第10話

 エトが学校に襲来した日の翌日。曜日で言ったら土曜日、つまり休日だ。学生にとって、いや社会人にとっても、この日のために生きていると言っても過言ではない、貴重な休息日だ。

 そして俺にとっても、休日は喉から手が出るほど欲していたものだ。二日前にエトがこの星にやって来てから、エトの世話が俺の日課になろうとしていた。まだ慣れないところも多々あって、俺の身体には確実に疲労が溜まっていた。エトの世話を休むことは出来ないが、精いっぱい身体をリフレッシュしよう。そう決めて臨んだ休日だった……はずだったのに。


「今日はアタシがご飯を用意するよ‼」


 たった一人の幼なじみのその言葉で、俺の休日から安寧という単語は消え去った。


「やめろ、絶対にやめろ」

 その言葉が聞こえた瞬間、エトの世話をしていた俺は飛ぶような勢いで声の主である彩芽のところまで辿り付き、容赦ない拒絶の言葉を浴びせる。

「て、輝……そこまで言うことでも……」

「いいか彩芽……俺はまだ、死にたくない……」

「そこまで⁉」

 俺の大げさすぎる言葉に、彩芽も大げさ気味に驚く。まあ客観的に見たら、俺の言動の方がおかしいと思うのは当然のことだ。ただわかってほしい、俺は目の前の彼女……彩芽が嫌いでこんなことを言っているわけではない。ただ本当に言葉通り、死にたくないだけなのだ。

 そんな彩芽の恰好は、簡素とも言えるTシャツと短パンの組み合わせだ。袖などからはみ出る細い腕や脚につい目がいってしまいそうになるくらい、彩芽のその姿は似合いすぎていた。今日は部活がオフだったはずなので、軽くランニングでもしていたのだろうか……いや、今はそんなことどうでもいい。今注目すべきなのは、彩芽の発言だ。

 彩芽は超がつくほど、家事が苦手だ。それは他でもない俺が今まで見てきた事実だから、疑いようがない。だがそれでも、全くできないわけではない。彩芽だって最低限の掃除はするし、俺に洗って欲しくないものは自分で洗うくらいのことは出来る。俺が頑張って家事を教えれば、人並み程度の家事能力は身につけられるだろう。

 だが料理……料理に関してはその範疇ではない。彩芽の料理スキルは、はっきり言って終わっている。それ以外に表現しようがないのだ。十段階評定なら、間違いなくマイナス10だ。

 まず単純に、料理しているはずなのに食べられるものが生まれない。彩芽が調理したものは、もれなく全てダークマターへと変わる。昔、パンケーキを作ると言いながら、禍々しい紫色の物体が出ていた時は、さすがに自分の目を疑った。

 無論、そんな料理が美味しいはずがない。幼なじみという関係上、俺は彩芽の料理を誰よりも食べてきた。ただそれでもあの名状しがたい不味さはいつまでも変わらなかった。思い返しても、よく今まで生きてこれたなと常々思う。

 そしてそれを頷けるように、こんなニュースもある。中学時代のバレンタインに、彩芽がクラスの男子に手作りの義理チョコを配ってしまったのだ。その当時から彩芽は文句なしの美少女だったので、男子は狂ったように喜んでそれを口にしたそうだ……もちろん、全員一撃KOだったけど。唯一回避したのは、その不味さを知っていた俺くらいだ。

 とまあ、いろいろなエピソードこそあるが、とにかく彩芽の料理は死ぬほど不味い。多分食用の昆虫とかの方がよほど美味しく感じられる。そのくらい非常に不味いのだ。大事なことなので二回言いました。

「……とりあえず理由を聞こうか。彩芽が理由もなく、料理するとは言わんだろうし」

「それは、その……少しでも輝の負担を減らそうと思って……」

 恥ずかし気にもじもじと指をこすらせそう口にする彩芽は、エトに負けじ劣らず可愛らしいものであった。そこからこぼれる甘いセリフは、それこそ男の心を射抜いてしまうほどの威力を持っていた。ただ彼女がやろうとしているのは、男の命を射抜くことだけどな。

