第一話『蛮族達の午後』その2
青々と茂る竹林の空気を吸い込みながら、勢十郎はジャージの袖で額の汗を拭い取る。
「自然がいっぱい!」といえば聞こえはいいが、人里から数十キロも離れている時点で、村八分同然である。
一体、どうすればこんな山奥に、これほどの大屋敷が建てられるのか。勢十郎も不思議でならなかったが、ともかく、あれこそが目指していた祖父の家、『
七条の地は江戸時代に宿場町として栄えていたが、大花楼は当時から七期山を越えてくる旅人に人気の旅館であったらしい。戦後、屋敷を相続した大槻八兵衛によって骨董店に生まれ変わったものの、その威容は今でも健在だった。
今日から一人暮らしを始める勢十郎には、いかにも広すぎる大屋敷。
ただし、
「幽霊屋敷、ね。……、まるっきり的外れってわけでもねえよ、おっさん」
彼がドラムバッグから取り出したのは、銀行の預金通帳だった。
前述の通り、大花楼は大槻八兵衛の経営する
つまり勢十郎の祖父は、ただ無駄にデカイだけの屋敷を残していった……、はずだった。
「……ところが、だ」
葬式が終わって一ヶ月が経ったある日、勢十郎は奇妙な事に気が付いた。
竹林の中を歩きつつ、彼は通帳の中身に目を通す。
最初の引き落としが行われてから、月一で三度、すでに万単位の金が口座から失われていた。つまり、祖父の死から三ヶ月の間に、孫である勢十郎の預金残高が不当に減っているわけだ。
あまり気の長くない勢十郎が、親に事実関係を確認しなかったのは、この怪奇現象の正体を自分の目で確かめる為だった。
通帳に記載された
そこへ、今回の引っ越しである。
誰もが無用の長物と思っていた屋敷の管理に、是非もなく名乗りをあげた勢十郎の、こんな片田舎までやってきた表向きの理由が、それだった。
竹林を抜けて門前へ辿り着いた勢十郎は、掛かっていた
「すげえな、こりゃ……」
力づくで門扉を押し開けた勢十郎は、聞きしに勝る大花楼の姿に圧倒されていた。
築三百年以上もの時を経てもなお、屋敷の保存状態は良好で、勇壮な屋根瓦もさることながら、白壁に朱塗りの建材という色
だが同時に勢十郎は、正門をくぐった瞬間から、敷地内に流れる空気の冷たさにも気付いていた。大花楼には、無人の建物が持つ特有の雰囲気と、街中にはない静けさが交じり合った温度感がある。
「たしか、正面玄関が骨董店舗だったか?」
勢十郎は、気を紛らわすように呟いた。
八兵衛は元々旅館の受付口であった土間を改装し、骨董店にしてしまったらしい。というのも、勢十郎は大花楼に来ること自体、今日が初めてなのである。
ところが、彼が扉に手をかけた瞬間、内側からゴトン、という音がした。
『未確認生物の巣になっていても、何の不思議もないから』
勢十郎の脳裏に、先ほどの中年警官の言葉が蘇る。
熊か、虎か、はたまた狒々か。それでなくとも、現代魔界・七期山の懐においては、どんなモンスターもエンカウント率は公平である。嫌な予感しかなかったが、勢十郎は一思いに、引き戸を開け放っていた。
しかし、その向こうにあったのは、ごく当たり前の土間だった。
骨董店をやっていた頃の名残か、平棚が数台ほど無愛想に並んでいた。足下には空の一升瓶、そして潰した酎ハイ缶を詰めたゴミ袋が放置されている。
おそらく、以前屋敷の掃除に来た親戚達が出し忘れたものだろう。そう決めつけた勢十郎は、土間を後にしようとして……、停止した。
興味本位で近づいた勢十郎は、その正体を
無人の土間に放置されていたのは、古い木製看板だった。幅二メートルにも及ぶ焼き板には、極太の毛筆で書き付けた『骨董秋水・大花楼』という
「コットウ、シュウスイ?」
「なんだこりゃ……? 刀の、
彼が何気なく拾い上げた金属片は、鈍い輝きを放っていた。だが、刀装具はおろか、日本刀にさえ大した知識のない勢十郎には、所詮ただの鍔に過ぎない。にもかかわらず、彼がその目を鍔に奪われたのは、地金に浮かぶ奇妙な
そこには、素人目にも三日月だと知れる物体を、竜が呑み込もうとしている異様な図柄が彫金されていた。見た目は美しいが、やけに生々しい構図なのである。
さらに、鍔には
「おあがりなさい、いただきます」
勢十郎は何食わぬ顔で、鍔を首から
すでにこの屋敷は彼の物であり、そこに落ちていた物をどうしようと彼の自由なのだから、権利を行使しただけの話である。
母屋から東西にのびた渡り廊下は、別棟へ通じている。大花楼の一階には骨董店舗だけでなく、居間、仏間、風呂や台所などもあるそうだ。勢十郎もあとで全室確認するつもりではいたが、まずは今日から使う自室に向かうべく、二階へ続く階段を探し出す。
年季の入った階段は、勢十郎が一段昇るごとに、蛙のような悲鳴をあげた。
「……妙だな」
屋敷に入ってからというもの、勢十郎は首を捻ってばかりいる。
彼が話に聞いていた『大花楼』は、いかにも黴臭く、古民家的イメージだった。だから彼もこうして、汚れてもいいように赤ジャージを着てきたわけである。
ところが、床や壁、柱の一本一本に至るまでが、手入れの必要性を感じないほど美しいのだ。
背丈の割に肩幅の広い勢十郎は、せまい階段を登りながら口を尖らせた。
「
馬鹿馬鹿しい話だが、大花楼には掃除機がない。極度のアナログ症であった大槻八兵衛が、必要以上の機械類を所持するのを忌み嫌ったからだ。無論、現代社会に背を向けるようなその生き方には、大槻家親族一同、呆れ返ったものである。
勢十郎は感慨にふけりつつ、線香の匂いが染みついた廊下を抜けていく。
旅館時代の大花楼では、二階の奥部屋が最高級の個室であったという。
その理由は、障子窓から臨む美観である。客は七期山の魅せる絶景を、この部屋で独り占めできるという寸法だ。そして今年の一月までは、そこが祖父八兵衛の部屋だった。
ならば、その一等地を我が物にしたいと望むのが、人情というものだろう。
勢十郎は、意気揚々と襖をスライドさせていた。
「――――、え?」
そこには、勢十郎が期待していた以上の絶景が、あった。
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