第三話『ハゲタカの夜』その1
人間は、驚異的な速度で異常事態に慣れていく。
こんな状況で大槻勢十郎が平常心を保っていられたのも、この数日で異常に慣れてしまったせいだろう。
彼は木刀を構える黒鉄の脇をすり抜けて、侵入者達と向かい合った。
「で、どちらさんだ?」
その嵐を連れてきた天狗男は、
ところが勢十郎は、ある『致命的なもの』を発見してしまう。
「あー、了解了解。……あんた、まともじゃねえな」
紳士にはステッキと相場が決まっているが、天狗男の右腰には大小の日本刀が差し込まれていた。二刀は直接ベルトに挟んでいるわけではなく、奇妙なホルスターに収まっており、鞘に余計な傷が付かないよう配慮されている。
天狗男は直立不動のまま、同じ言葉を口にした。
「刀を売ってもらいたい」
「……見りゃ分かると思うけど、ここ、ただの家だぞ?」
「刀を売ってもらいたい」
「じいさんの知り合いか? 俺、まだここに来たばっかでさ、よく
話をはぐらかそうとした途端、勢十郎は何者かに
「勢十郎どの!?」
「あわてんなよ、黒鉄。……ああ。てめえも、まともじゃなさそうだな」
凄まじい力で勢十郎の体を押さえつけるのは、一見、荒事には向かなさそうな、
美しい狐の面を被った、着流し姿の細身男である。真っ
「で、最後の一人は……、
天狗男の影に隠れていた三人目の侵入者を見た途端、勢十郎は目を丸くした。
前述の二人と違い、この場には不釣り合いなほど小柄な少女だった。キャミソールにショートパンツという、どこにでもいそうな服装だが、なぜか彼女は航空用のゴーグルで目元を隠していた。
勢十郎は何気なく、少女の足元を見る。
色白のふくらはぎから足首まで、何もかもが小さく細く、赤いミュールの先に
一通りの分析を終え、勢十郎はぽつり、と呟く。
「天狗は人間、あとの二人はモノガミだ。……、合ってるよな、黒鉄?」
「!? その通りですが、どうして……?」
「天狗野郎が、刀を二本差してる」
あまりにも安直な推察に、黒鉄は呆れ返り、狐面とゴーグル少女は失笑していた。
当の天狗男は、何を考えているのかすら分からない。
ところが、勢十郎は羽交い締めにされたまま、以下のように付け加えた。
「こんな山奥まで来たってのに、狐とガキの足下が汚れてねえ。天狗が一人でここまで来たあと、狐とガキが実体化すれば、山を登る手間が省けるよな? あと、天狗さんよ。右腰に刀を差してるって事は、アンタ左利きなんだろ?」
勢十郎を取り巻く笑い声が、ピタリと、やんだ。
「今、右足を少し前に出したな? 天狗野郎。刀を抜きやすくしたのか? つまり刀は本物で、アンタは人殺しができる人間って事だ。それに刀を売れとか言ってたな? あのじじいの事だ、この屋敷の商売を宣伝してたとは思えねえ。つまりアンタは、自分で調べたんだ。大花楼にいるモノガミの事を知ったから、ここに来た。……だよな?」
異様な洞察力を発揮する勢十郎に、侵入者達は思わず
しかし、この姿を真後ろで聞いていた黒鉄の驚きは、彼らの比ではない。この少年が、昨日、今日と情けない姿をさらし続けたあの高校生と同一人物だとは、彼女にはとても思えなかった。
「……ねえ、どうするの東条? こいつ、思ってたほどバカじゃないみたいだ」
狐面の声が、
壁際に立てかけられた大花楼の看板が、
戸口で静観していた天狗男は、腰の後ろで組んでいた手を
「刀を売ってもらいたい」
「もう持ってるじゃねえか」
「刀を売ってもらいたい」
「ねえよ。そんなも――」
「刀を売ってもらいたい」
男の思考回路から
今までの人生、その言葉しか教えてもらえませんでした、とでも言うように、天狗はひたすら「刀を売ってもらいたい」と繰り返す。
あまりにも異常な状況に、誰も微動だにしなかった。
そうして、しばらく口を動かし続けた天狗は、それこそ何の前触れもなく、同じ台詞を真後ろに立っていた少女に向けた。
「刀を売ってもらいたい」
……例えるなら、それは会社員のようなものだった。
長い時間をかけて訓練を積んだ会社員は、最小限に抑えられた上司の言葉から、それ以上の要求まで類推し、行動するようになる。
ただし少女の働きぶりは、会社員どころか『猟犬』のそれだった。
耳と鼻から空気の抜ける音がして、痛みが猛烈な吐き気に変わる――。それが、脇腹に突き刺さった彼女の拳のせいだと気付くまでに、勢十郎は数秒もかかった。
腹筋に力を入れる間もなく打ち込まれた小さな拳は、勢十郎の右
気絶すら許されない地獄の責め苦に、勢十郎はギッ、と奥歯を食いしばる。
腹なら、耐えられる。彼にとって問題は、頭を狙われること。それにこの少女の拳は、大治郎の、あの般若の面の一発と比べれば、はるかに軽かった。
「……けど、ま、そうはいかねえんだろ?」
案の定、ゴーグル少女は『顎』狙いの一撃を振りかぶっていた。そこへ割って入った黒鉄が、木刀で彼女を突き飛ばし、強引に屋敷の外へ退場させる。
「勢十郎どのを離せ!」
「はい、はい」
軽薄に答えた狐面の青年は、細い体からは想像もつかないような怪力を発揮して、悶絶する勢十郎を片手で放り投げた。
またその勢いが、とんでもない。
猛スピードで投げ出された勢十郎は、頭で戸口をぶち破り、そのまま玄関先の桜に激突した。
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