2話 私の人生終わりだよ



 話を率直にまとめてみると、以下のようになる。



①ミハロ・クローバは学園の『教授』として講義を持っている。


②本人の年齢や人気の問題から、特定の分野をどれかひとつというわけではなく、十四~十五歳程度の子どもたちで構成されるひとクラスの講義全体を担当している。


③担当した学生の成績が終わっている。


④あいつ追放にしようぜ!という機運が裏で高まっている。


⑤表にも出てきた。


⑥時代が悪い。



 以上、まとめ終了。







「うおおおおおおやってられっか!!!!!」

「ここ、飲酒OKなのか」

「懲戒になります!!!!!」

「俺には何のデメリットもないということだな」


 共和国。学園。

 残酷な宣告のあった教官室で。


 ふたりの人間がソファに向かい合って座っている。片方はテーブルの上の瓶をひったくると、自分の分のカップにドボドボと注ぎ、ぐいっといき、それからひどく微妙な顔をする。「これアルコール入ってるか?」ともう片方に訊ね、「入ってません」と答えられるとさらに微妙な顔をする。


「アルコールってなんか不味いから飲みません! 懲戒になるし! 飲めるとよくわかんないおっさんまみれの会に連れてかれるし!!」

「じゃあなんだこれは」

「ぶどうジュース!」

「じゃあなんだそのお前の有様は」

「アルコールが入ってなくてもこうなるだろ! あんなこと言われたら!!」


 もう片方は片方よりもずっと豪快だった。彼がテーブルの上に置いた瓶をさらにひったくった。きゅぽん、と栓を抜くと直接ぐびっといった。そして真顔になって口を離し、そっと瓶を置いた。こういう風に飲むものではない。彼女の頭にはこのぶどうジュースの値段とここ二年くらいまともに健康診断を受けていないことへの不安のふたつが過っており、前者についてはそれをどぼどぼ注いだ素寒貧の男への憎悪を煽り、後者については安心してがぶ飲みするために健康診断に行こうという機運を煽った。


「で、」

 どぼどぼ注いだ素寒貧の男――ディー・ヨドが言う。


「どうした。素寒貧予備軍」

「なんだ? 急にニヤニヤしやがって……」

「いや、俺の今日来た本当の目的はこれだ」

「は?」


 実を言うとな、と彼は。

 やけに堂に入った優雅な動作でぶどうジュースに口を付けて。


「俺は最初からこうなると踏んでいたんだ」

「……何?」

「お前ら全員ちょっとおかしかったからな。どうせ社会に適応できずに人生が終わっているだろうと踏んで、肩を組みに来たんだ」


 言われたことの意味を、この部屋の管理者――ミハロ・クローバはじっくり噛み締めた。

 どのくらい噛み締めたのかを具体的に表すと、口の中からぶどうジュースの後味が七割方吹き飛ぶ程度の時間をかけて、噛み締めた。


「ちょっと」

「ん?」


 噛み締めた後、ミハロはゆっくり歩いてディーの隣に立った。両手の平を天井に向けて、二度三度、上げる動作をした。案外と素直な男なので、素直に従って立ち上がってくれた。


「ちょっとこのへん立ってもらっていいですか?」

「ここか?」

「そう。このへん」


 窓際に立たせた。窓の鍵をくるくると回して開けた。両手で窓枠を引っ掴んで、ふんっ、と裂帛の気合を込めて、がっちゃんがちゃんと窓を開けた。


 それから。


「えいっ」

「うおぉおおおおおおおおおっ!?」

 ディーの両肩を思い切り突き飛ばした。


 さしもの大剣士も七階から突き落とされかけると驚愕するらしい。これはミハロにとって意外な発見だった。ものすごい勢いで突っ張りを八回程度行ったためにディー・ヨドの肉体は九割九分九厘空中に投げ出されていたし、そのあと十割にもなったが、最終的には指で壁に張り付いて登ってきた。大剣士ともなるとここまでのことができる。これもミハロにとって意外な発見だった。


「殺す気か、お前!」

「そうだ! 文句あるか!」

「あるだろ……」

「あるか……」


 あると言われれば聞くほかなく、ミハロはディーからの苦情を承った。人を殺そうとするな。はい。よし。でもなんかムカついて七階から突き落としたくなっちゃったんです。なら仕方ないな。はい。このようにして対話は世界を救ってきた。


