第105話 その甘さに触れた夜
人って、こんなに怒れるんだな……と俺はオレンジジュースを飲みながら思った。
秋祭りでピアノを弾く紗良さんを見るために駅にきて、偶然友梨奈さんを追っている匠さんを見つけて、追いかけて捕まえた。
その後必死に走ってジャズバーに来て、演奏に間に合った。
はじめて入った銭湯は天井が高くて開放感がすごくて感動したし、演奏は本当に素晴らしくて、俺も友梨奈さんも聞き惚れた。
演奏している間に天窓から見える空が夕方に変わっていき、それもすごく幻想的で良かった。
俺は頭にアクションカメラを取り付けて撮影して、それを見て友梨奈さんは爆笑したけど、目が真っ赤で……それに演奏が終わると、ここから先に起こることを理解して、すぐに落ち込み……悲しそうな表情になっていった。
演奏が終わり、銭湯から人も少なくなったころ、紗良さんは俺と友梨奈さんの所にきた。
そして友梨奈さんの目が真っ赤なことに気が付いたんだ。
だから俺はさっきあったことを、すべて話した。
紗良さんはサッと顔色を変えて、友梨奈さんにかけよった。
怪我がないことに安堵して、すぐに一緒に演奏していたメンバーの北野さんに声をかけた。
北野さんはさっきまで満面の笑みで歌っていたのに、一瞬で眼光を鋭くして、友梨奈さんを連れて別室に向かった。
すぐに女性警察官が呼ばれて、友梨奈さんの話を聞き始めた。
皆で警察署に向かうと、そこには匠さんと匠さんのお父さん……市議会議員の藤間さんが居た。
藤間さんは友梨奈さんを見て、匠さんの頭を掴んで机にたたきつけた。
ゴンと鈍い音が灰色で無機質な部屋の中に響き渡り、俺は絶句したけど、友梨奈さんは眉一つ動かさず見ているだけだった。
持ち上げられた匠さんの頬には殴られたような跡があり、雰囲気から藤間さんが殴ったのだろうと想像できた。
何度も何度も謝られて……俺は取りあえず別室に行き、北野さんに今までの状況を話した。
北野さんは冷静に話を聞いてくれた。そして一時間後に、紫色のドレスを着た紗良さんのお母さん……花江さんと多田さんも来て、話し合いが始まった。
結果、コンビニの目の前で暴行したことにより、証拠が確保され、過去の事例もあり、暴行罪で被害届を出すことになった。
示談になるだろうと多田さんは言っていたが、被害届を出せたことに友梨奈さんは満足したように見えた。
俺は友梨奈さんに対して余計な知識を入れてしまい、結果こうなってしまったのではないかと思ったが、藤間さんは匠さんを東京から離して大阪に連れて行く約束をしてくれたので、それだけでも良かったのかも知れない。
警察にはなんと三時間もいることになり、さっきやっとジャズバーに戻ってきた。
友梨奈さんと俺と紗良さんは、夕方から何も食べてなかったこともあり、お腹がペコペコだった。
一緒に戻ってきた楠木さんがご飯を作ってくれて、警察から俺の家に連絡してくれたこともあり、もう電車は諦めてゆっくりとタクシーで帰ることにした。
そして今。
紗良さんが烈火のごとく友梨奈さんにキレている。
「友梨奈。本当に何を考えてるの? 駅で匠さんを見かけた、その時点ですぐに警察に行くべきなのよ。駅前にあるでしょ? すぐ目の前に。なのに交番があるほうじゃなくて、どうして無いほうに、大通りのほうに行ったの? どうして自分で何かできると思ったの? 出来るはずがないでしょう、あれほどの体格を持った人が追ってきてて。どうして人通りが無くて、ビルばかりあるほうに行ったの? どうしてなんで理由がわからない」
紗良さんがこれを言うのはたぶん20回目くらいだ。
