第一話『蛮族達の午後』その6
型遅れのスマートフォンに
住人達に連れられて、勢十郎が地下洞窟を脱する頃には、あたりはもう
祖父の部屋に引き
部屋の中は薄暗い。蛍光灯の
スマートフォンに詰め込んだ曲目は百を超えているが、勢十郎は畳に寝転がって、板張りの天井を見上げていた。リラックスして曲を聴けないでいるのは、ふいに
「……にしても、いい趣味してたんだな。じいさん」
あらためて部屋の中を見回した勢十郎は、つい他人行儀な言い方をした。ほのかに甘い、
生粋の趣味人であった八兵衛は、金の使い方というものを心得ていた。
とりわけ彼の購買意欲と美意識を刺激したのは、アール・デコの調度品だったらしい。ゼンマイ式の置き時計、色ガラスを
「あの刀の山も、じいさんらしいっていえば、そうなんだよな」
アナログやレトロを愛してやまなかった八兵衛が、日本刀のもつ機能美に心奪われるのは、むしろ当然の
部屋の中を物色していた勢十郎の興味は、最後に文机の抽斗へと行きついた。
八兵衛は毛筆よりも万年筆を好んでいたようで、換えのインクがストックされている。文房具や書類、小物にいたるまで整理が行き届き、持ち主の几帳面な性格が如実に表れていた。
ところが、抽斗を戻しかけたその時、勢十郎は『日記』と書かれたノートの端から、何かが覗いているのを発見する。
引き抜いてみると、それは一枚の写真だった。
「……どうなってやがる?」
「――、失礼します」
思考を停止していた勢十郎の脳味噌に、冷や水のような声が降りかかる。反射的にジャージのポケットへ写真をねじ込んだ彼が、そろりと振り向くと、
「あの……、なにか?」
「なんでもねえよ」
思わず
だが、それも仕方のない事だった。
出会い頭に彼の腹を刺し、地下空洞で散々憎まれ口を叩いた黒装束の電波女は、今や完璧な美少女になっていたのだから。
春物のニットにティアードスカート、黒のストッキングが悩ましい。立てば否応なく思い知らされる胴の短さと、腰高の尻。すらりと伸びた手足にさえ、造形的な欠点はない。
勢十郎がもっとも驚いたのは、頭巾を脱いだ黒鉄の素顔だった。初めて出会った時は観察している余裕もなかったが、潤んだような濃紺の瞳や、美しい墨色の短髪は、これまで彼が出会った誰よりも美しい。
「なんです? じろじろ見たりして」
黒鉄は形の良い眉をハの字に曲げて、口を尖らせた。
「……お前、黙ってりゃ美人なのにな」
「嬉しくありません」
即答である。
つとめて冷静に、勢十郎は彼女の言葉を受け止めた。が、口元は完全に引きつっていた。
「つうか、いきなりそんな畏まった態度とられても、俺の方が困るんだよ」
「だって、その……、あなたは大花楼の主なのでしょう?」
そう言って、黒鉄はきまりが悪そうにそっぽを向いた。つまり、彼女が勢十郎に気を
「でも、本当は俺に敬語なんか使いたくねえんだろ?」
「ええ。反吐が出そうです」
「そこまで言うかよ……ッッ」
勢十郎が握りしめたスマートフォンが、ピキン! と音を立てて
部屋の畳には足を踏み入れないまま、黒鉄は淡々と告げてくる。
「
「へいへい。……ああ、そういやお前、頭巾かぶるのやめたのか?」
「か、関係ないでしょうッ」
「……なに怒ってんだよ?」
提灯片手に廊下を進み始める黒鉄の後を、勢十郎もしぶしぶ顔でついていく。
地下空洞を出て以来、黒鉄はめっきり大人しい。ペンギンや金髪美女の
すっかり日の落ちた大花楼は、幻想的な雰囲気に包まれている。
廊下と階段には、地下空洞と同じ
床板の
そうして彼は、まばらに照らされた屋内を眺めていたのだが――、
突然、固まった。
「……おい、くろがね」
「何でしょう?」
名前で呼ばれた事を気にする様子もなく、黒鉄は無警戒に振り返った。蝋燭の炎によって、彼女の濃紺の瞳は宝石のように輝いている。
「こいつは、なんだ?」
勢十郎が指差したのは、階段の
……ちなみに、七期山の名産品は生のテディベアである。
なんだそんな事か、とでも言うように、黒鉄は呆れた風な顔をした。
