第90話 パンドラの箱に入っていたサバ

「見てください、安城さん。紗良さんとおそろいのハンカチなんです」

「丁度鼻の調子悪かったんだ、ティッシュに代わりにさせてもらうよ、ありがとう」


 安城さんは鼻をグチャグチャさせた指を俺のほうに伸ばしてきた。

 駄目だこの人。俺は一瞬でハンカチをカバンに入れた。

 ホタテさんが目を細めて、


「駄目よ、陽都くん。安城奥さんに逃げられた男だから、惚気ると呪われるわよ」

「え……そんなこと普通にあるんですか。ネットのネタとかじゃなくて?」

「嫁は観念。サイズが欲しいなら等身大パネルでも置いとけ。大丈夫、陽都はこっち側の人間だ」

「安城やめなさい、高校生に。ちょっと待っててね、荷物置いてすぐに戻るから」


 さくらWEBに来たら、丁度一階で打ち合わせ終わりのふたりに会った。

 荷物置いてくるから、待ち合わせスペースに居て……と言われてガラス張りの待合室に入った。

 相変わらず安城さんとホタテさんは面白い。仕事はキツくて大変そうだけど、その先に楽しそうな人がいるのは嬉しい。

 安城さんがいたゼミがある大学は今の俺の成績ではギリギリで、勉強しなきゃいけないのは間違いないんだけど。

 品川さんから予定表が来たのを思い出し、スマホを取りだして調整をはじめた。

 するとガラス戸がトントンと叩かれて恵真先輩が顔を出した。


「辻尾くん」

「! 恵真先輩。4BOXの打ち合わせ……とかですか」

「ううん。私まだ部屋が無くて、さくらWEBの部屋を借りてるの。前に中園くんが借りてたって場所」

「あー……はい、なるほど」


 あそこに住んでるならここを通らないと部屋に入れない。

 恵真先輩はガラス戸の横に立ち、


「少しだけ話しても良いかな」

「あ、はい。大丈夫です」


 安城さんたちが戻るまで……と俺は一言付け加えた。

 恵真先輩は少し離れた自動販売機でコーヒーを買って、俺の横に座った。


「すごいね、東京は。こんな大きなビルの一番上に住める所があるなんて。ビルの一番上は全部展望台だと思ってたよ。部屋にいても全然落ち着かなくて……でも他に居場所もないの。ずっと東京に行きたいと思ってたのに、ここまで人が多くて疲れると思ってなかった」


 話し始めた恵真先輩は、学校で会ったときほど異常な丁寧さはなく、少し安心した。

 俺もペットボトルのお茶を飲み、


「前は青森に住まれていたとプロフィールにありましたけど」

「そう、ちいさな港町。小さな港と、吹きっさらしの加工場に、巨大煙突がある缶詰工場と出来上がったものを運ぶトラックが走っている所。高校もね、学校全体で40人しかいないの。だからもう海城高校、異世界転生した気分。右見ても左見ても可愛くて垢抜けた子」

「いやでも、恵真先輩は、そのえっと、あまり容姿について言うのは良くないけど……」

「そうね。地元でも有名だった。私とお母さん、漁港のエルフって呼ばれてたのよ。金髪なだけで。人間扱いもされなかった。そういう意味では目立たなくて楽かも」


 そう言って恵真先輩はコーヒーを飲んだ。

 確かに東京は金髪でも正直全く驚かない。それどころか紗良さんのようにウイッグを日常的に被ったり、コスプレしてる人たちが歩いている。それでも誰も気にしない……それが東京だ。俺は生まれも育ちも東京だけど、ばあちゃんが昔住んでたという港町に連れて行ってもらったことがある。たぶん小学校低学年の頃に一週間くらい居たんだけど、東京から来たってだけで見に来た子が何人か居た。妙に居心地が悪くて変な気持ちだったのを覚えている。

 恵真先輩は紙コップのふちを撫でながら、


「ごめんね。突然スパイダーしたいってクラスに行って」

「いえ。それなんですけど、ダンス部の人たちも気にしてなくて、映画部の部室に冷暖房も入れて貰えるみたいで、まあサイト作ったり動画作るのは良いかなと思いました」


 そう言うと恵真先輩は目を丸くして、


「助かる。無理は承知なの。分かってる。……私ね、母親が違う兄がいて。その人もうちの高校でスパイダーに立候補したの。その時も今と同じ……対立候補がいたらしいの。兄はコネを持ってる人なんだけど、負けたの。有名な兄が負けて、無名でただダンスがどうしようもなく上手な人が勝ったって。それを前から知ってて……良いなって。私もやりたい、自分の力だけでチャレンジしてみたいってずっと思ってたの。でもなかなか地元出られなくて……でもチャンス到来」


