第一話『蛮族達の午後』その3

 六畳間の向こうに見える七期山は、たしかに絶景だった。

 日を浴びる山間の新緑、垣間見る青く遠い空。そして耳を打つ小川のせせらぎまでが、勢十郎には、すべての生き物に活力を分け与えているような気さえした。

 かつては大槻八兵衛も、この障子窓から四季折々の景色を愛したのだろう。


 ただし今は、それよりもずっと近い距離に、『危険な絶景』がある。


「あ……、あ……」 

 


 部屋の中に、



……否。正確には、『胸にサラシを巻いている最中の女』がいたのである。

 つまり要約すると、胸がいたわけだ。


「シュールだな」


 それが


 ところが、一秒、二秒と過ぎるにつれて、目の前の光景が幻覚などではない、と彼は認識し始める。いくら深呼吸をしてみても、一向にその胸は――、否、少女の姿が消えないのだ。

 そこにはたしかに、濃紺のうこんの瞳とすみ色の短髪が美しい、半裸の少女が絶句していたのである。


 きわめて冷静に、勢十郎は誰何すいかした。


「……あんた、誰だ?」


 祖父なき今、大花楼には誰も住んでいないはずである。

 だが、少女は確かにそこにいた。うるんだ瞳を勢十郎に向け、金魚よろしく口をパクつかせている。


「なっ、なっなっなっ……ッッ」


 巻きかけたサラシの隙間から見え隠れする、乳白色の柔肌やわはだ。勢十郎は反射的に視覚情報を海馬かいばへ叩き込み、その後、ようやく彼女の『胸』以外に注目し始めた。


……実に失礼な話だが、よく見ると彼女は『美少女』であった。


 どちらかといえば、童顔の部類に入るだろう。だが、今時珍しい太めの眉と、まつげの長いつり目は、少女を大人びてせている。背はそれほど高くないが、年は勢十郎と同じくらいだろう。


「なななななななななっッツ!?」


 今にもこぼれ落ちそうな胸を抱えつつ、少女は混乱と羞恥しゅうちの入り混じった声を上げている。

 一方、裸同然の上半身とは対称的に、彼女の下半身ははかま脚絆きゃはんで完璧にガードされていた。足下には黒装束くろしょうぞくが畳まれており、まるで黒子か忍者である。


 しかしいい加減、固まったままの彼女が気の毒になってきた勢十郎は、「さっさと着替えりゃいいのに」と言いかけて――、そこで自分が今、何をしているのかを思い出す。


「……俺としたことが、とんだマナー違反だ」


 見てしまったものは仕方がない。いさぎよくジーンズの尻ポケットから財布を抜き取ると、彼は至極真面目な表情で、最近手に入れた二千円札を少女に差し出した。


「全財産だ。これで勘弁してくれ」


 嘘だった。

 だが、厄介事はなるだけ金で解決しろと、勢十郎は母親に教育されている。


 彼の手の中にあった二千円紙幣しへい、その直後だった。


「お? 二枚に増えた。……え? なんだこりゃ、分身?」


 ひらひらと畳に落ちた紙幣の上半分が、恐ろしく鋭利えいりな断面をみせている。足下から正面へ眼球を動かした勢十郎は、たった今一体何が起こったのか、そのワケをたちどころに理解する。


「――、ふーッ、ふーッ……ッ」


 片手で胸元を押さえた少女が、下睫したまつげに涙を乗せながら、抜き身の日本刀を構えていた。


「うぉおおおおッッ!?」


 勢十郎は大慌てで、残り半分の紙幣から手を離す。幸運な事に、指はまだちゃんと手に付いていた。


 初めて見る日本刀が、やけに気安いように感じるのは、彼女に相応しい武器がこれ以外にはあり得ないからだろう。こんな状況でなければ、勢十郎も触ってみたかった。が、今は命の方が大事だった。


