半径30キロメートルのこの世界
やすなり
鳥籠の中の約束
私の靴がキレイに舗装されたアスファルトの上を蹴る。その音は段々と力強さと速さを伴いながらこの世界に広がる。
呼吸は一定のリズムを持って行われ今は苦しさはない。
肺に取り込む空気の冷たさのせいで体の表面の熱さとは違い体内は常に冷たいように感じられる。
肌がピリつくような空は深い黒に染められ、その上から沢山の星々を散りばめている。
最近星がよく見えるようになり冬になったのだなと、時の流れの速さに少し悲しくなる。
まぁ、そんな遠くに見える明るさよりも定期的に現れる身近な街灯の方が圧倒的に明るいのだけれど。
私は今走っている––––いや、逃げている。
『何から?』と、今一度自分に問う。
両親、血縁、他人、世間、、、、私に関わりのある「ヒト」という存在全てから逃げている。
「私に関わってこないで」
この言葉を残して家を出た。
その白く四角い箱の中に住んでいる2匹のヒトは、そんな私を1分ほど追いかけてきたが、体力の限界なのか私が元陸上部ということがあってなのかは分からないけれど、すぐに撒くことができた。
私は今まで大切に育てられてきたと思う。
欲しくも無いオモチャも、食べ物も、洋服も、なんだって勝手に買ってくれた。
でもその反面私に期待した。
『こんなに大切に育ててきたんだからそれ相応の成果を見せなさい』
頼んでもいないモノを与えて勝手に期待する。少しでも口答えすれば私を怒鳴る。成果を出さなければ私を殴る。
私は育成ゲームのオモチャじゃない。
あんたたちの傀儡じゃない。
たとえ両親が快楽のために交尾して私を生んだとしても、エゴで私を育ててきたとしても、私は1人の人間なのだ。
あそこにいたらダメになる。
そう思い、家から飛び出したのだ。
「クッソ……!」
闇雲に走り続けて1時間辺りで止まってしまう。
私の足と体力の限界だ。
ふくらはぎと骨の間の筋肉に針を刺されたような痛み。
呼吸する度に血の味がし、喉に何か引っかかっているかのような気持ちの悪い感じがする。
だがこの痛みも苦しみすらも懐かしい感覚だった。
痛みから逃げるように、ここはどこだろう、って周りを見渡してみる。
どうやら家の近くの大通りを南の方へ道なりに走っていたのだろう、昔両親に連れられてきた店がチラホラ見える。
「歩こう」
そんな仮説というより考察を立てながら歩き始める。
ズキズキと歩く度に足が痛む。
昔はこの痛みを快楽に変えて走っていたこともあったなと5年前––––中学1年生––––のことを思いだす。
私は中学1年生の時に陸上部に入部した。
『なんで陸上部に入ったの?』って中学の頃の親しい友人に聞かれたことがある。
私の通っていた中学が強制的に部活をやらせていたから、集団ではなく個人で戦える競技であったから、なんとなく、、、そんな答えのような形を作っては壊していく。
『陸上部なんていいんじゃない?私たち応援するわ』
ああ、そうだった。
両親が私に勧めてきたのだった。
その時の私は両親からの期待に応えることが全てだと思っていた。
そうすることで私は褒められるし、もちろん怒鳴られたり殴られたりしなかった。
そんな気色の悪い経緯で入部したのだが、案外私には才能があったのだ。
足が速いだとか、体力があるだとか、そういう体の面での才能は何ひとつなかったけれど、私は走るのが好きだった。
走ることで私はこの世界でただ1人の存在になれて呼吸音と足音だけの世界が私を包んでくれた。
私がいつまでも走るのだから、友人は『走ってて苦しくないの?』『足痛くならない?』こんな質問を投げかけてきた。
そんな質問に対して私はいつも決まって『全然。走るのが好きだから』と、意味のわからない返し方をする。
すると友人たちはなぜか納得したような表情をし、去って行く。
実際走れば足は痛いし、呼吸も苦しくなる。
だが私はそれに耐えることができた。
それどころか私はそれが心地よかった。
誰かに付けられた痛みじゃなくて、私の行動によって伴う痛みや苦しみは自分が自分であると再確認できる。
私は生きていると実感できる。
だから私は走り続けた。
するとどうだろう。ただ走っていただけなのに結果という無意味なものが私の足を掴んでくるようになった。
『〜大会優勝』この文字を何回見たかとか。『おめでとう』と何回言われたことか。
