第36話 あの頃の俺じゃない

「おはよう、母さん。ごめん。俺美術の課題、学校に忘れてきたから、今日朝飯いらない」

「あら。じゃあおにぎりにするわね」

「ごめん、ありがとう」


 起きたばかりの母さんに声をかけて高速で準備をはじめた。

 夜気がついたんだけど、課題を持って帰るのを忘れていた。

 美術で提出物を遅らせるのはメチャクチャヤバいので、朝イチで学校に行って終わらせることにした。

 母さんが握ってくれたおにぎりを掴んで、いつもより二時間はやく家を飛び出す。

 正門は開いてないけど、野球部が練習している部活用の門は開いているはずだ。


 鞄を自転車の籠に投げ込んで駅に向かう。

 6月の湿った空気が少しハリッとして気持ちが良い。

 でもまあ、朝はそんなに得意じゃなくて、夜のが好きだけど。

 自転車を停めて駅前の方に歩いて行くと、この前吉野さんと一緒に入ったコンビニのイートインの席が見えた。

 あのときの吉野さんを思い出してニヤニヤしてしまう。

 俺の腕にしがつく吉野さんマジでめちゃくちゃ可愛かった。

 タクシーの中から窓開けて手を振ってくれる姿をずっと見てた。

 それに昨日ソフトクリーム買ってきてくれて、必死に気持ちを伝えてくれるのが分かって、こんな子に気を遣わせるようなことだったか? って素で思えた。

 止められなくてすげーキスしちゃったけど……むっつりって何だよ、どうせ店長だろ。

 ……映画部で合宿にいくと良いんじゃないかな? 撮影合宿。動画の内容に必要な気がしてきた。うん、必要だわ、海。海を走る絵な。

 いやちょっとまて。部費って活動履歴がないと出ない気がする。

 学校ついたら調べてみようと思いながら駅に入ると……ホームに見たことがある人影があった。


「おう、陽都じゃん」

「……宇佐美」


 ホームに立っていたのは久米工業の制服を宇佐美だった。

 宇佐美は靴が入る大きなリュックを背負っている。

 「久しぶりだなー!」と大きな身体を揺らしながら俺のほうに近付いてきた。

 大きなリュックと水筒……そうか、朝練か。 

 宇佐美はあのまま陸上を続けて、久米工業でも陸上部に入ってたのか。

 宇佐美は短い髪の毛をワシャワシャ触りながら満面の笑みで俺に話しかけてくる。


「すげー久しぶりじゃん。この時間に陽都見るの、はじめてじゃね? え、お前どこだっけ」

「海城」

「そっか、1時間くらいだもんな。てか今日はなんで早いの? お前部活は続けてんの? 俺まだ部活やってるんだけど、もう最近つらくてさー」

 