「あー。そいつで、俺をどうするつもりだ?」

「知れた事ッ!」


 勢十郎に白刃はくじんを向けたまま、少女は鈴のような声を張り上げた。


 しかし、そんな事を言われても、勢十郎は自分の家に入っただけで、不法侵入やのぞき行為を非難されるいわれはない。むしろ、警察を呼びたいのは彼の方である。


 じりじりと、すり足で間合いを詰めていた少女が、ふいに片眉をはね上げた。


「……貴様、『それ』をどこで手に入れた?」


 吊り上がったまなじりは、迷いなく勢十郎の胸元に向けられている。


 どうやら勢十郎が先ほど拾った『竜の鍔』の事が、少女は気になっているらしい。

 彼は落ち着きを取り戻し、自身の胸元で揺れるそれを指先ではじいてみせた。


「コイツか? 土間で拾ったんだよ。あんたのか?」

「か、返せッ!」


 少女から鬼気迫る怒声がほとばしり、勢十郎と刃の距離が一気に縮まった。


 あと半歩で祖父と再会できるかもしれなかったが、まだ生きていたい彼は、すかさず悪知恵をひねり出す。

 鍔を返せば、のぞいた事をチャラにしてくれるかもしれない、と。


 だが、それが大いなる勘違いであると勢十郎が気づくより、少女の行動の方が速かった。


 首をはね飛ばされなかったのは、たんに偶然だったのだろう。横ぎに一閃された刀の軌道と、柱襖で左右がふさがれていたせいで、勢十郎は真後ろに退がるしかなかったのだ。

 その結果、逃げ遅れたシャツと首飾りの組紐は、諸共もろともに切り払われていた。


 畳に落ちた鍔を一瞥いちべつすると、少女は再び臨戦態勢を整えた。

 そして大槻勢十郎は、横一文字に口を開くTシャツを見下ろしていた。


「二千円札は二枚に分かれた。シャツも上下に分かれた。……俺は、どうなる?」


 おそらく、『赤』と『ジャージ』に分割されるのに違いない――。そんな冗談も一瞬頭をよぎったが、廊下へバックステップした勢十郎の背中からは、やはり冷や汗が吹き出していた。


「と、とりあえず落ち着け。んでもって刀をおろせ。平和と共存について語り合おう。な?」

「問答無用――ッ!」

「言うと思ったぜ。じゃ、一つだけ答えてくれ。あんた誰だ? じいさんの愛人?」

「ふざけるなッッ!」

「そそそ、そうだよなぁっ! 俺があんたでも、そう言うな……。うん」


 予想通りの反応に、勢十郎は思わず引きつった笑いを浮かべる。


 彼とてまずいとは思ったのだが、高校生らしからぬアダルトジョークは、やはり少女の逆鱗げきりんに触れてしまったらしい。ただ理不尽なことに、この場に第三者がいたとしても、おそらく責められるのは勢十郎の方だった。


神妙しんみょうにしろ……ッ」


 ドス黒い殺気を放ちつつ、少女はやはり片手で胸元を押さえたまま、逆の手で刀身を平正眼ひらせいがんに持ち上げた。

 平正眼――。相手の肋骨ろっこつ隙間すきまへ、平突きを差し込むために考案された構えである。彼女の勢十郎に対する殺意は明らかであった。


 勢十郎はたちまち両手を正面に突き出した。


「待て、落ち着け、冷静になれ! 話を整理しよう!」

「聞く耳持つかぁッッ!」

「だよなぁ! でも聞いて!」

「チッ!」

「いいか? 俺は覗きたくて覗いたわけじゃないし、あんたも見せたくて見せたワケじゃない。しかしおっぱいは綺麗だった! ……はは、ダメだこりゃ」

「……言いたい事は、それだけか?」


 ついに腹部へ密着した段平だんぴらの切っ先に、勢十郎は顔面蒼白になる。

 一方、少女は刀を構えたまま、可愛いかつ綺麗、なのに怖いという、もはや何かを超越した表情になっていた。ただし、き出しになった彼女の肩や華奢きゃしゃな腰回りは、こんな状況でもなまめかしい。


 肌へ押しつけられる金属質の冷たさに、勢十郎は真顔で合掌がっしょうした。


「マジで悪かった何でもする。……?」


 いかにもひねくれた彼の言い草に、少女は初めて笑顔になった。


……悲しい事に、皮肉な笑顔だったが。



「察しがいいな」



 刺された。


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