 その気づかいは大変ありがたい、ありがたいのだが……

「……百歩譲って、俺に食わせるならまだいい……もちろん良くなし食いたくないけど……でも今はエトがいるんだぞ。エトに不味いものなんて食わせられない、ショックで大爆発とかシャレにならないから……」

「そ、そこまではさすがにないんじゃない? アタシの料理だって、確かに不味いかもだけど、そんなに不味いってわけでも……」

「そんなに不味いんだよ、それが……」

 もはや天然とも受け取れる彩芽の発言に、俺は頭を抱えたくなる。

この言葉でもわかる通り、彩芽は自身の料理がいかに不味いのかの自覚が足りていない気がする。もはや現実逃避しているとまで考えられる。一応あの事件のこともあって、不味いことには気づいているはずなんだけどな……

「……アヤメも、ごはん、つくれるの?」

「エト⁉」

 そんな悠長なことを考えていたら、部屋の奥からエトがとことことやってきた。料理に関する話題が聞こえてきたからだろう、既に食事をする気分のようだ。期待のこもった眼差しを俺たちに向けてくる。

 しかし今はそれどころではない。俺の中の危険信号が、真っ赤に点灯していた。

「いや、エト、聞き間違いなんだ。彩芽の料理スキルは終わってて、マジでダメなんだ。もし食ったらいくらエトでも……」

「……輝? そろそろ怒るよ?」

 顔がムッとして怒っているようだが、そんなのは関係ない。この地球を守るために、彩芽に料理などさせられないのだ。全力で止めるのが正しい、俺は間違っていない。

 するとエトが俺の服の裾を掴み、くいっとこちらに引き寄せる。可愛い。

「それよりテル、おなかすいだ。エト、ごはんたべたい」

「あぁ、うん。わかってるわかってる。すぐ準備を……」

「だからアタシに任せてってば!」

 もはや俺たちの間に物理的に割り込むくらいの勢いで、彩芽が間に割って入る。加えると俺の顔を見ないようにして、エトの顔を覗き込んできた。俺に怒られるとわかってて、わざとやってるな。多分俺に気遣っているというのは本当のことだろう。その気持ちは非常にありがたいのだが、時と場合を弁えてほしいものだ。

 唐突の彩芽の暴走、しかしエトはそれを前にしても非常に落ち着いていた。

「……さっき、テルがまちがいって……」

「そ、それは誤解だよ……確かに輝より上手くは出来ないけど、全くできないわけじゃないんだよ? あ、アタシだってそれなりに頑張れば……」

 ボソボソと声を小さくさせながら、彩芽はやんわり否定する。なにやらものすごい期待を膨らませているところ悪いが、気持ちでどうにかできるレベルではないのだ。出来るだけ幼なじみ相手にこんなきつく当たりたくないが、現実を教えてあげるのもまた優しさなのである。

「……彩芽。わかってると思うけど、ウチの台所は立ち入り禁止だからな。やるなら自宅に戻ってやってくれ」

 そんな彼女に俺はトドメかのように料理をさせない道へと誘っていく。彼女が台所に立ったらどうなるか……その光景すら見たくない俺は言葉通り、彩芽の台所への立ち入りを禁止している。もし彩芽が何かを欲する時は、俺が彼女の手となり足となって、召使いのように何でも用意してあげるのだ。全ては彩芽に料理という選択肢を与えないために。

 だからもし彩芽が料理をしたかったら、一度自分の家に戻って調理を済ませないといけない。ただそれだけの時間があれば、俺の調理も済んでいることだろう。何せ彩芽は料理に慣れているわけじゃない。不慣れで手こずるところも加味すれば、絶対間に合うことはないだろう。

 しかし今日の彩芽は一味違う。その意外性をこんなところで発揮してほしくはなかった。

「大丈夫だよ、輝……だってもう、作り終わって持ってきてるから!」

「な、なんだと……⁉」

 テンプレのような声をあげる俺。だがすぐに俺の感情は、焦りと恐怖で包まれた。まさかここまで用意周到だとは、俺も予想だにしなかった。どれほど俺のことを助けようと気を遣っているのか、その優しさは直に伝わってくる、でも今はそれどころじゃない。

