第2話

 彩芽が自宅に帰ってから二時間ほど経過した。洗い物やら洗濯などの家事も終え、自由な時間がやってきた。とはいえ学校の課題などを片付けたり、最低限の復習なんかをしていたら時間などすぐに無くなる。趣味に時間を充てられればいいのだが、残念ながら人に自慢できるような趣味を持っていない。正直家事が趣味と言っていいくらいだ。

 しかしあくまでも、自慢できるような趣味を持っていないだけだ。一応、習慣に近いような趣味は持っている。おいそれと人に言えるほど大したものではないけど。

 今もその趣味を楽しむために、俺は夜遅いのにも関わらずせっせと自転車を漕いでいた。人によっては寝静まっているような時間なだけに、外は驚くくらいに静かであった。道行く人も、大抵は仕事帰りのサラリーマンくらいだった。

 そんな俺が向かった先は、近所にある小高い丘のようなところであった。今住んでいるマンションから比較的近場にあり、山とは呼べないくらいに標高が低いから軽く向かう分にはちょうど良さそうな場所なのだ。別にド田舎というわけでもなく、野生動物とかも出ないのが高ポイントだ。

 そのまま丘の中を、俺は自転車で駆けていく。木々に囲まれた丘の中に入ったことで、より静寂さを生で感じることになる。そんな時間が実は好きだったりする。別に今の生活に不満を抱いているわけではないが、たまにはこういった場所で一人過ごすのも乙なものだ。

 そして俺が漕ぐ自転車は、いつもの場所に着いたところで止まった。そこは木々に囲まれた場所からは抜け出し、やや開けている場所でもある。そのような場所で上を見上げれば当然、それがある。

「……今日もいい空だ」

 らしくないセリフを吐きながら、俺は雲一つない夜空をただただ眺めた。そこには俺が表現するのがおこがましいくらいの、満天の星空が広がっていた。

 俺の数少ない、ほぼ唯一といってもいい趣味……それが天体観測だ。とはいっても俺自身、星にそこまで詳しいわけではない。知っていてもせいぜい学校で習うような部分だけだ。

 この趣味は学校でも仲のいい数少ない友人から勧められたものだ。いろいろな雑念を忘れられて、神秘的な気分になれるいい趣味だと胸を張って言われた。まあその友人は結構天体系の知識が豊富だから言えることなのかもしれないけど。

 しかし雑念が忘れられる、という点では非常に共感出来た。この満天の星空の壮大さに比べたら、俺が普段悩むような問題などちっぽけにしか思えない。そういった点ではこの趣味も結構役に立っている……まあ、頭を抱えるような悩みもそう持ち合わせていないけど。

 とはいえ全くないわけではない。悩み、というほどではないが、俺の中にも一つだけ向き合わなければならない問題がある。

「やりたいこと、ねぇ……」

 思い出すのは数時間前の彩芽との会話。今日は何故か、その言葉が簡単に離れなかった。

 確かに彩芽の指摘通り、俺には取り入ってやりたいことが何もない。言い換えるならば、欲がないと言うべきだろうか。俺には中高生が確実に持ち合わせていそうな、忠実な欲望というものが平均よりも欠如しているのだ。

 基本的には成り行きのままに時間が流れ、その結果が現在に反映されているといった人生を送ってきた。今まで自分の口から「やりたい」と希望を提示したことなど両手で数えきれるくらいだ。ここ最近の例だと地元から離れた流星への進学だが、これも彩芽が関わってなければ考えもしなかったことだろう。

 ただ勘違いしてほしくないのは、俺は別に今の生活に不満を抱いているわけではない。親元から離れ一人暮らしを始めたことで、生きることも大変さや両親の支えのありがたさを十二分に理解出来た。そしてその立場を持って今、彩芽を支えている現状に満足している。

 でも彩芽も、このままずっと俺のサポートを受け続けるとも限らない。いつになるかは不明だが、俺から離れる日が来るかもしれない。そうなった時にやりたいこと……もっと言えば生きる理由を模索しなければ、心が病むこと間違いなしだ。さすがに俺もそんな人間にはなりたくはない。

「……ま、ゆっくり探していけばいいか」

 とはいえ今すぐ答えを決めることではない。彩芽だって最低でも高校を出るまでは俺の助けが必要になるはずだ。その間にゆっくりと、自分の今後を決めればいい。もう高二の夏場に差し掛かっているから、大学とかも考えないといけないわけだし、自ずと決まってくるだろう。