『私たちの自慢の子よ』と何回頭を撫でられたことか。
ああ、満たされる。
自分のためにやっているのにその功績を他人から認められる。
何より私は他人より優れている、その感情が肥大化して私を満たす。
だがまぁ、その快進撃もすぐに途切れてしまうのだけれど。
私は高校も陸上部に入った。
と言うのも、私はスポーツ推薦という形で高校に入学したのでそれ以外の選択肢は無かったのだ。
その中でもやはり私は優れていたらしい。
私の前を走る人間はおらず、ここでも私1人の世界を確立することができた。
だがそんな気持ちのいい時間も終わりが訪れる。
入学して最初の大会の一週間前のことだった。
私はいつも通り走り出し、誰よりも速く駆けていた。
走り始めて30分経った辺りだったか、右足の脛の辺りから「ペキリ」と、私の2音の世界に気味の悪い音が入り込んでくる。
そんな音など無視して走り出そうと右足を出した。
するとぐにゃりと私の右足は力を無くしたのか、真っ直ぐ地面を捉えることなく横に倒れたのだ。
「疲労骨折なんですが……難治性の疲労骨折ですね」
そう医者に伝えられた後何を言っていたかなんて聞けなかった。
骨折という言葉が私の頭の中を真っ白にしてしまったのだ。
後から母に聞いた話によると、どうやら時間は掛かるが走れるようにはなるらしい。
しかし私の世界に入り込んできたあの音が私の脳裏にこびりついて剥がれない。
次もまたあの音が聞こえてしまうのではないか、次聞こえた時には走れなくなってしまうのでないか、、、。
それ以来、多くの負の疑問が私の頭の中に留まらず、血と酸素のように身体の中を駆け巡るようになった。
結局私は陸上部を辞めた。
それどころかあの音が聞こえて以来一度も走ることができなくなっていた。
私の唯一の生きる世界にはもう二度と行けそうにはなかった。
『陸上がダメなら勉強を頑張りなさい』
これが私が陸上部を辞めるのに両親から出された条件だった。
ここから私の苦悩苦痛の始まりだった。
定期テストで高得点を取らなければ『教育』という名の暴力が私を襲う。
『この参考書の評価が凄い高いらしいの』
そう言われて買い与えられた参考書の数に比例して両親は私への期待を大きくした。
期待が大きくなればその分失敗した時の『教育』の酷さが増した。
『なんでできないの!』『ちゃんと勉強してんのか?』『あんたなんか産むんじゃなかった』『次できなかったら分かってるよな?』『このバカ娘が!』
陸上をやっていた時に褒められた数の数十倍私を罵った。
そして陸上によって育てられた自尊心という名の私の虎は、皮膚ズタボロに切り裂かれ、赤々しい肉が見え、血と一緒に内臓がそこらに飛び散っていた。
「ペキリ」
そんな生活を続けていたら、走りなどせずともあの音が聞こえた気がした。
私が歩いている横をものすごい速度で車が通り過ぎてゆく。
車のライトは私を照らす。それは私の黒く濁った影を一瞬大きくし、すぐに縮ませる。
それが何回も続くのだから、私の影で遊ばれてるような気がし、なんとも私を苛立たせる。
「へーいそこの彼女。私とお茶しない?」
自動車が通り過ぎる音がぴたりと止み、それを待っていたかのようなタイミングで背中の方から声が聞こえてきた。
「それ、私に言ってます?」
最初は無視しようかと思ったのだが、聞こえてきた声音に妙な魅力を感じて答えてしまった。
それでも、私の声はかなり怒気が篭っていたと思う。
親、いやヒトと関わりたくないという思いで家を飛び出したのに、その家の外にさへもヒトとの関わりが潜んでいたのだから。
「ありゃ?怖いねぇ。こんなに美人のおねーさんに声かけられてるんだからさぁ。もっと…なんかこう…あるじゃんさぁ」
「私にそんな趣味はありませんので」
自分を美人と自称する女をよく見てみると、なるほど。確かに自分に自信を誇れる程の容姿––––髪は長く真紅に染めら、漫画から引っ張り出したかのような目鼻立ち––––であった。服は、真っ赤なシャツに革ジャンを羽織り、黒いジーパンを履いていた。
「あんりゃー残念。私のタイプだったんだけどなぁ〜」
「では、失礼します」
そう言って、軽く準備運動をし、走る体制に入った。
すると、
「………走れんの?」
「…は?」
何を言ってるのだこの女は。
走れるに決まって……あれ?