 そんな俺をよそに、彩芽は近くに置いたままだった自分のエナメルバッグからタッパーを取り出していた。あのバッグは普段から彩芽が部活に使っているもの、それを見間違うはずがない。ただその固定概念に縛られてしまい、食べ物など入っていないと思ってしまった。特にこれといった用もないのに、エナメルバッグを持ってきている時点で察するべきだった。

「さぁ輝、エトちゃん。ちゃんとその目で見てね! これこそアタシが朝から頑張った成果だよ!」

 誇らしげにタッパーを天に向ける彩芽。その勢いある躍動感を残したまま、彩芽は開けてはならないタッパーの蓋をガっと開けた。

「うっ……⁉」

 その瞬間、俺は鼻を押さえる。もはや脊髄反射の如く染み込まれた、無駄のない洗礼な動き。そのくらい鼻を押さえるまでの俺の動きは素早いものだ……一秒でも遅れたら、鼻がもげそうになるからな。

 そして俺は目を向ける、彩芽が持つタッパーの中身に。およそ食べ物とは思えない、紫色のドロドロの液体に。

「あ、あの、彩芽……これは、なに?」

「え、なにって……シチューだけど?」

「これをシチューだと思うのなら、彩芽は一回病院に行った方がいい」

 思わず容赦のないツッコミをかましてしまう。でも仕方ないのだ、俺だってその禍々しい物体を前にして冷静さを失っているのだ。

 俺の知っているシチューは、クリーム色をしていたはず。それに野菜や鶏肉などいろんな具材が入っていて、見ているだけで食欲を掻き立てられる素晴らしい料理だ。でも彩芽の持っているそれからは、一切食欲など湧いてこない。むしろその物体から殺意らしきものが発しているかにも感じられた。

 だが見た目などこの際どうでもいい。もしかしたら異臭を放っているかもしれないが、一旦置いておこう。それよりも大事で、可及的速やかに確認しなければいけないことがある。

「……彩芽。これちゃんと味見はしたんだよな? もちろんしたよな?」

「え、えっと、それは……てへ♪」

「彩芽さん⁉」

 お茶目に舌を出す彩芽であったが、俺はというとぎょっと目を剥いて彼女を凝視した。自分でも不味いってわかってるのに、味見しないとか正気か⁉

「じ、時間がなかっただけだから! 作り終わったらもういい時間で、味見する余裕がなかったの!」

「その配慮が出来るんなら、味の配慮もしろよ! 俺でも味見をするのに、一番欠かしたらいけない工程すっ飛ばすとはどういう了見だ!」

「う、うぅ……」

 さすがの彩芽も反論する余地がないのか、困ったかのようにしょげた顔になる。いつもならちょっとやり過ぎたとも思うのだが、今日だけはそういうわけにはいかなかった。いち早くこの危険物を処理しなければ……

「……これが、ごはん?」

「ちょ、エト待て!」

 不用心に彩芽の料理に近づくエトを、俺は羽交い締めまでして無理やり引きはがす。物理的に距離を取られたのもあり、エトは悲し気な表情を浮かべる。その姿も十分可愛らしいものだが、今はその可愛さに呆けるほどの余裕はない。

「テル? どうしてエトをつかんでるの? あそこにごはんが……」

「いや、違う! あそこにあるのはごはんじゃない! 騙されるな、エト!」

「ちょっと輝、ひどいよ! 食べもしないで不味いとか、食べ物じゃないとか決め付けるとか! アタシそういうのどうかと思うよ!」

「そういう言葉はちゃんと味見してから言え!」

 つい言葉が汚くなってしまうが、それほど必死だということがまるで伝わっていない。何故慈悲深いほどの気遣いが出来るというのに、肝心なところはこうも向けているのだろうか?

