第16話

「どっせーい‼」

 夜も更け暗がりが増す丘に、シリアスな空気をぶっ壊す明るい声が舞い降りる。それと同時に現れた一人の少女が、アステルの腹部を掴みタックルの要領で押し倒した。押し倒す時に舞い上がった少女のツインテールは、俺にとっては何よりも安心感をもたらした。

「待たせたね、輝」

 たった一人しかいない、唯一無二の幼なじみが颯爽と駆けつけたのだ。

「彩芽、お前ってヤツは……なんでこう、一番いいタイミングでやってくるんだろうな」

「そりゃそうだよ。だってアタシは、輝のたった一人の幼なじみなんだから」

 不思議でも何でもない、さも当たり前のことのように、彩芽はニコリと笑顔を向ける。その間もアステルのことをがっちりと抑えているのだから、頼もしいものだ。

 今回のアステルとの一件に対して、俺は彩芽に協力を仰いだ。エトとアステルの相性の悪さを計算に入れなかったわけじゃない。それを考慮したら、運動神経のいい人を連れてくるのは当然のことだ。俺だってそこまでバカじゃない。

 無論、強制はしなかった。相手は剣術に長けたアステルだ、命の危険すらある。強要するアホはいない。ただ彩芽の決断はあまりにも早すぎた。

『彩芽、ちょっと手伝ってほしいことが……』

『いいよ』

 だいたいこのくらいのテンポ感である。内容すら伝えていないのに即答した彩芽に、俺はしばし呆けてしまったのが今では懐かしい記憶だ。もちろん相当危ない頼み事だということも伝えたのだが、彩芽の答えは変わらなかった。

『アタシはいつも輝に助けられてばかりだから……そのくらいさせてよ。アタシ、腕っぷしにしか自信ないんだから』

 申し訳なさそうにそう答える彩芽のその言葉は、まごうことなき本心であった。そのくらい長い付き合いだから見ればわかる。だからこそ本当に嬉しかったし、全幅の信頼を置いている。

 今もアステルを、容易とは言えないが抑え続けている。住んでいる星は違うとはいえ、彼女は元騎士団長を務めるほどの身体能力の持ち主だ。基本的にパワーで負けるとは考えにくい。しかし純粋な身体能力なら、彩芽だって負けてはいない。

 彩芽がやっているバスケットボールは、とにかく運動量が求められるスポーツだ。時間制限こそあるものの、基本試合中は動き回っている。それで鍛えたフィジカルや体幹、足腰の強さは並みの女子高生など比べものにならなかった。

「な、なんだ貴様は⁉ 貴様もあの異星人の仲間か⁉」

「そうだよ! あと異星人じゃなくて輝だから!」

 突然現れた彩芽に驚きつつも、アステルは慌てることなく彩芽を蹴飛ばそうとする。しかしそのくらいでどうにかなるほど、彩芽の身体は柔じゃない。がっちりアステルの身体を掴んだまま、わざと体重をかけ身体の自由を掴んでいく。彩芽も武術とか心得ていないのに、よく相手できるよな。普通に感心するわ。

「……こんな脂肪の塊を抱えているのに、輝に攻撃……死にたいってことかな?」

 前言撤回、ただの私怨だった。確かにアステルもご立派なものを持っているけど、そこまで殺意が湧くものか? まあ今となっては非常に助かってるからいいけど……胸が膨らんでいる時のエトを見せなかったのは正解だったな。

「くっ……このっ!」

 あまりのしぶとさに埒が明かないといった様子のアステル。じれったさがストレスとなり、ついに強硬策に出る。無理やり右手だけを自由にさせ、改めて直剣を構える。その切っ先は彩芽の背中だ。あれを食らえば、いくら彩芽とて無事では済まない。

 アステルと彩芽の距離、彩芽の気付くタイミング的に、もう回避不可能だ。そして護衛騎士をしているアステルに、人を殺す躊躇さなど皆無。鬼気とした鋭い瞳で狙いを定め、アステルは迷うことなく直剣を構えた腕を振り下ろす。

「――やれやれ。随分と乱暴な宇宙人もいたものだ」

 ただ大切な幼なじみの亡骸を見ることも、おびただしい死体現場を記憶に焼き付けることもなかった。彩芽の身体とアステルの直剣に割り込む、一本の木刀が全ての流れを変えた。

アステルの力ある突きを木刀一本で、しかも手首を返してしまうほどに不利な体勢で防御するその人間を、俺はもちろん知っている。

「輝、ベストタイミングかい?」

「あぁ、ベストタイミングがすぎるぜ……雲海」

 爽やかな笑顔を向ける俺の親友の雲海は、そのまま腕の力だけでアステルの直剣を弾く。やや体勢が崩れる程度の被害しかないアステルだが、仰天とした顔で乱入した雲海の姿を睨みつける。

「空野さん、大丈夫かい?」

「あぁ、うん。ありがとう生間くん」

 彩芽の前に立ちながら安否を確認する雲海。どう考えたってイケメンムーブのそれであった。これで惚れない女子などほとんどいないだろう……の割には、彩芽は至って平常っぽい感じはするけど。まあ今気にする問題ではない。