「はぁ、爪痕ですね。おそらく熊のものかと」
「落ち着いてんじゃねえよ! 熊だぞ!? まだ屋敷の中にいるかもしれねえだろうが!」
「はぁ、熊鍋がご所望でしたか」
「言ってねえだろうが、そんなこと」
こんな暗闇で熊に出会ったら、普通の人間は十中八九アウトである。食われる。
黒鉄は何事もなかったかのように、行燈の灯る一階の長廊下を抜けていく。勢十郎は口をへの字に曲げたまま歩き出し、
「主どのをお連れしました。ほら、さっさと入ってください」
「どわッ!?」
問答無用で広間の中に
「おうおう、遅かったではないか。小僧」
「くそったれ。もう、どこからツッコんでいいのか分からねえ……」
勢十郎は四つん這いのまま、うなだれた。
広間に持ち込まれた大きな
上座のド真ん中で、二メートルを超える
「いくらなんでも、ありえねえだろ」
「そう、驚くこともあるまいに」
あきれた事に、ペンギンは倒れた羆の上で酒を呑んでいた。
隣で酌をつとめているお蘭も「惚れ惚れするねえ」などと、調子づく下等生物を持ち上げながら、自分は酎ハイ缶をぐびり、ぐびりとやっている。
「邪魔です、主どの」
状況から立ち直れないでいる勢十郎を、黒鉄は強引に上座の席へと押しやった。
しかし、分厚い座布団に追いやられた勢十郎は、すぐ右隣にある羆の頭で気が気でない。できるかぎり、彼が反対側へ身を寄せようとすると、茶碗に飯を盛っていた黒鉄は、
「くっつくな。あっちへいけ」
「こうしねえと、俺が『ディナー』になっちまうんだよ……ッ」
必死である。
状況から察するに、この羆が階段の手摺りにマーキングした犯人に違いない。
問題は、なぜその羆が失神しているのか、だった。
「だって儂、とても強いのだもの」
アルコール臭い息を吐きながら、ペンギンがほざいた。
ただ、その言葉を裏付けるように、下等生物の後ろには
とはいえ、やはり勢十郎には刀の違いがよく分からなかった。が、おそらくあれで誰かが熊を倒したのだろうと、適当な結論で思考を切り上げた。
「ほら。ぼんやりしてないで、あんたもやりなよ。御当主」
お蘭が勧める瓶ビールを無言でやり過ごし、勢十郎は茶の入った
「某のだ。貴様は酒でも呑んでいろ」
「悪いな、俺も未成年なんだよ」
どうやら気に入らないことがあると、黒鉄の敬語はストップするらしい。彼女は煮えたぎった湯を急須へぶち込み、ゴボゴボと沸騰したままの茶を勢十郎に差し出した。
「どうぞ、心ゆくまでお召しあがりください」
「お前なぁ……ッ」
勢十郎は歯ぎしりをした。
確かに勢十郎は、祖父の部屋で黒鉄の半裸を目撃したが、故意ではない。それに、仮にも今日から大花楼の主となった自分に、こんな態度が許されて良いものか、とも彼は
だが黒鉄は、怒ってさえいなければ、勢十郎に敬語を使ってくるだけまだマシだった。金髪美女お蘭とペンギン先生にいたっては、そもそも敬意を払う気配すらない。
食卓の煮物や焼き物からは、食欲をそそる温かな湯気と香りが立っている。
どの皿も「早く食え」と言わんばかりだが、奇妙なことに、お蘭と先生は酒を呑むばかりで、それらの料理には一切手を付ける様子がない。黒鉄だけは、勢十郎が食べ始めるのを待っているようだった。
彼女には悪いと思ったが、勢十郎は食事を始める前に、ジャージのポケットから先ほどの写真を取り出していた。
「あのよ。じじいの部屋で、こんなもんを見つけたんだけどな」
勢十郎が卓上に置いた写真へ、住人達の視線が静かに集まった。
すでに相応の年月を経たと思われるセピア色の写真は、大花楼の庭先で撮られたものだった。デジタル表記された日付は、ちょうど二十七年前の今日。中央に陣取っている男は、当時まだ六十代の大槻八兵衛である。
問題は、彼の周囲に『おかしなもの』が写っている事だった。
「これ、お前らだよな?」
ペンギン、お蘭、そして黒鉄。
二十七年前に撮られたはずの写真の中に、なぜか今と変わらぬ姿の住人達が写っていた。
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