そのたびに友梨奈さんは「負けたくなかった」と言ってまた紗良さんが切れる。
そして友梨奈さんは「次は勝つ」と言って、また紗良さんが切れる。
それを繰り返している。警察署からもう三時間、ハイパーループタイムだ。
最初は俺も一緒に「そうだ」「危なかった」「絶対駄目」「でも匠さんが悪いよ」と言っていたが、もう三時間。
友梨奈さんも怪我がなく、後は現場で色々話をしたり、書類作るのに呼ばれるみたいだけど、北野さんがしっかり対応してくれてるので、任せて大丈夫そうだというのもあり、気が抜けた。警察関係者が近くにいて助かった。
俺は疲れもあり、紗良さんの演奏を録画したデータを楠木さんと一緒に見ながらオレンジジュースを飲んでいる。
画面が小さすぎてよく分からないけど上手に撮影出来たと思う。
楠木さんは映像をグイグイ見ながら、
「俺もうちょっと写らなかったの? こんなかっこ良く撮って貰えるなら、もっと写りたかったなあ」
「すいません、紗良さんしか興味無かったんです。でも! チェロめっちゃかっこ良かったです。本物の音はじめて近くで聞いたんですけど、まじかっけーと思いました」
「ホント?! 嬉しいなあ~。今度ライブあるから撮影きてよ!」
「いやちょっと興味出ちゃいました」
紗良さんの演奏は本当に素晴らしかったんだけど、楠木さんのチェロも良かった。
低音を引き出す大きな楽器、かっけー! 腕を動かす動作がかっけー! 話していたら服がグイと引っ張られた。
そして目の前に、ものすごく怒った表情の紗良さんがいて、
「陽都くんが居なかったら、友梨奈、死んでたかも知れないのよ、ねえ?!」
「うん。良かった本当に。同じタイミングで来られて見つけられて」
「陽都くんが追ってくれなくて、助けてくれなかったら、本当に危なかったんだから!!」
「うん、良かった」
「陽都くんも、もっと怒ってよ、もう友梨奈、全然駄目!!」
俺は三時間ずっと怒っている紗良さんの背中に手を置いて横の席に座らせた。
「あのさ。友梨奈さんは、紗良さんの前ではどうしてもこういう物言いになるけど、もう、ちゃんと分かってるよ」
俺と会場に向かう時はずっと泣いていたし、素直に謝っていた。
それに演奏が終わった瞬間に、泣きそうな表情になって、自分がしてしまったことへの苦しみを感じてるように、俺には見えた。
友梨奈さんは紗良さんの前だとどうしても強がるみたいだ。
完璧を演じているとかではなく、たぶん友梨奈さんは恐ろしくプライドが高いのだと思う。
だとしたら、これ以上言っても仕方が無いし、本当に危なかったけど目的は果たした。
褒められることじゃないことは、警察もお母さんも多田さんも、それこそみんなから言われているから、もう言わなくていい。
友梨奈さんみたいなタイプは本人が心底思わないと、たぶん心に響かないタイプと見た。
それに「やったら、やりかえす」という感覚がある人は、やっぱりある程度居て……それに我慢が出来ない負けん気の強さこそ、やっぱり友梨奈さんの「天才」を支えているのかも知れないと少し思う。
俺がそれをかいつまんで伝えると、友梨奈さんは俺の右腕にススス……とくっ付いてきて、口をもごもご動かして、
「お兄ちゃんのが理解しててくれて森……」
「森って何よ!!」
とまた紗良さんが切れている。
紗良さんはネットスラングなんて使わないから……。
俺は友梨奈さんの頭を撫でて、
「もう自分でなんとかしようとなんて、しないよね。負けん気が強いのが友梨奈さんだけど、みんなが心配してるのは、もう分かったよね」
「……うん」
「友梨奈ぁ?」
「紗良さんも、落ち着こう。俺が聞くから、もう友梨奈さんも疲れてるし、友梨奈さんだけでもタクシーで帰してあげよう」