 今回のことに関して、俺は非常に用心深く立ち回っている。相手は敵を斬り殺すことすら躊躇わない生粋の騎士だ。エトだけではなく、身体能力に長けている彩芽の力を借りても、まだ心配でしょうがない。別に二人の力を信用していないわけではない、ただ単純にもしもの場合があっては困るからだ。

 その点、雲海が加わってくれたことは非常に大きい。雲海は剣道の大会で優勝してしまうくらい、武術に長けている。アステル相手に完璧に打ち負かすことは難しいかもしれないが、対等に戦うことならできる。俺はそのくらい、雲海の腕を信じている。

「くっ……次から次へと……」

「へぇ~輝から聞いてはいたけど、本当に騎士様なんだね。宇宙人にも騎士とかそういう概念があるんだ。非常に興味深い」

 いつものような軽い口調で思った疑問を口にする雲海。声色からしていつもより機嫌がいいのは明らかだ。宇宙に関することであれば、疑問をぶつけずにはいられない質の悪さが出ている。一応緊迫した状況だから、もう少し雰囲気というものを大事にしてほしい。

「なにをペラペラと……⁉」

 そんな態度が気に障ったようで、アステルの怒りは更に加速する。相手がエトではなく、加え剣らしきものを持っているだけあって、アステルは容赦なく速攻を仕掛ける。少し腰をかがめた後、雲海に向かって突進の要領で距離を詰める。完璧に間合いに入ったタイミングで、切れ味抜群の直剣を雲海に振るった。

「……甘いね」

「なっ⁉」

 しかし雲海はこれを涼しい顔で対応する。振るわれた直剣が腹を切り裂こうとするタイミングで木刀を入れ、アステルの強襲を防ぐ。それだけではない。雲海はそのまま木刀を動かし、アステルの直剣を滑るように受け流す。

 剣に無駄な力が入っていたアステルは、雲海の躱しにまんまと引っ掛かった。そのままアステルの身体はよろけて地面に倒れ込む……その前に雲海の右ひざが、アステルの腹部に突き刺さる。元騎士団長のアステルの身体は九の字になり、そのまま地面にうずくまった。よほどのダメージを負ったのか、すぐに起き上がってくることはなかった。

 容赦なくやってもいい。前もってそう言ったが、まさかここまで徹底するとは思わなかった。

「……なるほど、やっぱりか」

 倒れ込むアステルの姿をじっくりと観察し、雲海は何か考え込む。しかしすぐに結論を出したのか、にこやかな笑顔を俺に向け、サラッとした口調でこう言葉にした。

「輝、やっぱり輝の言う通りだよ……この宇宙人、あんまり強くないかな」

「なっ……なあっ⁉」

 ストレートすぎる、ほぼ侮辱にも等しい雲海の発言。ただこれも雲海のストレートな物言いを平然と口にする性格が原因だ。本人は悪気があって言ったわけではないだろう。

 ただそんな事情など一切知らないアステルは、今まで以上に怒りを露わにしていた。エトの護衛騎士という地位にいるとはいえ、元は戦場を駆けまわる一人の騎士だったはずだ。そんな彼女が強くないと言われて、怒らないはずがない。

 しかしこれはあくまで、雲海視点の素直な感想だ。アステルの反応など二の次かのように言葉を並べる。

「あぁ……まあ、そんな気はしたよ。雲海との立ち合いを見て、確信に変わったわ」

「うん、ちょっとね。もちろん輝だったり、武術の心得がない空野さん辺りなら全然敵わないかもだけど、僕の相手にはちょっと物足りないかな?」

 あっけなく感想を口にし、アステルの脅威さをダダ下げする雲海。それは何よりもためになる言葉だし、俺も自分の推測に対して自信を持てるようになった。

 これはあくまで俺の推論だが……アステルはもしかしたら、地球基準ではそこまで強くないのではないか、とは思った。

 よく考えなくてもわかることだ。アステルが守っていたエストレリア王国は、基本的に他国からの攻撃をエトの爆発で蹴散らしてきた。その割合がどのくらいかまでは見えないが、エトの反応から考えてほぼ全部と考えた方がいい。

 戦争、と表現するにはお粗末なほどに、闘いになっていない。そうなれば必然的にエストレリアの騎士の、騎士らしい仕事は激減する。故に騎士本来の力は弱くなる可能性は十二分に考えられる。少なくとも俺はそう考えた。