 そう言って椅子から降りて紙コップをゴミ箱に投げ込んだ。


「この後、安城さんとご飯行くの?」

「あ、はい、そうです」

「じゃあ詳しいことは安城さんに聞いて。私はこの事に関しては感情が偏るから」

「感情が……?」

「動画を撮ってアップしてくれるだけでいいの。私は実力があるから、かならず柊さんに勝ってみせる。よろしくお願いします」


 そう言って頭をさげて、さくらWEBの中に入っていった。

 今までずっと、なんで突然と思っていたけど、少し謎が解けた。お兄さんが果たせなかった夢を自分で叶えたいのか。

 それならまあ理解はできる。というか、それをクラスに入って来た時に言えばもう少し理解して貰えたのでは?

 でも「感情が偏る」って……? 意味が分からない。

 俺はさくらWEBから出てきた安城さんに手を振って待合室を出た。




 安城さんとホタテさんが連れてきてくれたのはビルの三階にある中華料理屋で、通されたのは個室で良い部屋だった。

 なにより出てきたラーメンは肉肉肉肉ですげー旨い。ローストビーフが山盛り乗ってるみたいなラーメンで最高!

 あまりの美味しさに二杯目を食べていると安城さんはビールを飲み、


「恵真ちゃん海城の制服着てたな。どこまで陽都に話した、あの子」

「えっと。母親が違うお兄さんがいて、スパイダー出来なかったからしたい……だそうです。うちの学校のスパイダーって、あれなんですよ。やりたい、はいどうぞって出来るものじゃないんですよね。だから最初何かと思ったんですけど、お兄さんの雪辱を晴らしたい……ならまあ分かる気がしてきました」


 そして詳しいことは安城さんに聞いてほしい、そして「感情が偏る」と言ったことも話した。

 俺がそう言うと安城さんは目をつり上げて、


「へえ、俺がどこまで知ってるかも知りたいんだね、すごいな、あの子。兄の雪辱を晴らしたいとか純粋な話なら良いけど、全然違うよな、ホタテ」

「まあそうね。真逆ね。たぶん兄と父、なんなら母も根こそぎ憎んでると思うわ」

「え……?」


 俺は肉を食べながら顔を上げた。

 安城さんは、


「恵真ちゃんの父親は映画監督のジャド・バーネット。陽都映画見る?」

「すいません。俺映画はあんまり見ないです。すんげー有名になったら少し見る程度です」

「これとか、これとか。まあ国内ではあんまり有名じゃないかも。海外で日本が舞台の作品すげー公開してる珍しい人なんだよね」


 安城さんが見せてくれたスマホの画面には、見たことがない映画が数本並んでいた。

 俺はドキュメンタリーのほうがやっぱり好きで、映画は長すぎてあまり見ない。


「すいません、全然わからないです」

「まあ映画好きは知ってる程度の監督かな。奥さんも日本人で子どもがひとり……それがコイツ」


 その写真を見て俺は叫んだ。


凪琉聖なぎりゅうせいじゃないですか! 知ってますよ」

「そう。今めっちゃ売れてるよな。グリーンショコラ」


 凪琉聖は俺も知っている男性アイドルだ。グリーンショコラという六人グループのアイドルのひとりで、可愛い男の子を売りにしている感じがする。

 安城さんはビールを飲みながら、


「奥さんも元女優だし、なるべくしてアイドルしてるサラブレッド。だけど恵真ちゃんはね、ジャド・バーネットに認知もされてない、私生児なんだ。だからね、凪琉聖に勝ちたいって気持ちは人一倍あるんじゃないかな。そもそもジャド・バーネットは恵真ちゃんの存在知ってるのかな?」

「漁港でにロケに行って、そこで恵真ちゃんを偶然見つけたのがテンダーの三井さんだけど、その時にはジャド・バーネットの娘だなんて聞いてないわ。天馬さんがそれを聞き出して泉に移籍させて、うちの番組に『価値がある』って持ってきたんじゃなかった? だから注意してあげてね。恵真ちゃんが話した状況だけで理解してあげて」