 しかしこのままでは埒が明かない。エトをこのダークマターの間の手から守らなくてはいけないし、彩芽の怒りを鎮めなければならない。俺とてエトのことでいっぱいいっぱいであるが、こんなことで幼なじみとの関係を壊したくはない。

 そのためにどのような手段を取らなくてはならないのか、しかしその答えは既に俺の中で固まっていた。本当は選択すら拒みたいほどの苦渋の選択だが、背に腹は代えられない。

「……わかったよ。ならこの俺が毒……味見してやるよ。それでエトに食わせるかどうか判断する。これなら文句ないな、彩芽?」

「え、あ、うん。それならいいけど……今毒見って言わな……」

「ならそういうことで!」

 彩芽の言葉が最後まで言い終わるより前に、俺は彼女の手からタッパーをひったくった。余計なことを勘づかれて機嫌を損なうヘマなど犯さない。料理に対するアクションを取れば、そんな些細なことも忘れてくれるだろう。

 しかしそのアクションを起こすことが、何よりも難しいことであった。

(これを……食うのか)

 彩芽の料理を前に、俺はついたじろいでしまう。いくら他の人よりも彼女の料理を食って来たとはいえ、この言葉に出来ないほどの緊張感は身体が忘れることはなかった。最後に食べたのがいつだったかは覚えていない、単純に思い出したくないからだ。

 でも食うと言ってしまった以上、俺に食う以外の道は残されていない。何度も自分の中で覚悟を決め、俺は近くの箸立てにあるスプーンを手に取る。その際両手が塞がり鼻を押さえられなくなり、つい彩芽の特製シチュー(仮)の匂いを吸い込んでしまった。

「……ぶっ⁉」

「輝⁉ どうしたの⁉」

 なんか彩芽の声が聞こえる気がするが、具体的な言葉を聞き取ることは出来なかった。鼻腔を通して身体中に伝わるシチューの香りが、俺の知っているシチューの香りなどしていなかった。近い匂いは何かと聞かれたら、中学時代に理科の授業で嗅いだ硫黄の匂いだ。単純に言えば刺激臭、具体的には腐った卵の匂いだ。とにかく臭い、今すぐ鼻を引っこ抜きたいくらいに。

 刺激臭を発している時点で、それはもう料理ではない。そしてそんなものを口にしたらどうなるか、バカでもわかることだ。だがもう行くしかないのだ。彩芽もさすがに食べ物以外のものなど使っていないと思うから、最悪胃に入れても大丈夫だろう……大丈夫だと信じたい。

 握ったスプーンでシチューをすくう。ドロリとしたシチューの感触自体に問題などないはずなのに、問題しか感じないのは不思議でしょうがなかった。しかしもう後戻りなど許されない。

 最後の覚悟を決め、生唾をゴクリと飲み込み、すくったシチューを口に流し込む。

「――っ!?!?!?」

 その瞬間、俺の意識が飛びかけた。激しい痺れと痛みが全身を走り、それを身体に吸収することを拒絶している。味の感想は言うまでもないだろう。

(まっっっっっっっずっっっっっっ‼)

 もはやそれ以外の言葉が見つからない。この名状しがたいレベルの不味さは、俺の語彙力程度では表現できない。とにかく不味い、ただただ不味かった。頑張って意識を戻そうとしても、身体中を刺激する痛みが引くことはなかった。

 彩芽の料理を食べたのは、本当に久しぶりのことだ。何せ不味くて食べたくないからな。ただ久しぶりに食べても、彩芽の料理は不味かった。昔よりマシになったとか、そんなことはわからない。なんせ昔も今と同じように、意識を刈り取られ味わう余裕などなかったからだ。

 しかし俺は、ほぼ劇物とも言える彩芽のシチューを吐き出すことなく、喉に流し込む。喉の全てを侵食していくような気持ち悪い感覚に襲われるが、今は我慢だ。部屋を汚したくなかったり、エトに汚いところを見せたくないというのもあるが、何よりも幼なじみの表情を汚したくない。その一心で口に入れたものは飲み込むように精進してきたのだ。

 最もそんなことしているのは俺だけだ。まあそもそもからして、ほとんどの人間はそのまま気絶に追いやられ、食べたものも口から出てしまうからな。彩芽の両親も彼女の台所への立ち入りを禁止してたっけ……

「て、輝……?」

「……はっ⁉」

 心配そうに見つめる彩芽の声で、俺の意識ははっきりしたものになった。危ないところだった……他人よりも彩芽の料理に対する耐性はあるが、平気というわけではない。あのまま緩やかに意識が飛んでいてもおかしくなかった。