 だから俺は雲海を差し向けた、彼ならアステル相手にも勝てると踏んだからだ。

もちろん雲海に対しても強制はしていない。しかし雲海も、事情を聞いてすぐに即答した。

『宇宙人と闘えるまたとない機会を逃すなんて、僕自身が許せない』

 と電話越しに熱弁していたのが懐かしい。そういうわけで雲海はほぼ自らの意志で、更にいえば嬉々としてこの誘いに乗ってくれたのである。

「訂正しろっ! この私が、強くないだなんて!」

 思考にふけていると、倒れたままのアステルが怒声を上げる。声の張りだけはしっかりしているが、直剣を杖にして立ち上がるその姿はなんとも情けないものだ。

 そんなアステルに対し、雲海は相変わらずにこやかな笑顔で応答する。ただし笑っているのは口元だけで、目は一切笑っていなかった。

「訂正? その必要はない、貴方の剣に意志がないからね。自らが定めた信念がない人の剣ほど、無価値なものがないからね。必然的に貴方は弱者ということになる」

「わ、私が、弱者……⁉」

「輝からだいたいの事情は聞いてるよ……国にしか忠誠を誓えないような信念なんて、大したものじゃない。もし本当に真っ当な信念があるとするならば、エトちゃんだって逃げはしなかっただろうね」

 トドメの一言を突き刺し、雲海のターンは終了する。返す言葉がないのか、アステルは歯ぎしりをして悔しさを表現していた。遠慮はいらないとは言ったが、結構遠慮ないな。俺だったら三日は寝込む。

「なんで……なんで貴方たちは我々の邪魔をする⁉」

 いろんなストレスを抱えてしまったのか、アステルの理性がついに爆発する。全身から伝わってくる怒りのオーラからは、なりふり構わずにはいられないという必死さすら感じた。

「これは我々エストレリア、強いてはアスタリスクの問題だ! 自分勝手な感情でちょっかいを入れてくるんじゃない!」

「その言い訳は苦しいでしょう?」

 そう切り返したのは、他でもない俺だ。こういう時くらい、目立っておかないとな。

「理由はどうであれ、エトは地球にやってきた。その時点で無関係というわけにはいかない。言い方を悪くすれば、地球側はエトという人質がいる。あまり舐めた態度を取るのは得策ではないぞ」

「この、無能異星人風情がっ……!」

「それにアステル……お前は一つ勘違いをしている」

「……はい?」

 表情が固まるくらい驚くアステルをよそに、俺はその事実を彼女に突きつけた。

「――いつからエトが、アスタリスクの人間であると錯覚していた?」

 含みのある笑みを浮かべながら、俺が意味深なセリフを口にした、その時だった。

 静かな丘に、ものすごいエンジン音が響き渡る。鼓膜を震わせるほどの爆音をかき鳴らしながら、何者かがこちらに接近してくる気配がビンビンに伝わってくる。エトやアステルは何事かと身構えるが、俺を始めとした地球人は割と平然としていた。そのけたたましい音を聞くこと自体が、別に初めてのことではないからだ。

 勢いそのままに、騒音の正体が姿を現す。それを一言で表現するなら黒塗りの高級車、または金持ちの象徴。普通の車では考えられない車体の長さを見れば、リムジン以外に応えようがない。

 そんなリムジンは、俺たちとアステルの間に割り込むように侵入する。運転しづらさで言ったらおそらくダントツとも言える車体のはずなのに、そのリムジンはレーサーさながらのドリフトを決めてきた。急いできたのはわかるけど、普通に危ないな。映画のスタントじゃあるまいし。

 ドリフトのかかったリムジンが停止したと同時に、そのうちの一つの扉が勢いよく開かれる。そこから飛び出した絢爛さ満載の綺麗系美少女は、珍しく切羽詰まった様子で叫んだ。

「間に合いましたか、赤星さん⁉」

「あぁ……なんとか、ギリギリな」

 その人物の表情に、俺はなんとも言えない表情を浮かべる。困っているわけではない、むしろ来てくれたことにはすげえ感謝している。ただ単純にその人……月島さんがちょっと苦手なだけだ。いい人なことには変わりないんだが。

「ちっ……次から次へと……」

 月島さんという新手の登場にアステルは、苦悶の表情を浮かべる。彩芽、雲海と来ての登場だ、月島さんも相当な芸達者ではないのか。アステルの立場からだとこう考えるのが妥当だ。

 しかし俺の狙いはそこではない。月島さんは他の比にならないくらいの強い正義感を持っているが、身体能力に富んでいるわけでも、武術に長けているわけでもない。だが月島さんには、彩芽や雲海には出来ないようなことを、いとも簡単にやってしまう力がある。

 月島さんの視線がアステルに向けられる。それだけで彼女の必死な表情が、鬼気としたものに変わっていく。

「……貴方ですね。エトさんを連れ去ろうとする愚か者は!」

「は……何言って……」

「えぇ、わかっています。全て赤星さんからお聞きしました。『エトが何者かに連れ去らわれそうになっているから手伝って欲しい』と頼まれ、いてもたってもいられず、ここにはせ参じた次第です」

