第一話『蛮族達の午後』その3
六畳間の向こうに見える七期山は、たしかに絶景だった。
日を浴びる山間の新緑、垣間見る青く遠い空。そして耳を打つ小川のせせらぎまでが、勢十郎には、すべての生き物に活力を分け与えているような気さえした。
かつては大槻八兵衛も、この障子窓から四季折々の景色を愛したのだろう。
ただし今は、それよりもずっと近い距離に、『危険な絶景』がある。
「あ……、あ……」
部屋の中に、サラシを着けた女がいた。
……否。正確には、『胸にサラシを巻いている最中の女』がいたのである。
つまり要約すると、胸がいたわけだ。
「シュールだな」
それが勢十郎の第一声だった。
ところが、一秒、二秒と過ぎるにつれて、目の前の光景が幻覚などではない、と彼は認識し始める。いくら深呼吸をしてみても、一向にその胸は――、否、少女の姿が消えないのだ。
そこにはたしかに、
きわめて冷静に、勢十郎は
「……あんた、誰だ?」
祖父なき今、大花楼には誰も住んでいないはずである。
だが、少女は確かにそこにいた。
「なっ、なっなっなっ……ッッ」
巻きかけたサラシの隙間から見え隠れする、乳白色の
……実に失礼な話だが、よく見ると彼女は『美少女』であった。
どちらかといえば、童顔の部類に入るだろう。だが、今時珍しい太めの眉と、
「なななななななななっッツ!?」
今にもこぼれ落ちそうな胸を抱えつつ、少女は混乱と
一方、裸同然の上半身とは対称的に、彼女の下半身は
しかしいい加減、固まったままの彼女が気の毒になってきた勢十郎は、「さっさと着替えりゃいいのに」と言いかけて――、そこで自分が今、何をしているのかを思い出す。
「……俺としたことが、とんだマナー違反だ」
見てしまったものは仕方がない。
「全財産だ。これで勘弁してくれ」
嘘だった。
だが、厄介事はなるだけ金で解決しろと、勢十郎は母親に教育されている。
彼の手の中にあった二千円
「お? 二枚に増えた。……え? なんだこりゃ、分身?」
ひらひらと畳に落ちた紙幣の上半分が、恐ろしく
「――、ふーッ、ふーッ……ッ」
片手で胸元を押さえた少女が、
「うぉおおおおッッ!?」
勢十郎は大慌てで、残り半分の紙幣から手を離す。幸運な事に、指はまだちゃんと手に付いていた。
初めて見る日本刀が、やけに気安いように感じるのは、彼女に相応しい武器がこれ以外にはあり得ないからだろう。こんな状況でなければ、勢十郎も触ってみたかった。が、今は命の方が大事だった。
「あー。そいつで、俺をどうするつもりだ?」
「知れた事ッ!」
勢十郎に
しかし、そんな事を言われても、勢十郎は自分の家に入っただけで、不法侵入や
じりじりと、すり足で間合いを詰めていた少女が、ふいに片眉をはね上げた。
「……貴様、『それ』をどこで手に入れた?」
吊り上がった
どうやら勢十郎が先ほど拾った『竜の鍔』の事が、少女は気になっているらしい。
彼は落ち着きを取り戻し、自身の胸元で揺れるそれを指先で
「コイツか? 土間で拾ったんだよ。あんたのか?」
「か、返せッ!」
少女から鬼気迫る怒声が
あと半歩で祖父と再会できるかもしれなかったが、まだ生きていたい彼は、すかさず悪知恵をひねり出す。
鍔を返せば、
だが、それが大いなる勘違いであると勢十郎が気づくより、少女の行動の方が速かった。
首をはね飛ばされなかったのは、たんに偶然だったのだろう。横
その結果、逃げ遅れたシャツと首飾りの組紐は、
畳に落ちた鍔を
そして大槻勢十郎は、横一文字に口を開くTシャツを見下ろしていた。
「二千円札は二枚に分かれた。シャツも上下に分かれた。……俺は、どうなる?」
おそらく、『赤』と『ジャージ』に分割されるのに違いない――。そんな冗談も一瞬頭をよぎったが、廊下へバックステップした勢十郎の背中からは、やはり冷や汗が吹き出していた。
「と、とりあえず落ち着け。んでもって刀をおろせ。平和と共存について語り合おう。な?」
「問答無用――ッ!」
「言うと思ったぜ。じゃ、一つだけ答えてくれ。あんた誰だ? じいさんの愛人?」
「ふざけるなッッ!」
「そそそ、そうだよなぁっ! 俺があんたでも、そう言うな……。うん」
予想通りの反応に、勢十郎は思わず引きつった笑いを浮かべる。
彼とてまずいとは思ったのだが、高校生らしからぬアダルトジョークは、やはり少女の
「
ドス黒い殺気を放ちつつ、少女はやはり片手で胸元を押さえたまま、逆の手で刀身を
平正眼――。相手の
勢十郎はたちまち両手を正面に突き出した。
「待て、落ち着け、冷静になれ! 話を整理しよう!」
「聞く耳持つかぁッッ!」
「だよなぁ! でも聞いて!」
「チッ!」
「いいか? 俺は覗きたくて覗いたわけじゃないし、あんたも見せたくて見せたワケじゃない。しかしおっぱいは綺麗だった! ……はは、ダメだこりゃ」
「……言いたい事は、それだけか?」
ついに腹部へ密着した
一方、少女は刀を構えたまま、可愛いかつ綺麗、なのに怖いという、もはや何かを超越した表情になっていた。ただし、
肌へ押しつけられる金属質の冷たさに、勢十郎は真顔で
「マジで悪かった何でもする。……でもあんた、どうせ何言っても刺すんだろ?」
いかにもひねくれた彼の言い草に、少女は初めて笑顔になった。
……悲しい事に、皮肉な笑顔だったが。
「察しがいいな」
刺された。
◆ ◆ ◆
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