「悪い彩芽、助かった。意識とさよならするところだったぜ」

「う、うん……なんか引っ掛かるところはあるけど、一旦置いておいて……で、どうだった、アタシが作ったシチュー?」

「え、もちろんめっちゃ不味かったけど? とてもこの世のものとは思えなかったぞ」

「容赦ないね⁉」

 いや、容赦もクソも、これ以外の感想なんて出てこないだろ。むしろすぐに感想を口にしていることそのものが珍しいと思わないと。何せこれ食って意識を保っていられるのが俺だけなんだから。

「なら自分で食ってみるか? 食うまでもないと思うけど、これが一番説得楽だし」

「うっ……う、うん。やめておこうかな。体調を崩すのも良くないしね」

 虚空を眺めながら、彩芽は言い訳がましくそう言った。人に食わせておいて自分が食わないとか、世間一般にはどうかと思うけど。

 まあそこは俺なので許す。彼女の言葉にもあったように、彩芽の身に何かあるのも面倒だ。わかりきったバッドエンドにわざわざ足を突っ込まなくてもいい、そういうのは俺の役目だ。

「というわけでエトの料理は俺が……ってあれ?」

 結論が出たところで後片付けと調理を始めようとしたのだが、そこで俺は異変に気付いた。

「彩芽、タッパーどこやった? もしかしてもう取り上げた?」

「え? いや、アタシは何もしてないけど……」

「じゃあ、一体どこに……」

 そこまで言ったところで、俺の中に嫌な予感が走る。それと同時に全身の血が引いていく感覚に襲われた。すぐに俺は、タッパーの行く先である方をバッと振り向いた。

「……んぅ?」

 そこにはさっきからお腹を空かせたエトがいる。ただそこが問題ではない。何より問題なのは、エトが持っているもの……つまり彩芽のシチューが入ったタッパーだ。さっき俺が苦しんでいる最中に床に置いておいたのだが、興味を持ったエトがいつの間にか持っていったようだ。

 そしてエトは、俺がさっきまで使っていたスプーンを舐めるように咥えていた。一瞬間接キス、なんて単語が浮かび上がったが、すぐに霧散した。今はそれどころではないことは、もはや説明するまでもないだろう。

「お、おいエトっ⁉ なにやってるんだ⁉」

「……ん? なにって、ごはんたべてるだけ……」

「だけって! そんなもの食べたら、食べたら……あれ?」

 ここで俺はふと違和感を覚える。いや、それはもう違和感などではない。ただの異常事態だ。

「エト、お前……平気なのか? 彩芽の料理食って……」

 エトが普通に会話している。そんななんでもないことだが、この状況においてはあり得ないことなのだ。

 大抵の人間なら食った時点で一撃ノックアウト、俺ですら苦しみ悶えるほどの不味さを誇る彩芽の料理。それを食べて気絶しないことですら奇跡なのに、苦しまずに平然と会話していることなど不可能に近い。そのはずなのに、目の前の宇宙人は違うようだ。

「……たしかに、テルのごはんよりはおいしくないけど、食べられないほどじゃないよ?」

「嘘、だろ……⁉」

 彩芽の料理が食べられるとか、一体どんな舌と胃袋をしているんだ? それが出来るのは全身が合金で覆われたサイボーグくらいだろう。まず生身の人間では無理なことは、俺がしっかり証明している。

 まあとはいえ、エトは地球人ではなく宇宙人だ。よその星の人間が俺たちと同じ身体の構造をしていると考える方がおかしいか。もしかしたらエトたちはどんな食べ物も問題なく食べられる鋼鉄の舌と胃袋を持っているのだろうか。

「え、エトちゃん! 本当に、アタシの料理食べれてるの⁉ 身体は大丈夫⁉」

 そして俺以上に過剰な反応を示しているのは、他でもない彩芽だ。驚きのあまり、エトの肩を掴んでグラグラと揺らしていた。

 ただ彩芽が慌てふためくのも無理はない。俺の知る限り、彩芽の料理を食ってきて無事な人間はいない。それは俺以上に彼女と長く暮らしていた両親だって例外ではない。つまりそれは、彩芽の料理を食ってピンピンしているヤツを、彩芽自身も見ていないことになる。