「なっ……!」

 話が違う、そう言いたげな驚愕の表情を浮かべるアステル。それをよそに、月島さんはまるで先導者のような手振りで言葉を続ける。

「そんな極悪非道な真似、他が許してもこの私、月島蛍は認めませんわ! エトさんはこの私が、責任を持ってお守りしますわ!」

「いや、そこまでは頼んでないから」

 気分が乗ってしまっている月島さんに、俺はついツッコミを入れる。あまり想定外のことはしないで欲しい。そして水を差された本人は、ムッとした表情を俺に向ける。

「なんですの赤星さん! 今いいところでしたのに!」

「そういうのいいから……それで、ちゃんと頼んだことはしてくれたんだよな?」

「えぇ、もちろんですわ。その辺りは抜かりなく。私は仕事ができる女なので」

 なら問題はない。どうも波長が合わない俺たちだが、こういったことはちゃんとしてるから安心はできるんだよな。

 さてと。確認作業も終えたことで、俺は再びアステルと向き合った。

「アステル、アンタさっき言ってたよな。アスタリスクの問題に、異星人が口を出すなと。俺だってバカじゃない、その気持ちはわかる。俺としても、よその星の面倒事を抱えるのは御免だからな」

「な、なら……!」

「だから、誠に勝手ながら……エトを地球人にしてもらった」

「……は、はい?」

 唐突な俺の告白に、アステルは表情が間抜けになるくらい驚いていた。いつもお堅い表情をしているから、これはこれで新鮮だな。

 そして俺の言葉を引き継ぐように、月島さんが一歩前に出る。同時に手に抱えていた高そうな鞄から、いくつかの書類のようなものを取り出した。そしてその束をアステルに見せびらかした。

「赤星さんから聞きました。貴方、宇宙人ですってね。ならこの紙が何を示しているのか、わからないと思いますわ。だから簡単に説明して差し上げますと……この紙は、この日本という国の人間であることを証明する書類ですわ」

「そ、それがなんだと……」

「まだわかりませんこと? エトさんは本日をもって地球人、強いては日本人であることが承認されましたわ。ちなみに地球でのエトさんの名前は『月島エトワール』……なんて素晴らしい響きなのでしょう」

「なっ……!」

 夢を実現させうっとりとした表情で書類を撫でる月島さんと、やっと意味を理解し愕然とした表情を浮かべるアステル。向き合う二人の表情は、ものの見事に対照的だった。

 そう、今回俺が月島さんに頼んだこと……それはエトの戸籍を作ることだ。アステルや雲海は言った、あまりよその星の面倒事に首を突っ込むな、と。ならいっそのこと、エトを地球人にしてしまえばいい。エトの戸籍さえ作ってしまえば、アステルの方がよそ者ということになるのだ。境地に追い込まれた俺は、咄嗟にそんな案を思いついた。

 もちろん簡単なことではない。戸籍をでっち上げる方法なんて知るわけがない。それ以前に、エトが宇宙人であるということを隠しながら実行するのが、何よりも難しいところだ。失敗すればエトがそのまま連行され、解剖実験が行われることだろう。そんなバッドエンドだけは絶対に避けなければならない。

 そんな時に、俺の脳内には月島さんの顔が浮かんだ。彼女の実家はとにかく大金持ちだ。どのくらいの規模とか、どんなパイプを握っているのか、興味がなかったから知らないが、大抵の無茶はどうにかできる。俺はそう考えた。

 雲海を通じて連絡先を入手した俺は、月島さんにも今回の事情を全て話した。そうした上で、協力を要請した。だが実はというと、最初は答えを渋られた。

『エトさんの力になりたいのは山々ですが……私個人の都合で、月島家の力を使うのはちょっと私には出来ませんわ。そういう曲がった正義は嫌いなの』

 月島さんらしい、非常に真っすぐとした意見だった。でも俺としても折れるわけにはいかず、ある程度の交渉材料を提示する。具体的には「戸籍上は月島性にしていいこと」「事実上の養子扱いにしていいこと」などなどだ。これに対し月島さんは……

『全て私に任せてくださいですわ!』

 二つ返事でOKした。ここまでの華麗な手のひら返しを見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。

でもこれで普段はそこまで仲は良くないが、利害が一致したら協力関係を結べる間柄ということがわかった。月島さんに借りを作ってしまう結果となったが、それも致し方ない。エトのためなら安いものだ。

ふとエトの方を見ると、珍しく彼女もびっくりしたといった感じに目を見開いていた。サプライズ、というわけではないのだが、変に情報を頭に入れて態度に出るのを避けるためだ。だから彩芽たちも具体的なことは教えなかったくらいだ。

まあ何はともあれ……これで全ての手札を使い切った。もう〆に入ってもいいだろう。

「……というわけだ。地球人であるエトを連れて行くのは、普通にどうかと思うぞ?」

「ふ、ふざけるな! そんなまがい事が、この私に通じるとでも……!」

「別に通じるとかそういう問題ではない。エトがお宅の星の人間であることを証明すればいいだけの話ではないか……最も、俺たちにも理解できるような納得する証拠を、貴方が持っているとは到底思えませんが」

「こ、コイツ……!」

 俺が放つ全ての言葉が侮辱に聞こえるのか、アステルの怒りがかなりヤバいことになっている。今にも俺のことを掴んでボコボコにしたい衝動に駆られているだろうが、彩芽や雲海がいるせいで不用意に近づけないでいる。