確かにさっきまでは走れていた。うん。確かに走っていた。
だが、家を飛び出した瞬間は何も考えずにただ走り出していたので気づかなかったが、今は思い出してしまっていた。
あの音が私に追いついてきてしまった。
そう思うだけで、あの時の記憶が私の体を駆け巡り、聞こえないはずのあの音だかが私の鼓膜の辺りで飛び回っている。
「もっかい言うね」
女は手を差し出すようにこう言った。
「へい彼女。私とお茶しない?」
結局私は自称美人の女に連れられ、近くのファストフード店にいた。
お茶じゃねーのか。別にいいけれど。
この店は昔両親に連れられてきたことがあったななんて、今や気持ちの悪い思い出がよみがえる。
「なーんでも頼んでいいからねぇ」
女は上機嫌なのか、机の下で足を子供みたいにパタパタと動かしている。
私は「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べ、メニュー表を手に取る。
私は少食なのだが、今は久しぶりに走れたので多少お腹が空いていた。
メニューの見出しに書いてあった『ハンバーグ』が目につく。
「では、この…」
「ハンバーグね。おっけー」
「……はい」
まだなんも言ってないけど…まぁいいか。
「すんませーん」
そして女は私のハンバーグと自分用のお酒を大量に注文していた。
注文が終わると「ふぃー」と言って、靴を脱ぎ、椅子の上に胡座をかき始めた。
「んで、名前…私から言った方がいいか。私はねぇ、
「私は
「いい名前だねぇ〜」
そんな軽い調子で褒められて、少しムッとする。
「……嫌ですよこんな名前」
「ほぉ、その心は?」
「この名前、両親から一文字づつとった名前なんですよ。嫌じゃないですか。苗字だけでなく、下の名前すら両親に縛られてる気がして」
私は自分の名前を好きだと思った瞬間は一度だってない。
だってこの名前は私は私ではなく、両親の分身のような気がしてならないからだ。
血縁という呪縛からは一生逃れられない気がしたからだ。
「ふーん」
女はさして気にしてない様子で相槌を打つ。
「……あしこちゃんはさぁ。もしかして今家出中なの?」
「あしこちゃん?」
「あぁ。相原の『あ』。翔子の『し』と『こ』。合体して『あしこ』ちゃん。名前嫌いなんでしょ?あだ名だよ。あだ名」
「はぁ」
ダサいなぁ。と同時に、それもまた自分の名前から文字を取られてることに気づいた。
これが皮肉なのか、天然なのか………。
「で、家出中?」
気分を少し害して下を向いていると、女、柊夜が話しかけてくる。
「……まぁ、そんなところです」
私はまだ何も話していないのにこの女はなぜ分かったのだろうか。
そんな疑問を考える時間も与えないかのように、続け様に質問してくる。
「なんでさ?なんで家出したの?」
「なんでって………」
会ってすぐの女性には言いづらくって、少し吃る。
「言ってみ」
そんな私を見かねてか、真面目そうな表情で優しく私に言った。
私はそれに心を許したわけではないけれど、まぁ話してみてもいいかなと思い、恐る恐る口を開く。
「少し、長くなりますよ」
私がなぜ家出したのか、その訳を少し長くなったが話した。その途中に私の料理と、柊さんのお酒が届いた。
柊さんは私の話を聞く半分、お酒をぐびぐび飲むのだから「もう話すのやめようかな」と何回か思ったが、なんとか最後まで話きった。
「ふーん。なるほどねー」
「私はもう嫌なんです」
「嫌な人生だったねぇ」
「でもどうすんの?逃げてきたって、すぐにけーさつちゃん呼ばれて引き戻されるだけじゃない?」
