第103話 音と色の間に

 音が跳ねている。

 ぴょん、ぴょん、と嬉しさを我慢出来ずにスキップするように。

 お父さんが弾くピアノはいつだって音が踊って見えた。

 ひとつ鍵盤を押して、その次へ。その小さな隙間で「遊ぼう」って音が言っている。

 私がそう言うと「音はおしゃべりだから、隙間しかお話し出来ないんだ」と笑った。

 私もそんな風に遊びたい。音はきっと、音と音の間に遊びにいく時間があって、そこが遠いか近いか、どんな色が付いてるか、笑ってるか、泣いてるか、それがきっと音色なんだ。

 お父さんの音色、大好き。


「おねーちゃん、寝ながら笑っててキモいんだけど」

「……え、やだ……って友梨奈! なんでまた部屋に入ってきてるの!」

「おはよ。ねえ、今日何時から弾くの? 私塾だけど、演奏は聴きたいから行きたいの」

「もお。18時からよ」

「おっけー! じゃあ、いってきまーす」


 そう行って友梨奈は私の部屋から出て行った。

 私は相変わらず奔放な友梨奈にため息をついて、布団から出た。

 今日は商店街の秋祭りだ。匠さんをキッカケに、久しぶりに商店街に顔を出し、ピアノを弾くことに決めた。

 あれから寄れる時は常に顔を出して練習してたんだけど、指が全然動かなくて大変だった。でも楽しくて。

 お母さんに仕事を頼まれていたときは、あまりこういう事に関わりたくなかった。

 友梨奈に劣る私だから仕事をしないといけないと思い込んでいて、全てを義務に感じて何もかもが辛く、中学に入ったとき……五年くらい秋祭りには顔を出してなかった。

 でも久しぶりに顔を出して見ると、お母さんの娘として私を扱う人は誰もいなかった。

 もっと気楽に顔を出して居れば良かったな……と今は少し思っている。

 上着を羽織って一階に行くと、お母さんは準備をしていた。


「おはよう、お母さん」

「おはよう紗良。これから私、秋祭りの朝準備に顔出しするわ。その後大阪行って支援者さんの結婚式でスピーチ! ピアノは聴けそうにないわ、ごめんね」

「ううん。別にピアノ弾くだけだし。いってらっしゃい」

「いってきます! あとで映像見せてもらうから!」

「いいよ、別に」


 お母さんが音楽に全く興味がないことを知っているし、なんならお父さんの音楽趣味を強制的に終わらせたのもお母さんだ。

 でも今更それについて文句をいう気もなく、お母さんはそういう人なのだという理解に落ち着いた。

 お母さんは服やメイク道具をカバンに投げ込みながら、


「まあ正直言うと、音楽は全然分からないわ。でも紗良って娘が、なんか人間に感じて」

「何なのそれ」

「今まで紗良はあまりに問題がなくて。でも最近は『こんな子だったの』の連続で。それが私はすごく新鮮。今までとは違いすぎて『別の人間』だと感じるわ。それは友梨奈もね。でもこれこそが思春期の子育てなのかしらね……あ。これ講演に使えそう。文科省の思春期の親プログラムに私も参加したんだけどね、あ、車が来た、行くわね」

「……いってらっしゃい」


 お母さんは荷物を抱えてバタバタと出て行った。

 娘に向かって「人間」って。もう本当にあの人は何を言ってるんだろう。

 最後には「公演に使えそう」って、あまりにお母さんらしい。

 前ならもっと悲しかったけど、最近は頼る人も、分かってくれる人もいる状況で心に余裕があり「変な人ね」という感覚に近い。

 まあ気にしても仕方が無いと私は自分のために朝ご飯を作り始めた。

 スマホを見ると、陽都くんからLINEが入っていた。『18時ね?! それより前に始めたりしないよね?!』

 私はそれを見て笑ってしまう。そして『18時』と返した。

 LINEの画面を落とすと、そこにこの前プリクラで撮った写真が壁紙に出てきた。

 写真部のみんなと、恵真先輩、熊坂さんで撮影したものだ。私と陽都くんがセンターにいて、みんなでぎゅうぎゅうに集まって撮った。学校はずっと優等生でいるために必要な舞台で、楽しいと感じたことは全くなかった。