 反論はないと見て取れる。アステルはその手の証拠を持っていない。これは自信を持って言えることだ。エトほどの存在が星からいなくなることは、星の中では結構な大問題のはずだ。何が何でも連れ戻そうと、彼女の国では大慌てだったことだろう。そんな証拠を準備している余裕があるとは、到底思えなかった。

 屁理屈、卑怯、俺のことをこういう輩もいるだろう。だが俺としては好きに呼べといった感じだった。宇宙人相手に卑怯もへったくれもない。守りたいものを守るためなら、俺は法に触れるギリギリの手段だって容易で用いるだろう。こんな感覚を味わせたのは、他でもないエトの影響だろう。

「アステル、もう諦めろ……アンタがこの星に留まる理由はない。惑星アスタリスク、エストレリア王国のエトワール姫は、不慮の事故で亡くなった。そういうことにしておけ」

「ふざけるな! そういうわけにはいかないんですよ!」

 ただアステルは諦めなかった。絶対的に不利な状況となっても、彼女は未だにエトを奪還しようと躍起になっていた。彼女の立場から考えたら無理もないだろう。

「だいたい……だいたい貴方の態度も気に食わない!」

「え、俺?」

 不意にアステルに指を指され、俺は困惑したフリだけしておく。一瞬びっくりはしたが、彼女の言葉を紐解けば何が言いたいのかくらいはわかる。だから意外と冷静でいられた。

「貴方は人に頼ってばかりで、さっきから何もしていない! そんな輩にデカい顔をされるのは、個人的にムカつく!」

「いや、ムカつくって……」

 返事に困ってしまうが、わからなくもない。客観視すれば、俺はただ有能な人たちを連れてきただけで、特に何かしたわけではない。そんなヤツにデカい顔をされてムカつくというのは、至って真っ当な感性だ。同じ地球人でも俺の成果を軽視する人はそれなりにいるだろう。

「それは違うよ」

 だからそう返事をした。しかし返事をしたのは俺ではない、すぐそばにいた彩芽だ。

「アタシだって輝じゃなかったら、こんな頼み聞かないよ。剣を振り回す人を止めろだなんて、どう考えたって無理だし、死ぬ可能性だってあるんだよ? アタシだって自分の身体が何より大事だから、絶対断ってる」

 全く持ってその通りである。まず警察行けよって感じだ、もしくはコイツ頭大丈夫かとかそんなことを思う。間違っても真面目に耳を傾けるヤツはいない。

「でもアタシは輝に、大きすぎる恩がある。テルがいなかったら今のアタシは絶対ないと思うし、その恩を一生かけて返せるかもわからない。だからアタシは輝に頼まれたとき、断るという選択肢は最初からなかったの」

「……私が騎士だということを、知っていても、か?」

「うん、その辺りの説明はちゃんと聞いたよ。でも彩芽ならできるって輝が言ったから、アタシは迷うことはなかった。そのくらいアタシは輝を信用してる」

 軽く微笑みを忘れることなく、彩芽はさも当然のように言葉にした。

 俺としては恩とか借りとか、そういうのを彩芽に求めたことはない。幼なじみ相手に損得勘定で物事を考えるのが嫌だからだ。ただどうやら彩芽はその辺りを気にしていたみたいだ。だとすれば頼んだ瞬間に了承したのも頷ける。

「僕はちょっと違うけど、だいたい一緒かな」

 彩芽に続けて、雲海も言葉を投げかける。

「空野さんに比べたら、僕なんて輝との付き合いは短いものだ。でもそれでも胸を張って、輝の親友だと自負できる。個人的な興味ももちろんあるけど……親友の珍しい頼みを断るほど、僕は無碍な男じゃない」

 うーん、このイケメンは……ただただカッコいいこといしか言わないから、本当に頭が上がらない。一体何でなら雲海に勝てるのか、俺には皆目見当もつかないわ。だからこそ、無限の信頼を寄せることも出来るんだけどな。

「……私はただ単純に、赤星さんと利害が一致した。それなりに大きな借りを作れるチャンスだから引き受けた。ただそれだけですわ」

 そんな二人に比べ、月島さんだけはさばさばしていた。しかし俺たちの間柄を考えたら当然のことだし、それはそれで安心はする。互いの利害が一致している協力関係は、意外にも裏切らないから下手な仲よりも信用できるのだ。しかも正義感が強い月島さんならなおさらだ。

 そして三人の言葉を聞いて、アステルは今度こそ黙り込む。返す言葉がないのだろう。

「まあ……そういうことだ。わかるか……これが『慕われる者』と『慕われない者』の差だ。確かに俺は能力的には大したことないかもしれないが、見くびってもらっては困るんだよ」

 優位な立場に立った俺は、ここぞとばかりに強気な言葉を吐く。こんなことでデカい態度を取るのは情けない限りだが、少しでもプレッシャーを与えなければならない。そのためなら致し方なかった。

 俺が言いたいことを言い終えた頃には、アステルも静かになっていた。闘争心のような鋭い目つけは変わらずだが、確実に口数が減っていた。もう反論する気も起きないのだろう。