「で、お前はどんな風に社会に適応できてないんだ。七階から学生たちを突き落としまくってるのか」

「講義会場は一階のさっむいさっむい部屋なので突き落としたくても突き落とせないです」

「まず突き落としたくなるなよ」

「内心の自由! 内心の自由!」


 ふたりは再びソファに座り直す。ぶどうジュースの時間は終わりだ。再びお茶を淹れる。そして窓を開け放していたために寒風がびゅーびゅーと吹き荒び、気を遣ったディーが再び立ち上がり、ふんっ、と窓を閉め直してくれた。ばきっ、と音が鳴った。それいつも鳴るんで大丈夫です、とミハロは言った。ここ壊れてるぞ、とディーは冷静に指摘したが、目も向けなかった。ディーは肩を竦めて、それから席に着いた。


「語れば長い話になるんですが……」

「あえて短く結論から行ってみるか。論文みたいにな」

「学生たちの成績が上がらないんです」

「おい全然面白くないぞ。退屈な話は順を追って聞く気にならん。もう一声行こう」

「えぇ……? じゃあしかも全員退学しました」

「よし。いい感じになってきた。さらにもう一声!」

「さらに? えーっと、退学した学生たちが学園の一部を占拠して……」

「して!?」

「あらゆる銀行を襲うべく、巨大ハムスターの群れを育成してるんです!」

「ようし、俄然興味が湧いてきた! 順を追って話してみろ!」

「話せねえよ九割嘘なんだから」


 そんなことを言ったらこの世の九割は嘘だぞ、とディーは言った。どんな世界認識で生きてるんだよこいつは、とミハロは思った。会話を通して自分自身の世界認識まで歪ませられかねないと危機感を覚え、何らか確からしいものを見つめて脳を休めたくなった。


 というわけで、時計を見た。


「うわっ、もうこんな時間!」


 ばたばたと彼女は慌て出す。つぶさにその慌てぶりを見てみると適当なリズムに合わせて右に左にうろちょろしながらローブの裾を傷めているだけだったが、とにかくえらいこっちゃになっているということだけは言葉の通じない相手にも伝わるであろう動きをした。


「午後の講義始まっちゃうんで、続きは後でもいいですか!? あわよくばこのまま帰ってもらってもいいですか!?」

「別に帰るのもやぶさかじゃないが」

「いや嘘! ひとりだと後で感情の処理ができなそうなのでこの部屋で寂しくぬいぐるみのように待っていてください!」

「いや」


 言って、すっくとディーは立ち上がる。ハンガーを手に取る。肘の擦り切れたジャケットを手に取る。びしっ、と襟を整えて、彼は。



「俺も行こう。面白そうだからな」






「来ても何も面白いことはありませんよ」と五回伝えたが、「いやそんなことはない」と五回否定され、六回目は「なんだか自分の講義が面白くないって自分で言ってるみたいだ……」と落ち込みかけたので言わないことにした。


 だからミハロ・クローバは、ディー・ヨドとともに階段を駆け下りていた。七階から一階の講義室までの道のり。始業開始の一分前。もはや足音はスタタタタタとかスッタカタンタンタンとかの域には留まらない。正確に表現しよう。ズドドドドスッターンターンターン。途中から階段で幅跳びを始めている。そのくらいの急ぎ方だった。


「このローブ、めちゃくちゃ動きにくいぞ。お前よくこんなもの普段から着てられるな」

「人の服借りといて文句ですか!」

「いや純粋に感心してる。俺より運動センスがあるんじゃないか。それか忍耐力」


 褒められて悪い気はしなかったので、とりあえず鼻を高くしておく。


 ミハロの隣を走るディーは、彼女とそっくりのローブを着ていた。というか彼女の私物を着ていた。オーバーサイズ。ミハロより頭ひとつふたつは大柄なディー・ヨドがフードまですっぽり被ってなお裾余りのそれは、彼女が彼に「いやその顔で学園内を闊歩してたら騒ぎになるでしょう」「さっきはバレていなかったが」「教務主任は人の顔をあんまり覚えない人っぽいです」というやり取りの末に着せたものである。


 ズドドドドスッターンターンターンターン!