「てか、けーさつに言っちゃえよ。『私は家庭内暴力を受けてます』って」
「…まぁ確かにそうなんですが」
確かにその通りだ。警察だの児童相談所だのに連絡してしまえばいいのだが、私は両親に対して恩義を感じてない訳ではないのだ。
これまで私を育ててきてくれた。それが例え両親のエゴだったとしても、それは紛れもない事実だった。
それに、もし両親のことを警察だのに突き出した後私はどうなる。
私はまだ社会人––––経済人––––にもなれていない。
こういうことを考えると、結局私は両親の助けなしには生きることのできない人間であることを嫌でも分からせられる。
「……うーん。ここで私があしこちゃん連れ去ってもいいんだけどさぁ、それは多分すぐに見つかっちゃうからなぁ」
「やっぱ漫画とかドラマみたいにうまくいかないよねぇ……てかさぁ、私『漫画やアニメじゃあるまいし』みたいなセリフをさぁ漫画とかアニメとかドラマとかフィクションの世界で言ってんの嫌いなんだよね」
続けて女は言った。
「いや!お前らアニメとか漫画の世界の人間だから!自分達があたかも現実世界の存在みたいに言うんじゃねぇよ!ってね」
「……そうですね」
急に熱弁し始めるこの女、異常なのかもしれない。
そもそも私がタイプって言ってたしな。
女なのに女が好きなのか。
やはり異常か。
「あしこちゃん。いや、翔子ちゃん。いいこと教えてあげるよ」
あだ名ではなく、名前で私を呼ぶ。
その様子に真面目な話かなと、思ったけれど「……なんです?」と、私は期待などせずにそっけない返しをする。こんな異常人に期待などできる訳ない。
「君は多分一生両親から離れることもできないし、両親のせいで嫌になったヒトとの関わりも断つことはできない。それは翔子ちゃんも薄々というか、わかってると思うんだ」
「……はい」
「でもね、ひとつだけ方法があるよ」
先程の調子と打って変わって、真っ直ぐな相貌を私に向ける。
その相貌はまるで先ほど見た夜の空のように見れば見るほど黒く、そして深い。
そんなものを向けられ、私は無意識的に背筋を立てた。
「それはね、新世界の神になるんだよ」
「…………は?」
素っ頓狂な私の声だけが店内に響いた。
その後の数秒間の沈黙を破ったのは、店員の「いらっしゃいませ」という声だった。
「は?いやいや、何言ってんですか」
「私は本気で言ったよ」
「両親が嫌いなら殺せばいい。ヒトとの関わりが嫌なら全員殺せばいい。全人類72億人漏れなく全員ね。そして君だけの新しい世界をツクル。新世界の神になる」
「いや、はぁ?そんなことできる訳ないじゃないですか」
意味がわからないと言った調子で、柊夜の話を否定する。
だが
「できるよ」
そう言って、手元にあった酒を全て飲み干す。すると酒で体が熱くなったのか、革ジャンを脱ぎ、血のように真っ赤なシャツ1枚になった。
「できないってんなら、それは力がないからだよ。力ってのは全てに変換できる。暴力であったり戦力であったり財力であったりね。力は全てを解決してくれる」
「その力が君にはなかった。君は72億人全員殺す力は無くても、両親を殺すくらいの力くらいはあったと思う。でもその後自分1人で生きていく財力が無かった」
「まぁーそれ以前に警察に捕まらないようにする逃走力もないか」
柊夜は軽い調子で淡々と告げる。
私はその様子にある種の不気味さを感じた。
「……何が言いたいんですか?」
「力のないガキは一生何かに縛られて生きていくってこと」
なんでそんなこと言うんですか?