「あ、はい、わかりました。余計なことは言わないようにします」


 恵真先輩、あの容姿で凪琉聖が兄だなんて知られたら、学校で大騒ぎになるだろう。

 ホタテさんは棒々鶏を食べながら安城さんに向かって、


「次の4BOX、恵真ちゃん出すのよね?」

「そう。それは決まった」

「凪琉聖の妹ってことは言わないでって言われてるの?」

「現時点では。天馬さんは全部さらけ出して使いたいみたいだけどね。むしろそれを期待してダイエット合宿も投げ込んで来たでしょ。いえ! いえ! もっと全部晒せ!! っていうパワーを感じるね。だってさ、小さな漁港で超美人の母親とふたりでひっそり暮らしてきた有名監督の娘だよ。しかも今を時めく凪琉聖の妹。最高に上がるよな」


 安城さんはビールのお替わりを頼んで楽しそうに笑った。

 俺はオレンジジュースを一口飲み、


「それは……恵真先輩の意志をすべて無視してってことですよね」

「わかんない。恵真ちゃん一回映画監督とケンカしてたけど、そこら辺が理由かも。でも今回は上京して海城入ったくらいだから、ガチで売れたがってるよね。まあ俺たちはそれに備えて全ての情報は持ってる。まだ使わないけどな。爆弾はさあ、意味がない所で爆発させても、ただの火薬だから。使うならちゃんと導火線にしないと」


 そう言って安城さんはニッカリと微笑んだ。

 恵真先輩のことを「俺も使うのか」なんて言ってたのに、安城さんのほうがよほど怖い人に感じるけど。

 安城さんはツマミを食べて、


「ま、陽都がたった二週間で恵真ちゃん勝たせられるか興味はあるなっ!」

「無理ですよ、無理無理! 絶対そんなこと出来ません!」


 こんなの知らない方が良かった! だったら単純に「お兄さんの雪辱を晴らしたいのかあ~」と応援出来たのに!

 俺がそう叫ぶと、ホタテさんはサラダを食べながら、


「その認識で良いわよ。事情はともあれ感情は『勝ちたい』。だったらしてあげられることは、応援だけよ」

 安城さんは届けられたビールを飲み、

「まあドキュメンタリーの素材として興味があるか、ないかって言われたら、漁港の美人かーちゃんのが俺は興味あったな~。だって恵真ちゃんのかーちゃんだろ、桁違いの美人だろうなあ。恵真ちゃん見つけた三井さんさすがだわ」

「三井さんは結局落とせなかったって聞いたわよ」

「え? じゃあ誰が最終的に落としたの?」

「それも天馬さんだって聞いたわ。恵真ちゃんのお母さんの横でサバを延々煮るのを手伝って口説いたらしいわよ。一ヶ月も」

「げ。すげーな。一ヶ月?!」


 あの冷静で人を人と思ってないように見えた天馬さんがサバを煮る……?

 まったく絵が浮かばない。安城さんは「天馬さんさあ」とビールを飲み、


「陽都のこともすげー好きだよな。陽都と飲みたがってた」

「げ。行きたくないです」

「なんか鍋川なべかわって所の話をしたいって言ってたけど、陽都知ってる? たぶん鍋川漁港って所だと思うんだよ」

「え? そんなの知らない……」


 と言いかけて、夏休みにばあちゃんに港町に連れて行かれたことを思い出した。

 あそこがその鍋川漁港なのか分からない。ばあちゃんに連れられて行ったことしか覚えてない。

 俺は考えながら、


「……ばあちゃんに聞いてみます」

「調べたら北陸っぽいね。サバの名産地だって。天馬さんサバ得意なのかな。サバで恵真ちゃんのお母さん口説いたみたいだし。サバの竜田揚げ食べたくなってきた。あんかけがいいな。陽都も食べる? すいませーん」


 安城さんは追加注文して、俺は色んな話を聞きながら食事を取った。

 安城さんが見えてくれた漁港の写真にはまるで見覚えがなかったけど、こういうのはばあちゃんに聞くのが一番はやい。

 帰り道にばあちゃんに連絡したら『そうや、陽都を昔連れてった場所や』と帰ってきた。

 やはり行ったことがあった……けれど、それが天馬さんとどう関係してるのか、分からない。

 俺がばあちゃんに昔つれて行かれた鍋川漁港、それを聞いてくる天馬さん。

 そしてサバを煮て恵真さんのお母さんを口説いたのだろうか。

 姿が見えてきて、でももっと見えなくなって、一緒にばあちゃんが見えてきた。

 なんだか恐ろしいパンドラの箱に触れてしまった気がして、俺はスマホをカバンに投げ込んだ。




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