「せっかくここに来てるのに、気難しいなんて考えない方がいいか」

 独り言を呟きながら、俺は丘に寝転がり星空を眺める。今俺に必要なのは、心のリフレッシュだ。休む時はしっかり休まなければ身体は持たない。彩芽のためにも心身ともに健康でいたいのだ。

 とこの辺りで難しい思考を捨て去り、ぼーっと夜空を眺める。夜独特の涼しさと静けさが、俺の身体を心地よく冷やしていく。とはいえ夏もそろそろ本番に差し掛かってくる、エアコンの導入も検討しないとな。

 そんなのんきなことを考えていると、綺麗な夜空に一つの光の筋が通りかかった。

「流れ星か……」

 夜空で起こるその光景を、俺はただ淡々と見るだけだった。もう流れ星を見てはしゃぐ歳でもない。まだ十代だけど、歳をとるって悲しいことなんだな。

 しかし流れ星が出てから数秒経った後、俺は違和感を覚えた。

「……なんか長いな」

 簡単にいえば、さっきの流れ星が未だ消えず夜空に残っているのだ。「流れ星が出ている時に願い事を三回口にすると願いが叶う」、なんて迷信、というか無理難題が一般に広まっているくらい、流れ星は瞬く間に消えていく存在だ。今までの天体観測の経験からも、流れ星がそう長く残っていることはなかった。そのくらいの常識は、俺も知っている。

 だからこその違和感だ。そしてそれを違和感として捉えられたのは、そこまでだった。

「……なんか流れ星、デカくね?」

 時間が経つにつれて、俺の視界にある流れ星が大きくなっている気がする。そしてそう思えたのもそこまでの話……流れ星が、俺の方に向かって近づいて見えるのに気づくのは、違和感を覚えてから数秒も経たないくらいの出来事だ。

「おいおいおいおいおい!」

 さすがの俺も悠長に事を構えている場合ではなかった。いくら高校生とは思えない性格をしてようが、空から謎の物体が降ってきたら驚くのは当然だ。そして程なくして、俺の脳内に『死』の文字が過った。

「ヤバいヤバいヤバいヤバい⁉」

 ほとんど本能的な行動だった。近くに停めていた自転車に飛び乗るように跨いだ俺は、全身の力を足に集約させてペダルを漕いだ。必死に漕いだ、もはやそれ以外何も考えられないくらいに全力でだ。

 しかし恐怖というものは、時間をかけて襲い掛かってくるものだった。流れ星もとい謎の物体は、不幸なことに俺に向かって落ちているようだ。物体など見ている余裕はないが、後方から伝わる威圧がそう囁いていた。

 やがて緊張が身体をガチガチに固くして、思い通りに動かせなくなる。そのままペダルを漕ぐ足ももつれ、自転車から捨てられるように俺の身体が吹き飛ばされる。勢いよく漕いでいただけに全身に激痛が走るのだが、もはやそれを実感する余裕すらなくなっていた。

(終わった)

何一つ成しえることも出来なかった、つまらなく短い人生だった……走馬灯のように頭に諦めの単語が浮かび上がり、身体も諦めようと力が抜けていく。出来ればあまり痛みを感じずに生を終えたい……そう願っていたのだが、現実はその通りにはならなかった。悪い意味ではなく、いい意味でだ。

 謎の物体が迫っているであろう後方から、不思議な光が差し込んできたのだ。本来なら影が出来ていないとおかしいはずなのに、今後ろでは摩訶不思議な状況が生まれているようだ。

 それにいくら待っても、やってくるであろう衝撃が襲ってこないのだ。こけたとはいえ、もう物体が墜落してもおかしくない時間が経っている。おかしい……確実に何かが起きている。

 どちらにしろ、このまま何事もなかったかのように帰宅するという選択肢はない。今俺の背後で何が起こったのか、気にならないわけがない。悲しいことに人間とはそういう生き物だ。

 覚悟を決め、俺はゆっくりと背後を振り向いた。意外と移動していたのか、さっきまでいた丘からはかなり距離はあった。そして丘との間の道には、特にこれと言って変化はない。いつも通りの見慣れた光景が広がっていた。

 となれば何かあったとすれば、間違いなくさっきまでいた丘だ。事故現場に戻るというのは非常に勇気のいることではあるが、逃げるわけにもいかない。

「……変なものなんて、ありませんように」

 そんな淡い期待を抱きつつ、俺は丘の方に戻るため歩みを進めた。一歩一歩の足取りが、死ぬほど重い。それほど俺の中に、名状しがたい恐怖心が根付いている証拠だった。さっきから心臓の音もうるさく、平常心を保てない。ここまで緊迫した場面に遭遇するのなんて、いつぶりだろうか。