「……わかった、ここは引こう。私とて異国の星で骨を埋めるのは勘弁だ。一度エトワール様のことは諦める……だがしかし!」

 ほんの少しでも気の抜きどころがない。そう言わんばかりに、再びアステルは立ち上がる。直剣を手にしていないところから闘う気はなさそうだが、警戒を解くわけにはいかない。

「これで終わると思わないでください……アスタリスクに帰ったら、私はエトワール様を奪還する小隊を結成する。そし再び我々は、この星に訪れることだろう。その時が貴様……テルと言ったな、テルの最期の時となるだろう。その時を迎えるまで、せいぜい安息の時間を過ごしているがいい!」

 などと供述するアステル。しかししっかりと胸を張り力強い口調で言葉にするその様からは、多大な自信が伝わってくる。

 自分の星に帰って人数を揃えた上で、再びエトを奪い返しに来る。アステルはこう言っている。確かにその策は間違っていない、むしろ王道と言っても過言ではない。だが……

「なぁに甘いこと言ってるんだ、アステルさんは」

 自信のある態度をしているヤツには、同じく自信のある態度を。キャラではないが俺も少しだけ偉そうな態度を取ってみる。無論、自信があるからやっていることだ。

 そしてアステルも俺の態度に、少しだけムッとする。ここに来てから彼女は邪魔されてばかりだから、ほんの少しだけ同情する。同情するだけだが。

「わからないのか、アステル。アンタをこの地球から出すことはできない。アスタリスク最強の騎士団を相手にするのと、貴方一人を監視下に置くの、どっちが楽なのかは明白だ。だからアンタに帰られては困るんだよ」

「……ほう、これまた戯言を」

 不利的状況だというのに意外そうな表情を浮かべるアステル。しかしそれで更に追い込まれるようなことはなく、余裕があるような口ぶりをしていた。

「いったいどうやって、我を拘束するというのだ? 確かに貴様たちを全員倒すのは骨が折れる。だが逃げることに徹すれば、貴方たちを相手にする必要もない」

「別に真正面から殴り合って倒す必要性は微塵もないだろ? 要はアステル、アンタをこの星から出れないようにすればいい。例えばそう……乗ってきた船が壊れるとか、そんなアクシデントが起きれば、さすがのアンタも帰れないだろう」

 アステルの後方を指差しながら、俺は考えを告げた。エトですら宇宙空間を自由に彷徨うことは出来ない。ならばアステルだってできないはずなので、宇宙船を壊せば万事解決だ。

 しかし当の本人はというと、俺の作戦を鼻で笑った。

「ふっ……それこそ不可能だ。我々が開発した宇宙船の強度を舐めてもらっては困る。物理攻撃で壊れるほど、柔なものではない」

 その言葉通り、アステルの背後にある宇宙船の固さは見るだけで伝わってくる。見たことない金属で作られているが、宇宙空間や大気圏にも耐えられる強度を持っているのは地球に来ている時点で実証済みだ。

「……そうだな、見ればわかる。そう簡単に壊れるものではないことは重々承知だ。でも……エトの爆発なら、容易に壊せるだろ?」

 なんせエトは空腹を我慢できずに宇宙船を破壊してしまった猛者。エトの力を持ってすれば、宇宙船の爆破は可能だと証明できる。

「確かにそうだ。だがエトワール様のエネルギーはもう底をついているはずだ。今から補給しても間に合わないだろう」

 それも否定できない。エトは先のアステルとの戦闘で、かなりのエネルギーを消費した。エトの口からも、ドデカい爆発を起こすことが出来ず、もう何発も打てないと宣言していた。生半可な補給では、どうしようもないだろう。

 だがそんなところで折れるほど、俺のメンタルも柔ではない。

「そうだな、普通は無理だろうな……ところで話は変わるけどさ。エトが補給のための栄養食が嫌いなのは、さすがのアンタも知ってるよな?」

「もちろんだ。いつも食べさせるのに苦労した。アレは私の舌を持ってしても、寛容できないほどに不味い。しかしアレが一番効率的にエネルギーを補給できる、一回分の食事で他国とやり合えるほどにな」

「らしいな。でも不味い、あのエトですら不味いと言ってしまう劇物だ。だからエトは栄養食を拒んできたし、聞くだけで拒絶反応を起こしていた……そう、アスタリスクの栄養食が死ぬほど不味いから、エトは苦手としていたんだ」

「……何が言いたい?」

「地球の栄養食を、同じ物体だと思うな」

 力強い口調で俺がそう言い終えたと同時に、背後からスッと前に出てくるものがいる。今回の一件の中心人物にして、さっきから一言もしゃべっていないエトだ。しかしエトは意図的に黙っていたわけではない。ただ物理的に、口が塞がっていたからである。

「……テル。これ、美味しい。すごく、美味しい」

 両手に抱える黄色の小箱に爛々とした眼差しを向けながら、エトは放り込むように食事をしていた。もちろんただの食事ではない、エネルギーを一番効率的に生成する補給をしているのだ。地球の優秀な栄養食品「ケロリーメイト」を食べることで。