 最後のターンでふたりのローブが翻る。着地。きゅ、と靴裏が床を捉え、それからさらに爆速のダッシュが始まる。残り十秒。六秒。四、二、一。


「はい! それじゃあ午後の部を始めます! 席に着いて!」

 間に合った。


 がらり、と戸を開けてミハロは入室する。信じられないことにあれだけの速度で走ってきたにもかかわらず、戸を潜った瞬間には汗も何も引いているし、普通に歩いてきたようにしか見えない。


 ミハロが言ったとおり、それは一階のさっむいさっむい部屋だった。扇型に広がる階段教室で、すごく広い。百人くらい入る。そして三億人分くらいの隙間風も入る。広大な容積は寒さを貯蔵するのに十分で、冬であれば即死レベルの寒さを放ったことであろう。そして実は今ミハロたちが身を置く共和国の学園には冬が来ているため、実際に即死レベルの寒さが放たれている。


 即死寸前の凍える手で、ミハロはチョークを手に取った。


「さて、それじゃあ午前中の続きから始めましょう! 最初は魔法体の相似の話から始まって、高級魔法体に関する実証実験を相似形の低級魔法体を扱うことで効率化する方法をお話ししたと思います。ここまではとりあえずいいですよね。で、さらにこの低級相似体を扱うに当たって興味深い事例があるというところで……クゼくんなら知ってるかな。『オリニガスの現れぬ過ち』っていうんだけど」


「いえ。すみません、不勉強で」


「ううん、全然! まだまだ私が教えられることがあるみたいで安心しました! このオリニガスは、実は学園生なら誰でも知っているような人です。湯沸かし魔法石を作った人! あ、これ魔法史の穴埋め問題に出たりするから頭の片隅に置いておいてね。で、この人の作った湯沸かし魔法石っていうのは実は氷河期を終わらせるために作られた『ネ・デラ人工火山』の低級相似体を効率化することで当時の経済戦を戦い抜いたものなんだけど、そのときものすごく勢いがあった開発研究市場でオリニガスと争っていたのは、彼女の幼馴染だったんだ。タマラって言うんだけど、彼女はこの湯沸かし魔法石に対して当時の大手新聞『アラ・カルタ』を通して攻撃的な指摘をしたんだよ。『オリニガスが改造した低級相似体は五次元空間上で理想的に働かない』って。なんじゃそりゃって思うでしょ? 五次元空間上でってどういう指摘なんだって。実際当時のオリニガスとタマラは犬猿の仲だったらしくて、この指摘はろくに取り合いもされなかったんだけど、晩年になると不思議とふたりは昔みたいに仲良くなってね。春の日のバルコニーでひ孫たちが草遊びするのを見ながら、ふと思い出してオリニガスがタマラに訊いたんだ。『そういえば、あれって結局何だったの?』って。まさかそのとき、もう九十歳も近い自分たちがあの『アーカーラの時間大定理』を証明する糸口を掴まえているなんて気付かずに……。

 さ。興味は引けたみたいだから、時間大定理と熱魔力学の必要な部分をかいつまみつつ、この低級相似体を扱うことの面白さと奥深さを学んでみようか! あ、あと実際に相似体を使った商売をするときに必要になる、相似体周りの特許権についての知識もさわりだけね」


 そのようにして。

 時計の針は、さらに進んでいく。






 それから四時間喋りっぱなしだった魔法使いは、ありがとうございました、と最後の学生が頭を下げて教室を出るのに「また明日ね~」とにこやかに手を振ると、ばたんと扉が閉じた次の瞬間にゴッホンゴッゴンウエッホンホホンと慎みも何もない咳を連発した。


「お疲れ様」

「ゴッホンゴッゴンウエッホンホホン!」

「無理して喋るなよ……」


 まあ飲め、と言ってローブを着た怪しい男が水筒を手渡してくれる。ローブを着た怪しい男に手渡された水筒ほど飲むに値しないものは中々ないが、ミハロは非常に心が広く、またこの怪しい男との付き合いも悲しいかなある程度深いがために、ありがとうを意味する新しい言葉ゴッホンゴッゴンウエッホンホホンを唱えるとそれを受け取り、傾け、最後の一滴に至るまでを一息に呑み干した。