 でも陽都くんと知り合って、映画部が始まって……今はこんなに楽しい。

 私は壁紙の写真を見ながら、ゆっくりと朝食を摂った。



「紗良ちゃん、おはようー! お母さんもう帰ったよ。今から大阪だって? 相変わらず忙しいわねえ」


 銭湯のおばあちゃんは私を笑顔で向かえてくれた。

 秋祭りは昼からだけど、準備も大切なので朝ご飯を食べ終えてからすぐに来た。

 私は上着を脱いでカゴに入れながら、


「支援者の方の結婚式に出るそうです」

「松島建設さん、大阪の臨海部再開発かなりの規模受注してるからねえ」

「最近は関西と東京をずっと移動してますね」

「松島さんあっちで儲けてこっちに持ってきてるから大事よ。花江さんは言うだけじゃなくて、ちゃんと動くから偉いんよ。さて準備しようか」

「はい!」


 お母さんは世に言う「良いお母さん」じゃないかも知れないけれど、いつだって負けそうになると勝つ人に引き抜かれる。

 それは娘としてというより身近な人間として、すごいのでは……と思っている。

 私はパンツを膝の上までまくり、靴下もカゴに入れてデッキブラシを持った。

 今日の秋祭りでは、銭湯で足湯をして、そこでバンドの演奏会をするのだ。 

 湯船の中に金属製のベンチを入れて、足首程度までのお湯にして、足湯にする。

 まずはデッキブラシで銭湯の中を磨く。椅子はこのあとジャズバーの楠木さんたちが持って来てくれるので、それまでにピカピカにしないと! ここはあとで楽器も持ってくるし、お客さんも入ってくるし……と磨いていたら、開け放たれている天窓から、子どもたちの歌声が聞こえていた。

 しかも、ものすごく聞きなじみがある。

 思わず歌いながらデッキブラシを動かしてしまう。


「……今日もみなさん、おはようございます~! たのしい一日のはじまりです~! ……わあ覚えてます」

「裏の幼稚園、お祭りの日と参観日くっ付けるから、みんな来てるのよ。紗良ちゃんがあそこに通ってたの何年前? それでも覚えてるの?」

「不思議ですね、10年くらい前なのに、歌も歌詞も、完璧に覚えてます」


 この銭湯の裏側には私が通っていた幼稚園がある。

 この幼稚園に通っていた時にお父さんが亡くなってしまったのもあり、個人的には苦しい思い出のほうが大きい。

 でもこうして歌声を聞くと懐かしくて、色んなことを思い出してしまう。

 デッキで床を磨きながら、


「幼稚園が終わった時……ここの裏で、木を割った覚えがあるんですけど」

「そうそう! 昔は薪で沸かしてたのよ。でもそれも出来なくなって今はガスだけど、あの頃は薪だった。そう、最後の頃かも」

「そうですよね。なんかお父さんがすごく楽しそうに薪を割っていた姿だけ覚えてます」


 お父さんはあの頃もう市政で活躍していたけど、市政に関わるからこそ育児をすべき! という主張をしていて、よく迎えにきてくれた。

 幼稚園の横には車通りが激しい道があるんだけど、そこにガードレールを付けたのはお父さんだ。

 押しボタン式の信号に「ピッポ!」と音が付くようになったのは、子どもたちが喜んで押すようにと付けられたものだ。

 お父さんは私たちを育てながら、この町を少しずつ良くしていて……私はそんなお父さんをカッコイイと思っていた。だから……お父さんみたいになりたいってずっと思ってて、そうなれない自分を嫌っていた。