そう言おうと思ったけれど、言葉は出なかった。
知っていた。
私に力がないこと、家出まがいのことをしたって意味のないことを。
私は無力だ。
「翔子ちゃん。翔子ちゃんがただ反抗期拗らせて家出まがいのことをした訳じゃないってのは分かるよ。でもこんなことしたって翔子ちゃんはどこにも逃げられないよ。家を抜けたとしても次は町、区、市、県、国、世界、地球、、、、全ては鳥籠の中。本当の自由なんてどこにもない。ましてや、翔子ちゃんは家の中でも自由を獲得してないのだから尚更ね」
「わかってるんだよそんなこと!」
「……あ。………すみません」
無意識に出た暴言が自分のものだと知り、顔から血が引いていくのが分かる。
自分が暴言を吐くと、私は両親の血を引いてしまっているんだと自覚してしまう。
自分が嫌いな存在に似てしまったことへの嫌悪感は計り知れない。
「ん。怒った顔もかわいいからいいよ」
「………」
「それより翔子ちゃん。翔子ちゃんの問題は実は結構単純なんだよ?」
「と、言いますと?」
「翔子ちゃんは今、力が発揮できない方へ追いやられてるからこうなったんだよ。つまりね、もっかい陸上やればいいんだよ」
まぁ確かにそうだ。
私は勉強という私の力が発揮できない土俵で勝負させられていた。けれども、私がもう一度陸上で勝負できればどうだろう?私が唯一輝いていた場所へもう一度行ければどうだろう?
でも
「無理ですよ」
「まだ怖い?走るの」
「そりゃそうですよ」
すると柊夜は「うーん」って、指を顎に当てて一瞬考え込み、
「よし!じゃ、魔法かけたげる」
「魔法?」
「足出して」
「……はぁ」
言われるがままに足を出してみる。
魔法だなんて信じてはいないけれど、もしこれで少しでも良くなるならいいな、そんな思いで柊夜に託してみる。
「うーん。綺麗だね、あし」
柊夜は数秒私の足を見つめた後、私の足に顔を近づける。
「!!!何してんですか!!!」
足に血の通った生温い感触を感じる。
その感触を私の足は敏感に感じとり、全身に伝わらせる。
この女、私の足にキスしたのだ。
「んーぷはぁ。これで走れるよん」
「は?え?はぁ?な、な、なに?え?」
顔に血が集まっていくのが分かり、それに動揺したのか、目がキョロキョロする。
「うわー!顔赤!かわいい!」
「うるさい!変態!ばか!あほ!」
その後、定員さんにうるさいと店を追い出されてしまった。
柊さんは今店の前で自前のタバコを吸っている。
その姿を見て。いや、唇を見てるなこれ。
あの唇が私の足に、、、いやいや。
私はそういう趣味はない。
「ごめんねー。あしこちゃん」
「なにがです?」
「陸上応援してんのにこれ吸ってること」
これって言って、タバコを咥えた唇を突き出す。
その突き出した唇が先程の光景を思い出させる。
「いえ。大丈夫ですよ」
その様子を見てるとまた熱くなってしまうので、適当に返事をして視線を下に向ける。
ここのアスファルトはデコボコしていてそこらに雑草が生えている。決して綺麗だとは言えないけれど、なぜか安心できる。
「そろそろ行きな。魔法が解けちまう」
そう言ってスマホを見せてくる。
『23時53分』
先程の魔法とシンデレラの魔法をかけて言ったのか、得意げな表情でこっちを見てる。
「今日はありがとうございました。家に帰って両親と色々話してみます」
「んー。お礼はあしこちゃんの連絡先でいいぜ」
そんなキザっぽいことを言うので、鼻で笑ってしまう。
「ナンパ慣れしてますね」
「んーにゃー。私はナンパ初めてだよ」
「そうですか」
思わず頬の筋肉が緩む。
なんでだろう、なんてことは考えないようにしておこう。
連絡先を柊さんに伝え、私は走り出す準備をする。
走る。私はこれから走るのだ。
そのことに不安はあるが、今はどうでもいい。
あの音は私の中から消えること一生はないだろう。
けれど、いつまでもそんなものに支配されてちゃつまんない。
アスファルトをピョンピョン跳ねる。
「よし」
「あー。ちょっといい?」
「はい?」
走る準備ができた時、柊さんが急に声をかけてくる。
「私ね。さっき『本当の自由なんてどこにもない』って言ったの覚えてる?」