「ぷはーっ! 渇きすぎてミイラになるかと思った!」

「毎日ミイラになるリスクを背負い続けるよりも、水筒を持ち込んだ方が命に優しいと思わないか?」

「今日は急いでただけです!」


 普段は持ってきてますよこーんなでっかい水筒をね、とミハロは自分の頭頂部よりやや高いところから地面まで、架空の瓶の輪郭ををなぞるようにして両手を動かした。そして「やべ、盛りすぎた」と思った。「そうか」とディー・ヨドが普通に受け流したので、逆にちょっと傷付いた。普段からこの温度感で話を聞かれていたのだろうか。


「で、」

 それはともかく。


「どうでした?」

「ん?」

「講義ですよ。後ろの方の席でじっと聞いててくれたじゃないですか。寝てたわけじゃないなら、ほら」


 カモン、とミハロは両手をくいくい動かす。求めている。感想を。飢えている。感想に。


 そうだな、とディーは顎に手を当て、正確な記憶を辿るようにして少しずつ言葉にしてくれる。


「お前、早口だよな」

「うるせえよ」

「いや褒めてる。滑舌も良いし、だらだら話されると眠くなるからな。正直話の枕のところでは怒涛の専門用語の嵐に諦めかけたんだが……」

「え。マジすか。あんな実用的かつ知的好奇心をくすぐる導入で?」

「俺は魔法をやらんからな。しかし、講義自体は見事だったんじゃないか。どこでそういう知識を身に着けるのか知らんが、魔法理論の内容だけじゃなくその提唱者たちの人生や社会との繋がりまで克明に描き出す話術には思わず感動したぞ」

「よし、もう一声」

「特にオリニガスが『アーカーラの時間大迷宮』で意識を幼年に戻されてからが良い。タマラとの確執が生まれたきっかけの事件。彼女にとってはひどく重大なものだったがしかし、時間がそれすら薄れさせるという事実。その意味。理論とドラマが渾然一体となって奏でる重層的なストーリーテリングは、さながらふたりの九十年の生涯を描く大河物語のようだった」

「へへへ……」

「これならいつ学園を追われてもストリートお喋り人間として生きていけるぞ」

「おい」


 しかし不思議だ、と空になった水筒を受け取りながらディーは言った。


「内容が悪いようには思えなかったが。門外漢の俺にも相似体を扱う意義とその際の注意点はよくわかったぞ。学生の成績が低迷する理由がわからん」

「ああ……。まあ、それは……」

「それとも実際はあれはただの基礎なのか? 気になるな。教科書を見せてくれ」


 あっ、とミハロはディーが手を伸ばすのに手を伸ばした。

 しかし途中で観念したので、ディーは普通に教科書を手に取った。広げた。


「…………?」

 怪訝な顔をした。


「相似体……このページだよな」

「はい」

「アーカーラの時間大定理もタマラとオリニガスも、そもそも低級相似体という概念すら書いていないんだが」

「はい」

「異様に単純な平面図形同士を見比べて、どこがどのくらいの長さか求めてみろという問題が下のところに集中してるんだが」

「うるせえ!」


 がっ、とミハロはその教科書をひったくった。バーン!と控えめに黒板に押し付けた。


「教科書の内容が知りてえなら教科書を黒板に丸写しするゲームでもしてりゃいいだろ! 教科書に全部書いてあんだから!」

「教師の存在意義の半分くらいを否定したな」

「ねえよ教師の存在意義なんて! 私だって図書館で本読んでただけで誰にも教わらねえまま教壇に立ってんだから!」


 ワハハハハハ、と心底愉快そうにディー・ヨドが笑った。

 その心底愉快そうな笑いぶりのあまりに性格の悪そうなのを見て、ハッとミハロは我に返った。我に返り、「うお~~~~」と誰もいなくなった地に響く悲しいサイレンのごとき唸り声をあげ、両膝を抱え込むようにうずくまった。


「いや……わかってるんです。本当は」

「何をだ」

「最初の頃はマジで教師とか飾りだと思って教科書読み上げてたんですけど……。途中で気付いたんです。思ったよりもガキってバカだし怠惰だし、ちゃんと誰かが責任を持って導いてやらなきゃいけないんだって」

