第三話『ハゲタカの夜』その1

 人間という生き物は、驚異的な速度で異常事態に慣れていく。


 こんな状況で大槻勢十郎が平常心を保っていられたのも、この数日で大花楼やモノガミという異常に慣れてしまったせいだろう。彼は木刀を構える黒鉄の脇を押しのけて、訪問者達と向かい合っていた。


「で、どちらさんだ?」


 土間に差し込むかすんだ月明かりが、嵐を予感させている。

 中央に立つ天狗面の男は、首から下がさらに場違いなセンスの持ち主だった。ベストの上にストライプをあしらったジャケット、首元にはアスコットタイという、往年のイギリス紳士を思わせる風格である。土で汚れた靴以外は、完璧なたたずまいだ。


 ところが勢十郎は、ある致命的なものを発見してしまう。


「あー、了解了解。……


 紳士にはステッキと相場が決まっているが、天狗男の右腰には大小の日本刀が差し込まれていたのだ。二刀は直接ベルトに挟んでいるわけではなく、奇妙なホルスターに収まっており、鞘に余計な傷が付かないよう配慮されている。


 天狗男は直立不動のまま、同じ言葉を口にした。


「刀を売ってもらいたい」

「見りゃ分かると思うけどな、ここ、ただの家だぞ?」

「刀を売ってもらいたい」

「じいさんの知り合いか? 俺、まだここに来たばっかでさ、よく解ら――」


 話をはぐらかそうとした途端、勢十郎は何者かに羽交はがめにされていた。


「勢十郎どの!?」

「あわてんなよ、黒鉄。……ああ。てめえも、まともじゃなさそうだな」


 凄まじい力で勢十郎の体を押さえつけるのは、一見、荒事には向かなさそうな、浮世離うきよばなれした青年だった。


 美しい狐の面をかぶった線の細い男で、着流し姿に真っ新な下駄履げたばき、いかにも遊び人といった風体だが、その姿からは想像もできないほど強烈な腕力をしている。


 ところが、勢十郎はまったく動じていなかった。真っ当な人間なら、まず失神するほどの怪力で羽交い絞めにされながら、彼はどこか涼しい表情をしている。


「で、最後の一人は……、子供?」


 天狗男の右隣りに立っていた三人目の侵入者は、この場には不釣り合いなほど小柄な少女だった。キャミソールにショートパンツという、どこにでもいそうな服装だが、なぜか彼女は航空用のゴーグルで目元を隠している。


 勢十郎は何気なく、少女の足元を見た。

 色の白いふくらはぎから足首まで、少女の体を構成する何もかもが小さく細い。そして赤いミュールも、垣間かいま見る爪先つまさきも、清潔せいけつそのものだった。


 そうした一通りの分析を終え、勢十郎はぽつり、と呟く。


「天狗は人間、あとの二人はモノガミってか。……、合ってるよな? 黒鉄」

「!? その通りですが、どうして……?」

「天狗野郎が、刀を二本差してる」


 あまりにも安直な勢十郎の推察に、黒鉄は呆れ返り、狐面とゴーグル少女は失笑する。しかし、当の天狗男は無反応であった。


 ところが勢十郎は、羽交い締めにされたまま、以下のように付け加える。


「……こんな山奥まで来たってのに、狐とガキの足下が汚れてねえ。天狗が一人でここまで来たあと、狐とガキが実体化すれば、山を登る手間が省けるよな? あと、天狗さんよ。右腰に刀を差してるって事は、あんた左利きなんだろ?」


 勢十郎を取り巻く嘲笑が、ピタリと、やんだ。

 赤ジャージの少年はさらに言葉を重ねていく。


「今度は右足を少し前に出したな? 刀を抜きやすくしたのか? つまり刀は本物で、あんたは人殺しができる人間って事だ。それに刀を売れとか言ってたな? あのじじいの事だ、この屋敷の商売を宣伝してたとは思えねえ。つまりあんたは、自分で調べたんだ。大花楼にいるモノガミの事を知ったから、ここに来た。……だよな?」


 異様な洞察力を発揮する勢十郎に、侵入者達は思わず瞠目どうもくしていた。


 だが、これを真後ろで聞いていた黒鉄の驚きは、彼らの比ではない。この少年が、昨日今日と情けない姿をさらし続けたあの間抜けと同一人物だとは、彼女にはとても信じられなかった。


 この状況での勢十郎の落ち着きようは、どう考えても異常だった。


「……ねえ、どうするの東条? こいつ、思ってたほどバカじゃないみたいだ」


 狐面の甲高い声に、戸口で静観していた天狗男も、腰の後ろで組んでいた手を解く。そして彼は、格闘技のフェイスオフよろしく、額が付きそうなほど勢十郎に顔を近づけてきた。


「刀を売ってもらいたい」

「もう持ってるじゃねえか」

「刀を売ってもらいたい」

「ねえよ。そんなも――」

「刀を売ってもらいたい」


 男の思考回路からただよに、勢十郎は思わず背すじが粟立あわだった。


 今までの人生、その言葉しか教えてもらえませんでした、とでも言うように、天狗はひたすら「刀を売ってもらいたい」と繰り返している。

 そうして、しばらく口を動かし続けた天狗は、それこそ何の前触れもなく、同じ台詞を、真後ろに立っていた少女に向けた。


「刀を売ってもらいたい」


……例えるなら、それは会社員のようなものだった。


 長い時間をかけて訓練を積んだ会社員は、最小限に抑えられた上司の言葉から、それ以上の要求まで類推し、行動するようになる。

 ただし少女の働きぶりは、会社員どころか猟犬のそれだった。


 耳と鼻から空気の抜ける音がして、痛みが猛烈な吐き気に変わる――。それが、脇腹に突き刺さった彼女の拳のせいだと気付くまでに、勢十郎は数秒もかかった。

 腹筋に力を入れる間もなく打ち込まれた小さな拳は、勢十郎の右肋骨下へ深々と潜り込み、奥にある肝臓を押し潰す。


「ぐぅっ!?」


 狐面の青年に羽交い締めにされていなければ、勢十郎は膝から崩れ落ちていただろう。気絶すら許されない地獄の責め苦に、彼はギッ、と奥歯を食いしばる。


 腹なら、耐えられる。勢十郎にとっての問題は、頭を狙われること。それにこの少女の拳は、大治郎の、あの般若はんにゃの面の一発と比べれば、はるかに軽かった。


「……けど、ま、そうはいかねえんだろ?」


 案の定、ゴーグル少女はあご狙いの一撃を振りかぶっていた。だが、そこへ割って入った黒鉄が、木刀で少女を突き飛ばし、強引に屋敷の外へ退場させる。


「勢十郎どのを離せ!」

「はい、はい」


 軽薄に答えた狐面の青年は、またしても細腕で怪力を発揮する。彼は悶絶する勢十郎を片手で放り投げたのだ。また、その勢いがとんでもない。


 猛スピードで投げ出された勢十郎は、頭で戸口をぶち破り、そのまま玄関先の桜に激突した。


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