 銭湯のおばあちゃんは床を雑巾で拭きながら、


「でもあれよ。勇ちゃんはよくここに来て『これ以上忙しくなるのはイヤだ』ってよく愚痴ってたのよ」

「え。そうなんですか。いつも楽しそうに活動してる印象しかないです」

「市長を三人に出来ないのかな……とか真剣に考えてたわよ。三人くらいいて丁度良いし、判断を2:1に出来るって」

「なるほど」

「まあ志半ばだったけど、結構楽しんでたよ。ここでもピアノ弾いてたし。だから今日は嬉しいわ、紗良ちゃんが弾いてくれるの」

「はい!」


 お父さんも大昔、銭湯でピアノを弾いたことがあると聞いて、私もやりたいと思ったのだ。

 私の知らない顔、きっとたくさんあったんだろうな……と思う。



「わあ、すごい。銭湯の中にバーが移動してきましたね!」

「ビールサーバーに、手作りの梅酒、バーボン……お店で出せるものは全部出せるよ」

「すごいですね! それに足湯も良い匂いですー……」

 銭湯のおばあちゃんはお湯に触れながら、

「若い子に来てほしいからグレープフルーツの匂いにしたわ。今日が天気も良いし、ちょっと汗かいて冷たいもの飲みたい気温だね」

 それを聞いてジャズバーの楠木さんは目を輝かせて、

「確かに。もうちょっと氷多めに店に置いとくわ」


 昼の12時から始まった秋祭りは好評で、今日は100円で入れてドリンク付きの銭湯は若いお客さんがたくさん入ってきた。

 私は「ここで荷物を置いてください」とか「ここで足を拭けますよ」とか、銭湯の基本的な流れをお客さんに説明してすごした。

 子どもを連れたお父さんとお母さんと子どもが三人で同じ湯に足を入れて、泡多めに設定したバブル足湯に、子どもは大はしゃぎしていた。

 中学生たちは、はじめて銭湯に来たと笑い、コーヒー牛乳の瓶の写真を「レトロ可愛い」と撮っていた。 

 なるほど……。瓶は割れるしかさばるし、回収を頼むのも面倒で、紙パックの自動販売機にしようかなとおばあちゃんは言っていたけれど、むしろ瓶のシリーズを増やしたほうが集客に繋がるのかも知れない。

 そして思ったより好評だったのが、近くの市民農場で採れたもので作った焼き芋だった。

 今銭湯のボイラーは使わないままになってたけど、そこを使って焼き芋を作れるのではないかと多田さんの息子さんが提案してくれたのだ。

 試しにやってみたら、すごく美味しくできて大好評! ふわふわの焼き芋とジュースはよく売れた。

 そして17時をすぎてそろそろライブの時間になってきた。

 私は少しきれいめの服装に着替えて……なんとなく陽都くんを探したけど、姿が見えない。

 LINEを見ても入って無い。ひょっとして迷ったり……と思ったけれど、陽都くんはマップに強いからそれはない。

 大丈夫かな……と思いつつ、電子ピアノを持って来たり、観客席を作ったりして、楠木さんたちとライブの準備をした。

 高い場所に上っていた太陽が落ち着いて、ほんの少しオレンジ色の空になるころ、準備は整った。

 思ったよりお客さんが集まってきて緊張してきた。もう時間は18時。陽都くん……? と思ったら、一番後ろに息を切らして小さく手を振っている陽都くんが見えた。……良かった。見てほしくないって思ったけど、やっぱり見てほしかったの。

 陽都くんのすぐ横に友梨奈も見えた。

 よし、頑張ろう。

 開始時間になり、楠木さんがマイクを持った。

 

「みなさん、ご来場ありがとうございます。銭湯の目の前、半地下でジャズバーをしている楠木と申します。ジャズって何だよとおっしゃる方が多いと思いますが、まあ基本的にはカラオケです。カラオケより、ジャズバーって言ったほうがカッコイイのでそう言ってるだけで、音楽に関することなら何でも気楽に楽しめる場所です。完全防音で、どんなに下手でもお客さんが拍手してくれる自尊心を高められて長生きに最適なお店。タンバリンを叩きたいだけの幼稚園児さんと、飲みたいだけのパパもOK。ビール一杯から気楽に来て下さいね」


 そう楠木さんが挨拶すると、笑い声と共に拍手が広がった。

 メンバー紹介がはじまり、私は緊張しながら立ち上がって頭を下げた。

 一番後ろの席で、陽都くんと友梨奈が誰よりも大きく拍手してくれていて、それだけで嬉しいけれど……陽都くんのおでこに何かくっ付いている。四角くてレンズみたいなものが見えるからカメラ?

