第27話 息をするために(吉野視点)

 ああ、またここで溺れている。

 私が口を開くと、ポコリと泡がのぼっていった。


 ここは漆黒の海。

 ポコポコと上がっていく泡をただ見ている。

 身体がどんどん動かなくなって海に沈んでいく。

 でも横を見ると、友梨奈もお母さんも、海の中で楽しそうに泳ぎ会話しているのだ。

 私には何も聞こえない、私は海の中で生きられない、でもここで生きていかなきゃいけない。

 だから必死に水面に顔を出して息を吸い込んで、再び海に戻る生活を続けている。

 だって私はここで生きていかなきゃいけない。

 この家に生まれてきた人間の『それが普通』。 

 だって友梨奈もお母さんも普通に泳げているんだもん。

 電車の中でウトウトしていたら、いつもの悪夢を見て驚いて起きた。


 ……ダメね。この思考がダメにしてるって、辻尾くんが教えてくれたのに。


 この話でいえば、私だって泳ぐのは嫌いじゃない。

 ただずっと水中で息ができないだけ。


 電車を降りてバス乗り場に向かいながら、私は思った。

 今日は体育祭だったから帰宅時間が読めず、バイトを入れられなかったから、まっすぐ帰る。それに朝が早かったから疲れた。

 私は体育祭の荷物を抱えて、バスに乗り込んだ。

 すると赤ちゃんを抱っこした状態で、小さな子と手を繋いだママが乗車してきた。

 二人がけの席に座り、赤ちゃんと小さな子どもは楽しそうに騒ぎ始めた。

 声が大きくて、お母さんはそれを注意するが、ふたりは一向に静かにならない。

 それを誰より厳しい目で見ているのは他の子連れのお母さんたちに見えた。


 世界は自分が出来ることが、他人が出来ないと想像することが難しい。

 特に自分が簡単にしていることを、他の人ができないと思えないのだ。

 水中で普通に息が出来るひとは、出来ないひとのことなど考えない。

 だって自分は出来るんだもん。

 友梨奈もお母さんも、なんならこのバスに乗って子どもたちを眉をひそめて見ている人達も同じだ。

 バスが発車して私はスマホを開いた。そこにはバイトに行った辻尾くんからLINEが来ていた。


『店長が頑張った吉野さんにカレーをご馳走したいって言ってるんだけど、大丈夫? めっちゃ辛くて鈍器なんだけど』 


 鈍器のようなカレー? ちょっとよく分からないけど、私は辻尾くんのお店の店長さんが好きだ。

 中学生の娘さんがいるパパさんで、この前も写真をたくさん見せてくれた。

 でも店長さんはたぶん……ちょっと? 堅気じゃない? のかな?

 お仕事してる時にまくり上げた腕に大きな切り傷が見えた。

 普通に暮らしていて、あんな風に腕にザパッと切り傷は残らないんじゃないかしら。 

 でもあの写真事件の時も「まだあの店で働きたいか、そうじゃないか、決めるのは紗良ちゃんや。やめろっていうのは簡単だけど、そうじゃないから、ここにいるんだろ」って言ってくれた。

 見えてないことを想像して話をしてくれる人。

 私は返信を打ち始める。


『辛いカレーは大好き! 頭がシャキッとするもん。週末のお昼、辻尾くんのお店で食べたいな』

『えー? 本当に大丈夫? とりあえずオッケーって言っておくよ』


 私は辻尾くんからの返信を指で撫でた。

 画面に触れたことで、少し平らに、そして冷たくなった指を自分の唇に触れさせた。

 ……突然キスされて、すごく驚いた。

 辻尾くんが学校でそんなことするなんて。

 ううん、きっと私、どこかでずっとこれを待っていた。

 嬉しくて嬉しくて、私も辻尾くんにキスして気がついた。


 私は穢して欲しかっただけじゃない、共犯者がほしかったんだ。

 私と一緒に罪を犯してくれる男の子。 

 私はもうひとりじゃないの。


 気持ちが吹っ切れて、横に辻尾くんがいるのもあって、お母さんに「食事は苦手」って伝えちゃったけど、ひとりになると「あんなこと言って大丈夫だったかな」と思ってしまう。

