覚えていない。


 再び講義室に戻っていったわけだから、おそらく「聴講させてもらってもいいですか」くらいのことは言ったのだと思う。十九時ぴったりに講義は終わったから、おそらく廊下にナノ・カッツェを引き留め続けてしまったということもないのだと思う。けれどたったそれだけのことが、朧げになるくらいには。



 意識がぼんやりしてしまうくらいには、衝撃を受けて。

 ぼんやりしたままでも内容を覚えていられるくらいには、ナノ・カッツェの講義は丁寧で、わかりやすかった。


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