 そして手にはスマホを持っている。きっとおでこで動画を撮って、手で写真を撮るのね。

 用意周到すぎて笑ってしまう。おでこにくっ付いているカメラが洞くつに潜る人みたい。

 その姿を見るだけで笑えて、緊張が解けた。


 さあ、音と遊ぼう。


 いつもピアノを習う前にお父さんが言っていた言葉を口の中で紐解く。

 そして息を細く吸い込んで天窓を見つめた。

 楠木さんの指示で、電子ピアノに手を置いて、ゆっくりと弾き始める。 

 この銭湯は昔ながらの建物で、天井がすごく高い。そして壁には昔から同じ作家さんが書いている富士山の絵。

 私がトン……と鍵盤を押すたびに空間に音が広がる。

 一度鳴らした音が、壁に伝わり、天井から抜けて空に広がった。

 私はそれを聞いて音の世界に入った。

 この曲はお父さんがよくあの店で弾いていたものだ。私も幼稚園よりもっと小さいころ……ピアノを弾くお父さんの横でタンバリンを持って踊っていた。あの頃のお父さんみたいに、私は今弾けてるだろうか。

 楠木さんはチェロを持ち込み、その横ではお父さんの友だちだった北野さんが楽しそうに歌う。

 北野さんはお父さんの先輩で、警察官だ。ものすごく身体が大きくて、昔は声楽をしていた方で、今もジャズバーの常連さんだ。

 その場の空気を全部吸い込ませて、音楽に変わり、それが空に広がっていく。

 ピアノを弾く視界に見覚えある人が楽しそうに拍手しながら聞いているのが見えた。

 それは私が昔通っていた幼稚園の園長先生だ。

 そして私が見ていると気が付いて、心底嬉しそうに微笑んでくれた。


 見ててください、今も私、弾けるんですから。


 実はお昼にここでお仕事していたら、参観日が終わった幼稚園児たちと一緒に園長先生が来た。

 そして私を見て「紗良ちゃん!!」とものすごく喜んでくれた。

 園長先生はもう80才をこえていて、私が幼稚園にいたころより小さくなっていて、それがすごく心配になったけど、全然元気よと笑ってくれた。

 そして私が今日ピアノを弾くんですよ……と言ったら、大昔のことを覚えていて、誠心誠意謝ってくれたのだ。

 それは、私はお遊戯会でピアノを弾きたいと言ったのに、主役にされたこと。

 テレビの取材が入るし、何よりこれから国会議員になる先生の娘さんなんだから……と押し進められるように私を主役にした。

 でも「ピアノが弾きたかった……わよね?」と言われて静かに頷いた。

 そう、私は、お遊戯会でピアノが弾きたかった。

 こうやって、みんなの歌を感じながら楽しく。


 でもそれが言えなかったの。


 震えるほど怖かった舞台、強い光、何も見えない観客席。

 でも今こうしてまだ弾けて、それにそれを覚えていてくれる園長先生もいた。

 まさかあんな大昔のことを、今も覚えてくれてるなんて、思わなかった。

 私にピアノを教えてくれた楠木さんも、何よりここに胸を張って立たせてくれる陽都くんもいる。

 それがどうしようもなく嬉しくて、私はみんなに聞いてもらいたくて弾いた。

 北野さんの声が銭湯の中に丸く響きわたり、私はそれに寄り添うように音を奏でる。

 楠木さんのチェロは身体に響くように素晴らしく、子どもの頃にお父さんと「チェロってすごいー!」と周りで見ていたのを思いだした。


 変わってしまったもの、消えてしまったもの、居なくなった人、まだここに居る人。

 それでも全然変わらずここにあって、あの頃の私と、今の私は、全然違うけれど、全然同じで。

 いつだってお父さんと一緒にいるのが大好きだった私のまま。


 ちっちゃな私が今横に座ってこの曲を弾いている。


 「ねえ、これであってるの?」と聞く小さな私に、今の私は「大丈夫。手がもう覚えてる」そう言って笑った。

 これからずっと貴女は頑張って、頑張って、頑張っていくけれど。

 ずっと苦しいけれど、大丈夫になるから。

 ちゃんと未来で楽になるから、ひとりじゃないから、大丈夫だから。

 私は小さな私の頭を撫でた。

 そして北野さんと一緒に弾いた。

 お父さんが音と音の間を聞けるなら、きっとこの地上と天国の間の音だって聞こえるよね。

 ね、お父さん。またこうして弾くから、空から聞いていて。



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