「はい。鳥籠があれやこれやって話ですよね?」
「うん。私はいつか手に入れたいと思ってるよ」
「何をです?」
「全ての鳥籠を取っ払って、本当の自由を手に入れる。つまり新世界の神になる」
「本気で言ってます?」
「本気の本気さ」
「バカですね」
この人は異常だ。そして多分私も。
友達だの、先生だの、警察だの、世間だの、まともな常識人の奴らが何言ったって私には刺さらなかっただろう。
だけれど、私と同じ異常人である柊夜という人間。私と同類であった柊夜の言葉であったからこそ、私の心に深く言葉を突き刺せたのだ。
「柊さん。いや、夜さんバカですね。72億人殺しちゃったら1人ぼっちじゃないですか」
「だから、私は殺さないでくださいね」
「…へ?」
キョトンとした夜さんは、口からタバコをポトリと落としてしまった。
それで意識が正常に戻ったのか、タバコを「もったいねー」って言って拾い、再度吸い始める。
「……あーそう。じゃ、あしこちゃんは殺さないでおくよ」
私はその返答に満足して、精一杯の笑顔のまま夜さんに言う。
「その前にちゃんと力つけといてくださいね」
「私も頑張るから、あしこちゃんも頑張ってね」
「では」
そう言い残し、右足を前に出す。そしてその後は左足って、それを素早く交互に繰り返してゆく。
すると自然と体は前へ加速して行った。
地面を蹴る音と呼吸をする音だけが私の耳に聞こえてくる。
魔法にかかった私の足はあの音が追いつかないスピードで翔けてゆく。
魔法なんてないのは知っている。
夜さんが私にかけた魔法っていうのは多分、意識を少しでもずらそうとしたものだと思うのだ。
走る度に思い出すのはあの音ではなく、私のキスでありますように。
今までにない加速を体で、風で感じている。
余裕ができて空を見上げる。
先程まで綺麗に見えていた星々は雲のカーテンで覆われて見えなくなっている。
普通、小説だとこういう場面はバカみたいに晴れているのではないか。そう思い、この世界は現実なんだなと再度自覚する。
もしこの世界が作り物で、作者が意図的に曇りにしているのならば、その作者は相当性格が悪いことだろう。
走ってる途中、街灯が何本も立っているのが見える。
結局月や星なんかよりも、宇宙から見ればちっぽけな街灯。その街灯の灯りの方がやはり明るくみえる。
「ふふふふ」
なんだかそれがおかしくって、口から笑いが漏れ出てくる。
「そこの女の子止まりなさい」
私の世界に新しい音が追加される。
パトカーから発された音は大きく、近所そこらに響くものであった。
数時間前であれば、私はこの音を聞いて不快になっただろうが、だが今は違う。
どちらが速いだろうか?
そう思い、スピードを更に上げる。
加速する。加速する。加速する。
今までにないほどの加速が私を包む。
いつまでも加速できそうな、そんな気がした。
けれど、やはり車には勝てない。
これは流石に武が悪い。そう思い立ち止まる。
「相原翔子さんだよね。ご両親が捜索願いを出されていてね。とりあえず一緒にお家に帰ろうか」
「はい」
両親は怒っている以上に心配しているだろう。
『今まで私たちがツクリ上げた子』が急にどこかへ消えてしまったのだから。
今までより束縛は厳しくなるかもしれない。陸上をやらせてくれないかもしれない。
だがもう、別にどうだっていい。
いつか私を、私の世界を壊してくれる人がいるから。
窮地に立たされた時、本当に必要なのは救済者じゃない。破壊者なのだ。
結局私は直線距離で30キロにも及ばない距離で捕まってしまった。
半径30キロメートルのこの世界。
私は今はまだこの世界の鳥籠に囚われて生きていなければならない。
けれど、いつかこの鳥籠を壊してくれる。私を自由にしてくれる。
ただこの世界にあの音が響き渡ることを願って毎日を生きていこう。
そう思いながらパトカーに揺られ、家へと送られていった。
半径30キロメートルのこの世界 やすなり @sannkakujyougi
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