 その成果は既に現れていた。さっきまではしぼんでいたエトの胸は、未だかつて見たことないくらい大きくなっていた。よほど苦しいのか着ていたカッターシャツのボタンがいくつかなくなっており、その隙間から魅惑的な谷間がこれでもかと主張している。

その大きさは、一般的にもかなり大きいアステルや月島さんのものを遥かに超える。そのはちきれんばかりの主張はアステルだけでなく、地球人の俺たちですら言葉を失っていた、

「あ、あぇ……ぇ……」

 ちなみにエトの胸を目の当たりにした彩芽は、言葉にもならない声を漏らしていた。もちろん顔や目は死んでいる。きっと現実を受け入れられないのだろう。ご愁傷様です。

「バ、バカな……あんなにエネルギーを溜めたエトワール様、初めて見た……!」

 アステルもエトの胸の成長具合に、驚きを隠せていない。その言葉からも、今までどれだけ栄養食を拒んでいたか明らかとなる。

 ただエトの胸を大きくさせることに対して、難しいことは何もなかった。エトは栄養食というものが嫌いなわけではない、不味いものが嫌いなだけだ。だから栄養食を拒んできて、円滑なエネルギー補給が出来なかった。でも栄養食自体が美味しければ、話は別だ。

 俺は今回の作戦を組み立てるにあたって、エトに一つだけ頼み事をした。もしもドデカい爆発を必要とする場面が訪れた際に、地球産の栄養食を食べて欲しいというものだ。もちろん最初はエトもいい顔をしなかったが、必死頼み込んだ甲斐があってエトも了承してくれた。まあケロリーメイトを食べたその瞬間から、地球の栄養食を全面的に信じたようだけど。

 何はともあれ、エトは無限の力を手に入れた。今だけは小惑星一つ破壊してしまうくらいの爆発力を、ほぼ永久的に放つことが出来る、マジの破壊兵器となった。軽々と触れていい存在ではない。

「……ごちそうさま」

 やがてエトは手に抱えていたケロリーメイトを全て平らげた。その数、約30箱。短時間で全て胃に放り込んだにも関わらず、お腹周りは一切変わってない。そして最終的にエトの胸は、成人男性の頭くらいの大きさにまで到達した。

「エト、行けるか?」

「……よゆう。アステルがどこににげようが、かんけいない。ぜんぶ、ふきとばす。あとかたもなく」

「ひぃっ⁉」

 エトの冷たい視線がアステルを貫く。彼女も思わず、引きつった声を抑えられなかった。外見は胸以外、何も変わっていない。抱きしめたくなるような小柄な身体も、思わず見惚れてしまうくらいの美貌も、そして見慣れた感情の乏しい表情も、何もかも。

 しかし俺でもわかる、エトの身体から放たれる謎のオーラ。威圧感とでも言えばいいのだろうか、とにかくあんなエトに敵対されてまともに精神を保てるヤツはいない。本能的に強者を相手して怖気づくのと同じ感覚だ。

 そんなことを考えていると、エトは視線を動かさずに手だけを俺に差し出した。

「……テル。手、つないでて」

「え、あ、あぁ……」

 突然だったので俺も戸惑うが、特にツッコむことなくエトの言う通り空いた左手に触れた。彼女の細くしなやかな指が絡み合い、俺の心臓が跳ね上がるように鼓動する。一体これが何の意味があるのかはわからない、でもきっとエトにとっては必要なことなのだろう。

 そのままエトはゆっくりと、空いた右腕を前にかざす。その構えは先ほども見せた、爆発を狙う時のものだ。その標的はアステルと、その背後にあるカプセル型の宇宙船。狙われていると察したアステルが慌てて船に戻ろうとするが、既に何もかもが遅かった。

「アステル。あなたはおおくのあやまちをおかした」

 冷たい声色を維持しつつ、エトは呪文のように言葉を唱える。それは本当に言葉なのか、呪文なのか、はたまた怨念なのか。それを知るのはおそらくエトしかいないだろう。

「エトにマズいものばかりたべさせたこと。エトのじゆうをうばったこと。エトのことばをろくにきいてくれなかったこと。そしてなにより……テルをぶじょくしたこと」

 次第にエトの声色に熱がこもる。ふと顔を覗くと、ほんの少しだけだが、怒っているように見えた。今まで少しだけ露わになっていたエトの感情の中に、怒りはなかった。てっきりエトの中に怒りの感情はないと思い込んでいたが、それこそが悪い思い込みだ。エトは単純に怒りの沸点が高すぎる……それ故に爆発した時の凄みは、誰にも逆らえなかった。

「――爆散して、塵に還れ」

 耳を疑うほどの物騒な言葉と共に、エトは自身の力を解放した。一瞬だけエネルギーの波動のようなものを感じた。それが次の出来事の予兆だった。

「みんな、伏せろっ‼」

 それと同時に丘に響く、雲海の怒声。頭で反応する余裕はなく、俺たちは地べたに伏せた……その一秒後、静かな丘が真っ赤に爆ぜた。

 まず感じるのは、熱と音。服の上からでも十分感じる高熱は、ジリジリと肌を焦がしそうな熱さをしていた。真夏の暑さなど、比にならないくらいに。加えて音、咄嗟に耳を塞いだにも関わらず、爆音は普通に聞こえてきた。後少し耳を塞ぐのが遅れたら、鼓膜はお亡くなりになっていたことだろう。