 そして今、その例外が現れたのだ。それはもう、奇跡という言葉では表現しきれない。

「……からだ? べつに、なんともない。いつも、どおり、だよ」

 言葉通りのなんでもない口調で、エトは表情すら崩さずに呟いた。そしてその言葉を証明するかのように、彩芽のシチューを食べ進めていく。俺の料理を食っている時に比べたら、確かに美味しそうには食っていない。それでもスプーンを一定のペースで、口までシチューを運んでいた。

「ちょ、エト……」

 さすがの俺も止めようか迷った。しかしそんな余裕すら与えてくれず、エトはタッパーを両手で持って流し込むようにシチューを煽っていく。食べる量はともかく、エトはまだ食べ方に不慣れだから心配だ。主にシチューが目に入ってしまわないかとか、失明とかしそうだし。

 しかしそんな心配も杞憂に終わる。もはやエトの信条とも言える早食いをここでも発揮し、彩芽のシチューをぺろりと完食した。あの劇物を食ったにも関わらず、エトの表情は食う前と変わらずの無表情だった。

「……ごちそうさま。おいしくはなかった、かな」

 そんな遅すぎる感想を口にするエトを前に、俺はもちろん彩芽ですら言葉を失っている。まさか彩芽の料理を完食する生物が現れるだなんて……今まではゴミ箱が処理してたっていうのに、これはもう奇跡以上の偉業だろう。幼なじみの俺ですら無理だ、絶対に。

 エトを前にして固まる俺だったが、ここで彩芽が動いた。食事の余韻に浸るエトの背後に回り込み、優しく抱きしめていた。その瞳からは、一筋の涙が流れていた。

「輝っ! エトちゃんいい子! とってもいい子‼」

「あぁ……まあそうだな」

 未だかつて見たことないほどテンションを爆上げする彩芽に、俺も引き気味に返答する。バスケの試合でも、こんなテンションの上がった彩芽を見たことがないな。

ただその気持ちもわからなくもない。初めてだもんな、彩芽の料理を完食する人が現れるなんて……まあ宇宙人だけど。例えそれが何者であろうと、美味しくないとストレートに言われようと、彩芽が声を大にして喜ぶのは当然のことだった。

「……アヤメ、いたい」

「あっ! ご、ごめんねエトちゃん! つい嬉しくなっちゃって……」

 ギューッと彩芽が抱き締めていたのもあり、エトの顔がちょっと苦しそうだった。それに気づいたエトは慌ててエトを解放する。それでも緩み切った笑顔はそう簡単には締まらないようだ。どんだけ嬉しかったんだよ……

 とはいえこれはこれで喜ばしいことだ。初めて二人が会った時は、状況が状況だったため険悪な空気が流れた。その後も二人が接する機会がなかったわけではないが、決定的に距離を縮ませるほどのイベントは起きなかった。エトは彩芽を俺の知り合い、彩芽はエトを俺に関わろうとする宇宙人、としか思っていなかったはずだ。

 でも結果として、二人の仲は少しずつ深まろうとしている。まあエトはどうでもいい感を醸し出しているが、ああなった彩芽を止められないだろう。何せコミュ力の塊だもんな、アイツ。

「エト。彩芽に悪気はなかったんだ。言葉通り、嬉しくなった結果ともいえる。許してやってくれると、俺としても助かる」

「べつにおこってないからいい。おなかも満たされたし、エトは満足」

「そうか、ならいい」

 一応俺の方からもフォローは入れておいたけど、余計なお世話だったな。そもそも感情の起伏があまりにも緩やかなエトに、怒るとか悲しむとかそういう感情があるのだろうか? 今まで生活を共にしてきたけどそんな面影は一切なかったし、何より宇宙人だ。もしかしたら感情という概念そのものがないのかもしれない。