「何らかの気付きを得てなおその傲慢さのラインに立っているのか……?」


 じり、と慄きの顔でディーが一歩引いた。それにも気付かないまま、「しかしですねえ!」とミハロは鬼気迫る顔で叫ぶ。


「やらないんですよ! 宿題を出しても!」

「そんな顔で普通の教師の悩みみたいなことを言われてもな……」

「学園に入ってきたのに勉強する気がないってどういうこと!? しろよ! 何のためにここに来てんだよ!」

「肩書のためだろ」

「できなくて当たり前だよ! やってないんだから! 遅くても速くても走らなきゃゴールに着くわけないよ! そう思い、私は気付きました」


 急に真顔になってミハロは立ち上がる。ディーがさらに二歩下がる。それにも気付かないまま「大切なのはですねえ」としみじみ言う。


「目の前の勉強を何となくこなせるようにすることじゃない。これからの人生でどんなに些細なことでも『あれやりたいな』『これやりたいな』『こんなことになって困ったな。どうにかできないかな』と思ったときに、積極的に『よし、勉強してみよう!』という解決案を自然に芽生えさせることができるかどうかなんです。能力よりも意欲が先」

「お前たった一年の教師生活ですごいところに到達したな」

「だからとにかく面白い話になるように毎日寝るまで頑張って考えてるんです! 一日の講義のために毎日四十冊くらい本を読んで! どうすれば今後何かを学びたいと思ったときに必要になる基盤をすんなり構築してあげられるか! 実社会でどんな活かし方ができるって言えば退屈にならずに聞けるか! 結局ある程度人間の話をしていた方がウケが良いし記憶に残るよなとか、色々考えているんです!」

「それでどうなった?」


 ぱた、とミハロは口を止めた。

 それからぐるりと見回した。扇型の階段教室。ついさっきまでの講義風景を思い出して、噛み締めるように。そして言う。




「講義に来てくれる学生が、ひとりだけになりました…………」

「少ないと思った」




 そう、今日の講義が始まってから――正確に言うなら、今月の講義が始まってからずっとのことだった。


 前からちらほらと講義をサボる学生たちはいた。ミハロは思う。別にそのことは良い。試験で結果さえ出せるならどう勉強するかは大した問題ではない。しかし気になるのは自分で「ヤバい……私の講義、面白くなりすぎてる!」と感じ始めてからそのサボりが顕著になり始めていること。顕著になりすぎて、とうとうマンツーマン指導と化していること。


 午後の講義の始まりで、ミハロはこう訊ねた。「クゼくんなら知ってるかな」あれは特定の学生に謎の知識マウントを取りに行ったわけではない。ひとりしか教える相手がいないので、手っ取り早くどこからどこまでを教えるべきなのかを確認しに行ったのだ。最後の学生。「また明日」と挨拶をしたけれど、明日また会えるかはわからない(もっともそれは全ての人について言えることであり、だからこそ人は誰かと共にいることをかけがえなく思うのだが)。


「どうすればいいと思いますか? ディー・ヨド……」

「俺は自分と同じくらい落ちぶれている人間を見ると嬉しくなるから、そのままでいてほしいんだが」

「そこを何とか」

「うおぉおおおっ! 窓の外に突き落とそうとしてくるな!」

「ここ一階なんで! 一階なんで!」


 結果として一階の窓から突き落とされ、頭は枯れた芝生の上に、足は窓枠に引っ掛けたままの姿に陥ったディー・ヨド。彼は傲岸不遜を絵に描いたり文字に書いたりしたように腕を組み、「そうだな」と呟く。


「しかし……聞いていればお前は、何も適当に講義をしているわけではないんだろう」

「はい」

「実際聞いていて面白かったしな」

「はい!」

「確かにあの教務主任や学園から指摘されたように学力は低迷しているわけだが」

「はい……」

「しかしそれもまた、『短期的に成績を上げる』のではなく『長期的な学びの基盤を整える』ことの方が重要だという確固とした信念に基づいているわけだろう」

「はい」


 そうなると、と。

 ディーは足だけでぐいっと起き上がって、再び教室に入ってくる。ミハロの前に立つ。そのとき、ミハロ・クローバはかつての光景をその目に見た。



 ああ、この。

 やたらに不敵な笑みに、あの旅でも救われたことがあった、と。




「開き直って、クビになるまで好きにやってみればいいんじゃないか」

「確かに!!!!!!!」




 こんなに簡単なことだったんだ。ミハロは思った。わかってみれば何のことはない。正しいことをしているんだ。今は評価されずともいつか評価される。死後とかに。いや今教えている学生たちとはほとんど年が離れていないから自分が死ぬ段階ではもうみんなすっかり死に絶えているかもしれないけれど……待って。『死後評価される』が学生たちの『死後』を指すなら私が生きてる間に評価のタイミングも来るってこと!? ひゃっほう! 二百歳まで生きてやる!