 そして一瞬遅れて、爆風が俺たちを襲う。熱と音も加わり、実害がないはずなのにすごい迫力を肌で感じた。あの中心にいたのなら、五体満足で帰ってくることなど敵わないはずだ。

 初めてお目にかかった、エトの本気。今まで見てきた不完全な爆発が、可愛く見えてしまうほどに凄まじいものだ。これをごまかすのは、ひどく大変なことだろう。

 エトの本気の爆発に耐えられるものなど、この世には存在しないだろう。そうと言わんばかりに、爆発が過ぎ去った後に出来上がった荒野には何もなかった。あれだけ見たこともない金属で固められた宇宙船は、もはや見る影もない。黒く焦げ原型を失い、今はただ黒い煙を上げるだけであった。

「……アイツもさすがに死んだんじゃねぇか?」

 唯一の心配事があるとすれば、数分前の敵の安否だ。確かに人として馬の合わないことばかりであったが、個人的に殺したいほどではない。贖罪の意味でも、彼女には生きてもらわないと結構困る。あと単純に後味が悪い。

「だいじょうぶ。アステルはああみえて、にげるのとくい。ほら」

 それに対し、一ミリも心配していない様子エト。既に先ほどまでの迫力は消え失せ、いつも通りののんびりとした雰囲気に戻っていた。

 そんな彼女が、宇宙船だったものの方へと指を指す。そこには爆風に巻き込まれ地面に捨てられたアステルの姿があった。さすがに無傷というわけにはいかず、全身傷や焦げだらけになっている。だがそこは宇宙人特有の生命力、気絶で済んでいるようだ。

「あの状況から逃げ出せるって、よその星の騎士様は凄いんだね」

「それでも結構死にかけてると思うけど……」

「ふん、エトさんを連れ去ろうとしたんです。当然の報いですわ」

 雲海たちも倒れたアステルを見て、各々感想をこぼす。とにかく誰の目から見てもアステルが戦闘不能になったのは明らかだろう。

 そう認識した瞬間、俺はやっと肩の荷を下ろせた。とりあえず目下の問題は解決できたと言ってもいい。アステルの処遇は今後考えていくとしても、彼女が逆らう気が起きるとは考えにくい。そのために念入りに宇宙船まで壊したんだからな。

 それでも全ての問題を解決できたわけではない。アステルが戻ってこないことは、直にアスタリスクの人間も気づくはず。そうすれば結局のところ、第二第三の使者がやってくることだろう。今度からはそれを相手にしなければならない。

 更にエトやアステルの存在の隠蔽も、継続的に行っていかなければならない。いくら裏ルートで戸籍を入手したとしても、地球人と認められたとしても、エトが宇宙人であることは変わりない。今のところは大丈夫だが、その存在が明るみになれば地球人からも追われることになる。

 宇宙人と地球人、その二つから追われなくてはならない状況に陥ってしまった俺。しかし微塵も後悔などしていない。苦しい運命など知ったことではない。エトを守り、いつまでもエトと一緒にいる。ほぼ唯一と言ってもいい、俺のささやかな願いが叶うのなら、俺はあらゆる力を尽くすことだろう。

「……テル」

 くいっとエトが服の裾を引っ張ってくる。先の一撃でかなりのエネルギーを消費したのか、胸が少し縮んでいた。それでも上目遣いで見つめる彼女の双眸からは、一輪の可憐な花のような煌めきを感じた。これを再び見るために頑張ったと言ってもいいだろう。

「……おなか、すいた」

 その一言で思わずずっこけかけたのは言うまでもない。エトらしいと言えばエトらしいけど。

「さっきケロリーメイト、いっぱい食べてたじゃないか」

「あれは……きんきゅうじたいだったから。あれもおいしかった、おいしかったけど……」

 見つめる瞳を一切変えることはなく、いつも通りの表情、いつも通りの声色で、エトはいつも通りのお願いをぶつける。

「……エトは、テルの料理が食べたいの」

 甘い声で発せられたその言葉を聞いた時点で、俺は難しく考えるのを止めた。まだまだ考慮すべき問題は山ほどある、でも直近の問題は解決した。なら今俺がすべきことはたった一つだ。

「……そうか。なら早く帰るか、我が家に」

「うん」

 握ったままのエトの手を軽く引き寄せ、帰路へと誘う。エトもご飯が待ちきれないのか、俺を押してでも先に進もうとする。慌てなくてもいい、ご飯は逃げない。だがエトの一番いい笑顔を拝むために、少しでも早く帰るとしよう。

 爆発の影響で、見る影もなくなったお気に入りの丘。しかしその遥か上空に広がる美しい夜空は、相変わらず綺麗なままだ。そしてそれを背景に血を歩むエトの表情は、この世の何よりも美しく、可憐で、全身の熱が膨張してしまうくらいに可愛いものであった。

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