 しかし丘に着いた俺の視界に広がったのは、およそ予測不可能な光景だった。

 まず肝心の丘はというと、ありえないくらいに無事だった。最初から何事もなかったかのように、草すら傷ついていなかった。物理法則的に考えて、空から隕石らしきものが降ってきたら損害が出ないなどあり得ない。少なくとも巨大なクレーターは出来て当然だ。

 だがそんなことは些細な問題だ。今注目すべきなのは、謎の物体の正体だった。

「……人?」

 俺は目を疑った。何度も何度も目をこすり、自身の視界で再確認を図る。しかしどれだけ目をこすっても、目の前にいる摩訶不思議な存在……俺と同類の四足歩行の生物を無視することは出来なかった。

 その者を一言で表すなら、超がつくほどの美少女であった。日本ではあまり見られない美しい銀髪は、ただ存在するだけでも星のような煌めきを放っている。その髪に包まれた顔立ちは、お人形のように可愛らしいものだった。少なくとも俺はその者以上に愛らしい存在を、この17年間で見たことはなかった。

 更にお人形らしさを加速させるが如く、体型はかなり幼かった。おそらく小学校高学年の女子と同じくらいだ。だがその体型の幼さを武器にするかのように、全身に無駄な肉はどこにもなくほっそりとしていた。それでいて胸はほんの少しだけ、彩芽よりも大きい気がした……ドンマイ、彩芽。

 総合的に見たら文句なしの美少女、彩芽クラスと言っても差し支えないだろう……なぜか生まれたままの姿なのかは謎ではあるが。女性として大事なところは彼女の長い髪で隠れているとはいえ、目のやり場に困る。ただ彼女に関しては邪な気持ちを抱くことはない、むしろ少しでも抱こうとした自分を酷く恥じるくらい神秘的な存在ともいえる。とても不思議な感覚だ。

だが少女の容姿など、この際どうでもよかった。問題なのはどうしてさっきまで誰もいなかったはずの丘に、彼女がいるのかということだ。ただこの状況での推理など無意味に等しい。

「この子が、降ってきたのか……?」

 疑う余地などどこにもなかった。まさか俺も生きている間に、「親方! 空から女の子がっ!」を体験するとは思わなかった。まあ状況はそこまでロマンティックではないけど。死を覚悟したくらいだし。

 だが考えなくてもわかることだ。そもそも人間が、空から落ちてきて無傷で済むはずがない。人間は脆弱な生き物なのだ、落下の勢いで全身粉砕骨折は確実、ほぼほぼの確率で即死だ。だからまず彼女が、俺たちと同じ人間である可能性は限りなくゼロに近い。

 だとするとその人物の正体は、自ずと一つに絞られる。それは……

「……ん」

「っ⁉」

 しかしそこで俺の思考が停止し、少女を注視する。愛らしい声が漏れた少女の口が、もごもこと動いたのだ。どんな小さな動きも見逃すことなく、常に警戒心を張り続けないといけない。それが彼女という……宇宙人の存在なのだ。

 そのまま少女は寝ぼけたかのような声を漏らしつつ、瞼をゆっくりと開ける。世界で最も輝いた宝石を入れたかのような少女の蒼い瞳は、いつまでも見ていられるほどの魔力を持っていた。それこそそのまま、彼女の瞳の中に吸い込まれそうになるくらいだ。

 そして少女はゆっくりと身体を起き上がらせ、キョロキョロと周りを見渡す。地球という未知の惑星をくまなく観察しているのか、そもそもその行動に対した意味など持ち合わせていないのか、俺には理解できなかった。俺は地球の人間だから、宇宙人の思考などわかるわけがない。

 しかし彼女の顔が真っすぐと俺を捉えた時、俺も他事を考える余裕がなくなった。向こうから見つめられた瞳を視界に入れた瞬間、ぞわっと俺の身体に恐怖が走る。本能的に逃げたいという欲求と恐怖の感情が入り乱れ、俺の身体の機能が麻痺してしまう。我を忘れて無様な醜態を晒さなかっただけ十分だろう。

 そして少女は、不思議な魔力を帯びた瞳を俺に向けたまま、ボソッと呟く。その言葉は、ありとあらゆる最悪の状況を予想していた俺の頭には、全くないものであった。

「……おなか、すいた」

「……は?」

 さすがの俺もこの言葉には、気の抜けた声を口からこぼすことしかできなかった。まさか俺も、彼女の口から日本語が聞こえるとは思いもしなかったからな。

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