 まあ考えても答えが出ないような疑問に悩まされてもしょうがない。それにより気になる疑問が、俺の脳内に浮上した。

「……ふと気になったんだけどさ。エトって嫌いな食べ物とかあるの?」

「……きらいな、たべもの?」

「うん。まあ深い意味はないけどさ、ただの興味本位だし。でもちょっと気になって」

 むしろ気にならない方がおかしい。いくら先入観がなかったとはいえ、彩芽の料理を難なく食べたのだ。エトが個人的に嫌いなもの、それこそ口にすることすら拒否したいくらいの食べ物など、この世に存在しないだろう。

 しかし意外にも、エトは即答などしなかった。かといって思い出そうともしなかった。そもそもエトは俺の疑問を耳にしてしばらくした後、珍しく顔をしかめた。いくら可愛らしいとはいえ、エトにとっては似つかわしいその表情。だが俺はその顔を見たことがある。昨日の学校の帰り道に見たものと、全く一緒だった。

「……えいようしょく」

「え、栄養食って……それがエトの嫌いなものなのか?」

「きらい……かどうかは、わからない。でもたぶん、きらい。たべたくはないし」

 結構あやふやな答えではあるが、おそらく嘘ではないだろう。エトは嘘がつけるほど器用な子じゃない、まだ少ししか時間を共にしてないがそんな気がした。

 それにこの供述には裏付けがある。それこそ昨日、お腹を空かせたエトに俺がケロリーメイトをあげようとしたら、エトはそれを拒否した。あの時はただただ衝撃を受けたが、そういう事情があるなら十分納得もできる。

「理由とかある……よな? まさか理由もなしに、食べ物を嫌いだなんて、エトが言うはずないだろうし……」

「……えいようしょくは、マズい。だからたべたくない」

 相変わらずの無表情で理由を述べるエト。しかしその想いが強いのか、少しだけ声量が大きくなる。

「エトはむかしから、よくえいようしょくを食べてきた。でもその全ては、もれなくマズい。口にしたくもなかった」

「そ、そんなに不味かったのか……?」

「うん。アヤメの料理のこさを、5ばいくらいしたものかな?」

「いやそれもう食べ物じゃないから! 劇物とかそういう類のものだから‼」

 そんなものがこの世に存在するというのか……いや、本来なら存在したらいけない類なものだよな、それ。絶対栄養食としては機能していないと思うけど。ただエトがここまで言うというのなら、本当に実在するのだろう。出来れば実在してほしくないが。

 しかしそういう事情があるというのなら、昨日の拒絶も納得がいく。いくら地球の栄養食がエトの星のものと違うとはいえ、エトは脊髄反射的に嫌っているからな。致し方ないと言えよう。

「そんなもん食ってきたとか……エトもいろいろ大変だったんだな」

「できればエトも、にどとたべたくない」

「だよな」

 俺だって彩芽の料理は、できれば二度と食べたくはない。まあ今この場では言えないけど。

「だからエトちゃんって、輝の美味しい料理をいっぱい食べるんだね? 何だろう、こう……反動、的な?」

「うん、テルのごはんは美味しい。おなかいっぱいにするなら、テルのごはんだけで、じゅうぶん」

 彩芽とエトが、何気ない会話を繰り広げるが、ここで一つ疑問が浮上する。そんな大したことではないけどな。

「昔はエト、何でお腹を満たしていたんだ? 彩芽の言葉を真似るようだけど、美味しいものに執着している、ように見えたからさ」

 本当に些細な質問に対し、エトはややテンションを落としながら答えを口にする。

「……それこそむかしは、えいようしょく、ばかりだった」

「あぁ……うん、そうか」

 なんとなくそんな気がしただけに、俺の反応も寂しいものになった。そうでなかったら、美味しいものをいっぱい食べることにそこまで執着しないだろうし。それ以前にエトが元いた星を飛び出して、こんな辺境の星までやってこないだろう。

「じゃあなんでエトちゃんは、嫌いな栄養食ばかり食べてたの? 身体でも悪いの?」

 そして彩芽の方からも、そんな疑問が口にされる。まあ嫌いでも食べてきたということは、それ相応の事情があるのは当然のことだ。栄養食ということだから、エトの星基準では身体が弱かったのかもしれない。まあエトが口にすること以外、憶測の域から脱しないけど。