 宇佐美は俺の顔色など気にせずペラペラと話し続ける。

 駅のホームには人が多いのに、自分の心臓の音だけが大きく聞こえてくる。

 宇佐美は「陽都が盗撮したんじゃね?」と言ったことを、俺が聞いていると知らない。

 だからこんなに普通に話しかけてくる。この笑顔の裏で何を思ってるのか、俺は知ってるんだ。

 俺は鞄を背負い直して、


「宇佐美、JKコン、新山で出すんだろ」

「お?! ああ、うん、そうだよ。おっと、なんだよ、突然何の話だよ、驚いたな」

「俺も出すんだよ。サイトみたら新山とお前の名前があって驚いたんだ」

「えーー?! マジで、ちょっとまてよ、それ新山もすげぇ喜ぶんじゃないかな。え、海城の部活で出すの? どの子? もうエントリーしてる?」


 宇佐美は心底嬉しそうにスマホを立ち上げて俺のほうに近付いてきた。

 コイツ本当になんとも思ってないんだな。そう思ったら昔気にして逃げたことが心底バカらしくなってきた。

 反対側のホームに快速電車が入ってきて、ホームをすり抜けていく。

 風が走り抜けて、音が遠ざかり、俺は顔を上げた。


「新山はさ、盗撮したのは陽都だ……って噂ながしたのが宇佐美だって知ってるのか?」


 その言葉に宇佐美も俺のほうを見た。

 やっと笑顔じゃない、素の顔になったように見える。

 そしてポカンと口を開けた。


「……え?」

「俺聞いたんだ、部室に入ろうとしたらお前がみんなの前でそう言ってるの。その次の日には俺が犯人ってことになってたよな」

「え、いやいや、ちょっと待てよ。突然なんの話だよ。いやだってさ、誰だっておかしいと思うだろ。お前がいない日にだけ撮影されてたんだから」

「でも違っただろ」


 まあそうだけどさあ、今頃なんだよ、突然朝からさ、と宇佐美はスマホをポケットに入れてバツが悪そうに目を逸らした。

 俺ははっきりと言う。


「謝れよ」


 宇佐美は頭をかいて、目を逸らしながら、


「……悪かった。いやでもさ、あれは仕方なくね? お前そんなこと気にしてたの?!」

「嫌な記憶に期限なんてねーよ」


 俺はそう断言して、ちょうど電車入ってきた電車に乗り込んだ。

 息が苦しくて、少しだけ胸が痛い。人生で他人に向かってハッキリ怒ったのははじめてな気がする。

 服の上からでも心臓がバクバクいってるのが分かる。胸が痛くて苦しくて、胸元の服を引っ張った。

 でも……これはきっと中学の時の俺が言いたかった言葉だ。

 あの頃飲み込んで、誤魔化した言葉。

 でもなんだろう、すげーすっきりした。



 学校に向かうとやっぱり部活用の門は開いていた。

 そこから入ってロッカーの中に入れっぱなしだった鉛筆画を取りだして、専門棟に向かう。

 やっぱり半分以上が白い。鉛筆画で良かった。これが水彩とかだったら朝の一時間でなんとかなるもんじゃない。

 誰か登校してきたら、学校に課題忘れたことがバレて少し恥ずかしいので、部室で描くことに決めた。

 絵は好きじゃないし上手くもない。とにかくうめて、出す!

 部室に入ろうとしたら、中から誰かの声が聞こえてきた。

 えっ?! ここは密会に有名な場所だけど……ひょっとして朝から誰かいるのか……? とドアを少し開いてみたら、そこにいたのは吉野さんだった。


「?!」


 吉野さんは窓を開けた状態で、椅子に座っていた。

 こんな朝早くから何をしてるんだろう……と思ったら、リコーダーを手に持って課題曲の練習を始めた。

 弾いていたんだけど、裏側の穴が上手に押せてないのか、プポーと音が抜ける。

 吉野さんは笛を見て、


「あれ? ちょっとまって。押さえてるよね? もっかい」


 と練習を再開した。

 そうか、家だと音が出て練習しにくいから、ここでしてるのか。

 というか音楽も今日テストだった。俺も課題曲怪しいな。

 吉野さんは俺より全然うまい……けど、親指の押さえが甘いのか、再びプピーと高い音になっている。


「あれーー?」

「……吉野さん、おはよう」

「?! 辻尾くん、ぎゃーーー、なんで?!」

「……美術の課題学校に忘れてった」

「あはははは!! それはやばい」

「吉野さんはリコーダーの練習?」

「そううう……もうこれすっごく苦手で、でも音が出るでしょ?! 友梨奈はすっごく上手で、家で弾いてると『お姉ちゃんヤバい』って自ら弾いてみせてくるからイヤで、いつも練習場所に困ってて。部室があるようになってからたまに借りてるの」

「そうだったんだ。うん、練習続けて。俺も描くから。ヤバい」

「うるさくない? 下手じゃない?」

「全然。正直俺もヤバい。これ早く描いてリコーダー教室から持ってくる」

「……うん。じゃあ頑張ろ」


 俺は美術の課題を進めて、吉野さんは窓際でリコーダーを吹いた。

 朝の気持ちがよい風に吉野さんが吹く音楽が流れてくる。

 すぐ横の野球部が声をかけながら練習をしていて、青空がキレイだ。

 なんだかさっき宇佐美に会ったことが嘘のように気持ちがいい。

 俺は鉛筆を走らせながら、


「……実はさ、朝ホームで宇佐美に会ったんだ」

「え。あの影でこっそり言ってた宇佐美さん?」

「そう。普通に話しかけてくるからイラッとした」

「そうだよ、もっと怒っていいよ!」

「自然と昔言いたかった言葉が言えた。人に怒ったことなんてほとんどないからすげードキドキしたけど、なんだかすっきりした」

「……良かった」


 そう言って吉野さんは「えへへ」と笑い、俺の横に座り、手を握ってきた。

 窓際に座ってリコーダーを吹いていたからだろうか、冷たくてひんやりとした細い指。 

 朝の風で吉野さんの髪の毛が正しく揺れる。銀縁のメガネをした学校の吉野さん。

 唇は昨日みたいに口紅を塗って無くて、リコーダーを吹いてたこともあって何も塗られてない素の唇。

 メイクも何もしてないのに正しく美しくて、俺は吸い寄せられるように手を引っ張った。

 吉野さんの髪の毛が風に揺れて、こっちを見て微笑む。

 その時廊下をパタパタと歩く音が響いてきた。


「!!」


 俺と吉野さんは秒で離れた。

 扉が開いて、


「陽都ーー! 下駄箱に靴があったからここだと思った。なあ、美術の課題終わってる?」

「……中園も一緒か」

「持ち帰るの忘れてた~~。あ、吉野さんも美術?」

「私はリコーダー。下手なんだけど練習してていい?」

「俺なんて全然弾けないから全然オケ、気にしないで。んで陽都、お前これ、花瓶? 土偶?」

「人物スケッチです」


 俺と中園は「おめーのが下手だ」「おめーなんだそれ」と騒ぎながら課題を描いた。

 吉野さんが吹くたまに「プピー」となるリコーダーを聞きながら。

 朝からどんな嫌なこともあっても、友達と好きな子がいれば、それだけでいい。

 ……部室でイチャイチャはまた今度朝早くきてチャレンジしようと俺は心に誓った。それより吉野さんが中園の前でも少しリラックスしているように見えて、それが嬉しかった。


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