 なんだか気が楽になりました。そうディーに告げたとき、ミハロの心は本当に晴れやかだった。教科書を持つ。さっむいさっむい教室を出る。なんでお前教室が一階なのに教官室が七階なんだ嫌われてるのかと失礼な問いかけをされても心は凪いでいて、三階の踊り場から窓の外に押し出す動作は非常にスムーズ。


 もちろん、講義開始に間に合わせるべく幅跳びをしまくった行きの道よりはゆっくりだけれど。しかし足取りはひどく軽やかだった。全ては解決した。退職を心に決めた日の空より美しいものはこの世にない。あったら教えてほしい。知ってたらすごい。ミハロは踊り場の窓から差し込む冬の光に照らされながら、それにしても久しぶりですねえ教官室に寝袋がありますから今日は泊まっていってくださいよどうせ宿もねえんだろうふふあはは、と懐かしくも麗しい会話に花を咲かせた。



 教官室に戻ると、扉の前でもうひとり行き倒れていた。






「よう、クゼ。今日も真面目ちゃんは律儀に講義に顔出しかよ」

「む」


 クゼ・ピクセルロードは『委員長』や『四角四面』を絵に描いたり文字に書いたりしたような少年である。

 眼鏡のフレームから髪の毛先まで全てが四角いと言っても過言ではない。何なら直方体と称することもできる。できることは全てしてしまえばいいというものではないが、ここでは試しにしてみよう。クゼ・ピクセルロード。直方体の少年。


 彼は四角い教科書を小脇に抱えて、四角い廊下を歩いて四角い学生寮に帰ってきた。そして別に全体的に四角いからと言って丸い場所を忌み嫌うというわけでもないので(扇形の教室にしっかり顔を出せていたことからも明らかだ)、その足で私室へと向かう前に、丸っこい談話室に顔を出した。


 クゼ・ピクセルロードは声のした方を見る。

 そこには見慣れた顔がある。同級生。


「そう言う君は、今日も講義に出なかったな」

「まあね。色々やることがあるもんだからさ」


 クゼは同級生の席の前に座る。暖炉の前。ぱちぱちと炎弾けるいっとう暖かい場所はその同級生の定位置で、冬の間はずっとうっすらとした橙色に染まっている。


 もしもこの場にディー・ヨドがいれば気付き、声をかけたことだろう―――よう、さっきは世話になったな。何を隠そうこの同級生こそ、彼をこの学園の中に招き入れたその学生であるのだから。


 しかしこの場にディー・ヨドはおらず、だから違う話題が選ばれる。

 椅子の上で立膝を作ったその学生は、ぴぃん、と高い音を鳴らして、指先に一枚のコインを弾いた。


「今はお勉強より、コインに夢中でね」

「そのコインが床に落ちたが」

「へへ……。手元を見ない方がカッコイイと思ったんだけど普通にキャッチミスしたぜ……」


 よいしょ、と立膝を解いて床の上に落ちたコインを学生は拾う。その対面で「さて」とクゼは、早速さっきの講義で取ったノートを広げ出す。


 おいおい、と学生は言った。


「早速お勉強の時間かよ。そんなにあいつの講義が面白かったか?」

「信じがたいほど面白かった。過去最高傑作だ」

「お前そんな講義に出たくさせるようなこと言うなよ~!」


 ずるり、と学生が椅子から腰を滑り落した。本当に腰が地面に着きそうになって、そこから慌てたようにずりずりと膝を左右に振って元の姿勢に戻る。それでも七割程度は仰向けになりかけたような姿勢のまま、天井に向かって深い溜息をついた。