 するとエトはその質問を受け、やや難しそうな顔を浮かべる。単純に答えが出てこない、とも受け取れる態度だった。難しい質問、というよりも、答えてもいい質問なのか悩んでいるかもしれないけどな。一応エトがしゃべること全てが、エトの星の機密情報かもしれないし。

そのまま天を仰ぎ答えを模索するエト。しかし答えを見つけたのか、ゆっくりと視線を戻し、相も変らぬ無表情でこう答えた。

「……ここを、おおきくするため?」

そんな珍妙な言葉を口にしながら、エトは自分の身体の一部に手を当てる。そこは首元よりもやや下にある、人間でいうところの胸部に該当する場所だ。そして女性ならそこに柔らかな二人の山がある場所でもあった。エトの胸にも、何故か昨日よりも少しだけ大きくなっている山があるのだ。

ヤバい、直感でそう察した俺は、すぐに彩芽の方を向いた。

「あや……め」

 彼女を呼ぶ声がそこで止まる。話しかけたら巻き添えを食らう、彼女を見た瞬間にそう悟ってしまった。

 そして俺が心配する彼女……彩芽はというと、わけがわからないかのような視線をエトに向ける。だがその目は一切瞬きすることなく、ただ真っすぐとエトを捉えている。それに恐怖を感じるのは当然のことだ。

「あ、あはは……エトちゃん? お胸ってね、そんなに簡単に大きくならないんだよ? いっぱい食べて大きくなるんだったら、この世の女性みんなきょ、巨乳になってるんだしさ……」

「……ちょっとなにいっているかわからない。たべたらふつう、ふくらむよ……なんでアヤメは、そんんなにまったいらなの?」

 ブチっ、と何かが切れる音がした。もちろん彩芽の堪忍袋の緒が切れる音です。この音を俺は何回も聞いたことあるから知っていた。そしてこの後繰り広げられる惨状も、ありありと脳内に思い浮かぶ。

 するとガガガと鈍い音を立てながら、彩芽が俺の方を向く。首だけを動かしているその様は、ホラー以外の何物でもなかった。

「……ねぇ、輝?」

「な、なんだよ……」

「この家にさ……肉切り包丁とかあったりしない?」

「待て彩芽! お前はそれで何をする気だ⁉」

 もう嫌な予感しかない。俺は彩芽の肩をガっと掴んで大げさに揺らし、理性を取り戻そうとする。だが踏み越えてはいけない一線を越えてしまった彼女は、そう簡単には止まらない。

「輝、何言ってるの? アタシはね、平等にしようとしているだけだよ?」

「……は? あ、彩芽? お前こそ、何言って……」

「だって平等って素晴らしいじゃん、争いも生まれることなんてないから……だからエトちゃんの胸をもいだって問題ないよねっ‼」

「大ありだよっ⁉」

 ヤバい、彩芽の壊れ具合が俺の予想を遥かに上回っていた。「食べれば胸が成長する」。そんな夢のようで、彩芽にとっては悪魔のような言葉は、彼女の逆鱗に触れるのには十分すぎた。

「……よくわかんないけど、アヤメも食べたらおおきくなるよ……きっと」

「エト⁉ それ以上怒らせないでくれるかな⁉」

 エトはエトで、超天然発言を容赦なく彩芽にぶつける。そんな火に油を注ぐような真似はマジでやめてくれ。本当に止められなくなるぞ。そんでもってエトが興奮してそこら一帯が大爆発……って冷静に分析してる場合じゃねぇ! 彩芽がガチで台所に向かい始めやがった。

「彩芽! 一旦落ち着け彩芽ぇぇぇ‼」

 必死に彼女の身体を揺らし、正気を戻すことに務める俺。ちょっとでも気を緩めたら、マジで今の彩芽ならやりかねない。だから一瞬たりとも気なんて抜けなかった……なんかこんな場面、少し前にもあったような、なかったような……

 そんな最中、エトはエトでのんきに俺たちの喧騒を眺めるだけであった。あ、思い出した……昨日の朝の光景だわ。昨日もこんなような争いして、のんきに見つめるエトが羨ましいって思ったんだっけ。本当に、マジで、爪の垢を煎じて飲みたいくらいに、羨ましい限りであった。

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