 でも辻尾くんが横にいてくれるようになってはっきりわかった。

 私の世界と、友梨奈とお母さんの世界は全然違う。

 見え方も感じ方も違う。


 ううんきっと、同じ世界に生きてるけど、全部感じ方が違うんだ。


 私には居心地が悪い家。でも友梨奈には快適な家。お母さんにとっては仕事場の一部かもしれない。

 同じ食事を取っているけど、友梨奈は食べるのが面倒だと言う。錠剤ひとつでお腹が膨れたらいいのにっていう。

 勉強したいことがたくさんあるし、会いたい人もたくさんいる。だから食事が面倒だって。

 お母さんは食事は他の人と話しながらするものだと言っていた。

 私はご飯と味噌汁をゆっくり食べたい。

 たったひとつ、食事をとっても、私たちはこんなに違う。

 だったら私が「こう思ってる」ことなんて、言わなかったらお母さんや友梨奈に伝わるはずがない。

 怖くても、辛くても、少しずつ、自分の気持ちを伝えていかないと、私はこのままここで潰れて死ぬ。



 家に帰るとまずはご飯を炊いて、お風呂を洗って洗濯物を取り込んで、冷蔵庫を覗く。

 お母さんは普通に料理をする。いつも作ってくれるお弁当も美味しいし、なるべく仕事を持ち帰って家で晩ご飯を作ってくれている。

 だから冷蔵庫にはある程度の食材が入っていて、それは何を使ったか伝えればそれで良い。

 お腹がすいたから……と私は豚肉を取りだして野菜と一緒に炒めて、味噌汁はインスタント、そしてお豆腐を冷や奴で食べた。

 話し相手もいないけど、私はこのほうが気楽だ。片付け終わった頃、お母さんと友梨奈が帰って来た。


「お姉ちゃん、ただいまーー!」

「友梨奈お帰り。あら、それお洋服?」

「うん、たっくんが私に買ってきたの。ていうか服をくれる男子についてお姉ちゃんはどう思う?」

「うーん。俺色に染まれ?」


 友梨奈はパチンと手を叩いて私を指さした。


「そうなのよ! ちょっとそれってめんどくさくない? どー思う?」

「友梨奈に着て欲しかったんじゃない?」

「そりゃそーだけどさあ~~。ねえお母さん、私たっくんダメだったら普通に別れるからね」


 そこに手を洗ったお母さんが来て、


「ちゃんと話したの? どんな理由があって服をくれているのか聞いてみればいいじゃない」

「確かに~。んじゃ聞いてみる」


 そういって友梨奈はすぐに婚約者に電話しながら部屋に消えていった。

 なんというか……友梨奈は本当に強い。そもそもあの食事会で出会った人ということはお母さんの仕事関係者なのだ。

 その人と付き合うということは、個人的にもう逃げられない、別れられない気がする。

 でも友梨奈は違う。そこにいる『人』として自分に合うか合わないかで選択しているだけなのだ。

 あそこは友梨奈にとって普通に出会いの場所。なんだか世界が違いすぎて驚いてしまう。

 お母さんは私の前に小さな箱を出してくれた。

 開くとそこにはプリンが入っていた。


「お店で出たものを買ってきたわ。今日頑張ってたし」

「……ありがとう」

「紗良プリン好きでしょう? だからどうぞ」


 言われて食べ始めると、それは本当に美味しいプリンで食後のデザートして最高だった。

 お母さんはスマホを見ながら、


「藤間さんが紗良のためにお店を予約してくれたから、それだけでもと思って買ってきたわ」


 心臓がドクンと痛む。

 やっぱり行かなかったことをチクチクと言われる。 

 でも私は、それが嫌だって、ちゃんと言わないとダメ。

 小さく息を吸い込んで顔を上げる。


「私ね、お母さんの仕事関係の人と食事するのは、ちょっと苦手なんだ」

「本当にそうなのね。食事の何が嫌なの?」

「話しながらより、ゆっくり食べるほうが好きなの」

「ゆっくり食べる気楽さも分かるけど、就職したら、誰かと食事なんて日常よ。仕事先の人とも食事が嫌とかいうつもりなの」


 私はスプーンを握った。

 言う、ちゃんと言う。

 そうしないと何も伝わらない。


「お母さんの仕事先の人で、私の仕事先の人じゃないから」

「あ、そうね。その通りだわ」


 お母さんはあっけらかんと頷いた。

 それは本当に「ああそうね」という簡単な表情で、そこに私に対する憎しみなどは見えない。

 その表情に私は少し驚いてしまう。

 もっと……厳しく文句を言われると思った。

 それでも来いと、私の仕事相手の人をないがしろにするなと言われるのだと思った。

 言われ、ない……、の?

 心臓がバクバクと大きく脈をうって息が苦しい。

 ダメだ、言い慣れてないのは私のほうだ。

 お母さんは上着を脱いで、


「お母さんは人生はすべて出会いで決まると思ってるの。色んな人に会って接していくのは人生において損はないわ。今度お寺で奉仕清掃があるから一緒にどう? それなら平気?」

「あっ……はい……」

「紗良にはもっと世界を広げてほしいと思ってるの。とりあえず先にお風呂入らせてもらうわね」


 お母さんはそう言って台所から出て行った。

 世界を広げる……気を遣いすぎる私にそれほど向いていると思えない。

 お母さんに意見したことなんて無くて、息が苦しくてクラクラする。それでもちゃんと自分の意志を伝えられた。

 今までずっとただ顔色をうかがっていた。それは友梨奈と比べて出来てないと思ってたから、少しでも役に立ちたくて。

 ここから少しずつ、少しずつ、私の気持ちを言葉にしていく。

 スマホを取りだして辻尾くんとのLINE画面を開いた。

 頑張るから一緒にいてほしい、私を甘やかして?



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