「出ればいいだろう。普通に」

「やだよ」

「先生が可哀想だと思わんのか。夜な夜な凄腕の講談師を梯子して、僕たちのために話芸を磨いてくれているんだぞ。伝説の魔法使いが」

「だからだよ」


 ぴっ、と学生はクゼを指差した。


「最初のころのマジで退屈で灰でも食ってる方がマシって感じの講義から一変。たったの一年だぜ?」

「すごい努力だ。僕も負けていられん」

「しかも元が超優秀だから、中等科三年のクラスを相手に高等魔学の要所まですんなり呑み込ませてくれると来た」

「最高だな。あ、この間はありがとう。高等科の問題集を仕入れてもらって」

「いいよ。解けんの? あれ」

「問題形式に対応するには多少の反復が必要だが、理論については全く問題ないな。むしろこんなに簡単で良いのかと不安になる」

「と、来るわけだ」


 だからよ、と学生は言う。賢しげな顔で。


「理論上あいつの講義はどんどん面白くなり、しかも聞いているだけで万物を理解できるようになる!」

「なるか?」

「だから理論上、学園に留まっていればいるほど効率が良い!」

「そうか?」

「つまり理論上いま必要なのは馬鹿真面目に講義に出て目先の能力を高めることじゃねえ……留年しまくるために必要な資金作りだ! 目指せ百留!」

「そうかなあ……」


 クゼは首を傾げたが、強くは言わなかった。ガッツポーズをしてガッツを表明している学生の後ろを、また別の学生が通る。肩を叩かれてガッツポーズの学生が振り返る。「おー。どした」「なんかヒマワリの種とか全然食わねーんだけど。どうすんべ」「マジ? んじゃ生物科の資料適当に浚ってくるわ」「わり。頼むわ」そしてクゼの方を見てさらに通りがかった学生が訊く。今日どうだった? 泣けた。そんな講義に出たくさせるようなこと言うなよ~! 去っていく。


 ガッツポーズが下ろされる。

 大袈裟に肩を竦める。


「ま、こういう調子なわけ。お前もこっち来れば? クラス全員で百留して、一緒に魔法を極めようぜ」

「遠慮しておく」

「なんでだよ」


 ぴた、とクゼはペンを止めた。

 前から思っていたんだが、と真っ直ぐに学生を見つめた。


「その作戦、いつまでも先生が学園にいてくれる前提じゃないか」

「……? どゆ意味?」

「他にやることを見つけて、先生が学園を去ってしまう可能性もあるだろう。今のうちに聞いておかないと、一生聞けなくなってしまうかもしれないぞ」


 口がぽっかり開いた。

 それから三拍遅れて、薪のように乾いた笑いが談話室に響いた。


「はは! んなわけねーじゃん! あんだけ優秀な魔法使いをどうやったら学園が手放すんだよ! どっちかがよっぽどの馬鹿か、ものすげえ問題を起こしまくるかしねえとありえねえって!」

「それは確かにそうだが――」

「ていうか六留目くらいでこっちが追い出される確率の方が高えって……」

「そこはちゃんと認識してるんだな」


 というか、と。

 少しばかりそこで、本気でたしなめるような口調になってクゼは、


「そんなに気に入っているなら、支障のない範囲でいいからもう少し講義に顔を出せ。最近の先生、ずっと寂しそうにしているぞ」

「それはどうでもいい」

「なぜ」

「だってあいつ、自分以外の人間のことうっすら馬鹿だと思って見下してそうじゃん」


 すごい偏見を言うな、とクゼはやや仰け反った。心当たりが出てしまうと嫌なのか、あまり記憶を探った様子はないままに「そんなことはないと思うが」とも言った。


 あんの、と言って学生は立ち上がった。うん、とひとつ大きく背伸びをして、んはっ、と戻して。


「んじゃちょっと作業してくるわ。今日も深夜までやるつもりなん?」

「いや、二十二時には切り上げる。『休むのも勉強のひとつ』と教えてもらってな。実践中だ」

「ふーん……。今日たぶん夜食でピザ取るからさ。腹減ってたらこっちにも顔出せよ」

「何時だ?」

「んー……んじゃ二十時。どう?」

「顔を出すよ」

「ピザ食ってから二時間でベッド行きか?」

「……今日だけは、四時間かな」


 はは、と学生は笑う。

 それから学生ローブの裾を翻すように、勢いよくポケットに手を突っ込んで、




「わかるよ。魔法を勉強すんのって楽しいもんな。このあいだまで、全然そんなこと知んなかったけど」



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