「むうう……」
やっと紗良さんは文句を言うのをやめて、友梨奈さんをタクシーに乗せた。
そのまま紗良さんも帰るのかなと思ったけど、紗良さんは俺と話し足りないみたいで、友梨奈さんだけ乗せてドアを閉めた。
そして楠木さんに丁寧に頭を下げて店を出た。
もう深夜で、すべての店が閉まっていて、商店街に全く人気が無い。
ここまで深夜に外を歩いたことがなくて、少し怖くて紗良さんを抱き寄せて歩き始めた。
駅前から紗良さんの家まで徒歩15分くらいで、ゆっくり話すには丁度良い距離だ。
こんな時間になってしまったけれど、やっとふたりっきりになれた。
嬉しくて手を握ったら、紗良さんが立ち止まった。俺は前に回って顔をのぞき込んだ。
すると紗良さんはポロポロと涙をこぼしていた。
俺は慌てて抱き寄せる。紗良さんは俺にしがみ付いて、
「……陽都くんっ……本当にありがとう……陽都くんがいなかったら、友梨奈、どうなってたか……」
「もう大丈夫だから」
「もう……ほんとあの子、わかって、なくて。もう、なにを、してるんだかっ! もうバカなんじゃないのっ」
「紗良さん」
「もう友梨奈に何かあったらって、もう、ほんと、あの子、どうして、もうっ……!」
泣きながらブツブツ言いながら紗良さんは歩き始めて、たまに立ち止まって「もおお!!」と言う。
すごく我慢してたんだな……と思い、俺は背中を何度も撫でた。
紗良さんはしがみついてグズグズ泣き、また離れて「もおおお!」と怒って歩き出した。
可愛い、うざったい、可愛い、うざったい、可愛い……。これが紗良さんの最も素の姿なのかも知れないと俺は思った。
家に送って、その場でタクシーを呼んで帰るつもりが、そのまま家に連れ込まれた。
もう家にいた花江さんにお茶を出してもらい、少し話をした。
その間に、なんと紗良さんはソファーで眠ってしまった。俺は紗良さんを抱っこして部屋に連れて行くことにした。
挨拶の時に一度だけ来たことがある部屋は相変わらず整っていた。紗良さんをベッドに置くと少し目を開けた。
そして俺の首に腕を伸ばして後ろからぎゅうう……としがみつき、
「……寝るまで、ここにいて……」
と言った。可愛くて、愛おしくて。俺はそのままベッドの横に座り、身体を預けた。
やがて俺の首をぎゅうぎゅうと絞めていた力が抜けていき、両手がズル……と俺の首から外れた。
俺はその両腕をお布団の中に入れた。無防備に眠っている紗良さんは化粧も落とさず、服も外着のままだ。
でももう今日は仕方が無い。
俺は紗良さんをしっかりとお布団に入れて、寝顔を見ていた。
髪の毛のピン……とめたままなのは傷みそうだから、それを外して机に置いて。
縛ったままの三つ編みも、ゆっくり解いた。リボンを取るとスルル……と真っ黒な髪の毛が広がり、俺は少しだけそれを整えた。寝顔が可愛くて、頭をずっと優しく撫で続けた。
可愛くて、大好きで、紗良さんの大好きを守れたのが嬉しくて、それでいて匠さんにはやはり腹が立ち、頭を優しく撫で続けた。
気が付くと俺も鬼のように眠くてそのまま眠りそうになったので、気合いを入れた立ち上がり、タクシーで帰宅した。
家に帰るとお母さんもお父さんも起きて待っていて、時間は驚愕の2時。
明日は日曜日ということもあり、俺は説明を軽くして風呂に入り、すぐに寝た。
長すぎた一日。でもまだ頭の中に紗良さんが奏でる曲は聞こえていて、すべて忘れてそれだけ頭の中に響かせて、眠りについた。
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