第24話 体育祭ーそして

「吉野さん、帽子のカゴ、午後のために荷物置き場に置くらしいよ」


 ぼんやりとした動きで籠を倉庫に片付けようとしていた吉野さんに三年生の人が話しかけた。

 吉野さんはハタと立ち止まって顔を上げた。


「あっ、そうでしたね、すいません」

「大丈夫? 疲れちゃった? 400mすごい速かったねー!」

「ありがとうございます」


 吉野さんは籠を持って荷物置き場に移動し始めた。

 さっきまで一緒に一年生の障害物競走を手伝っていたんだけど、吉野さんはぼんやりしていて、びっくりするほど抜け殻になっていた。

 ただグラウンドに座っているだけで全く動けず、力もなく、俺が視界に入ると慌てて笑顔を作るが持っていた帽子を籠に入れなきゃいけないのに、そのまま手に持って座り込み……明らか変な状態になってしまった。

 俺は荷物置き場横のベンチに力なく座り込んでしまった吉野さんを横目に、作業を続ける。

 正直めちゃくちゃキツそうだ、と思ってしまう。

 母親と妹と婚約者が来ていて、どうしても一番にならないといけない状態。

 走るのも嫌いだって、あんなにはっきり宣言するくらいイヤでも走った。

 後方に差をつけて圧倒的な状態で、ちゃんと一位になったんだ。

 今日の仕事は全部終わった、あとはこの会が終わるまで……と思っていた矢先の出来事だった。

 それに先生に悪意は無い。いつも頑張ってる吉野さんをむしろ讃えているつもりだと思う。

 頑張ったら、その先に、当然のように次のハードルを準備されて、それを飛ばないといけない世界。

 幸いにもこのタイミングでお昼休憩に入るので、吉野さんに休憩を取らせてあげられそうだ。

 俺は作業を全部終えて、ベンチに座り込む吉野さんの前に座った。


「大丈夫? お昼だから、お弁当食べようよ」

「……お腹すいてない。だって走るなら、食べない方がいい」

「吉野さん。リレーは15時からだから、今食べても問題ないよ。むしろ今食べるくらいが丁度いいよ」

「お腹すいてないの。何も食べたくない。食べたら吐いちゃうかも。朝からずっと胃が痛いの」

「とりあえず……準備室は人が多いからさ、ここでいいや、荷物置き場の奥にベンチあったから、そこに座ろう。鞄持ってくる」

「……辻尾くん、ごめんね、ありがとう。休ませてくれると助かる」


 そう言って吉野さんは荷物置き場の中に入り、置いてあった……たぶん三年生の障害物競走に使うんだろう……ベンチに座り込んだ。

 俺は委員会準備室に走り、吉野さんの鞄と自分の鞄を持って戻った。 

 荷物置き場は冷房がなくて、少し暑かったけど半地下ということもあって、空気はひんやりしていた。

 クーラーが効いた委員会準備室でゆっくりお弁当を食べたいと思ったけど、そんな状況では無くなってしまった。

 俺が戻っても吉野さんはさっきと何も変わらす、薄暗い荷物置き場の中で、荷物に隠れるように、もうその一部のように、お腹を抱えるような状態で頭を床に近い状態にして、丸まっていた。

 俺は横に座って声をかける。


「……大丈夫? こういう状態には、よくなるの?」

「なる。しょっちゅうね」


 吉野さんはお腹を抱えた状態で目だけ開いてはっきりと言った。

 そして続ける。


「未来を予想する、嬉しいことも、悲しいことも予想する。悲劇は避けたい、だからそうならないように努力するじゃない? 失敗なんて出来ないもん、努力して努力して頑張って、やっと終わる、なんとかなった、終わった、やり遂げた、今回はミスしなかった、もうこれで終わり。やっと息ができたその後に、それ以上のことが起きる。アンカーなんてやりたくないよ、うちのチーム逃げ切りじゃん。熊坂さんだからギリギリ逃げ切ってたのに、無理だよ、出来ないよ、絶対抜かれちゃうよ。……お腹痛い。胃薬持って来てるから、鞄、もらっていい?」

「ああ、これ?」

「うん。たまにもう立てないくらい胃が痛くなるから持ってるの。うーん……お茶でいいや」

「俺常温の水持ってる」

「あ、助かる。ごめん、もらうね、あとで返すから」


 そんなのどうだっていいのに、吉野さんはすぐに気をつかう。

 吉野さんが薬と言って鞄から取りだしたのはクッキーの缶だった。それはクマのキャラクターで有名な遊園地の絵が描いてあるものだった。

 かわいらしい缶を開けると中には薬が入っていた。吉野さんはそれをベンチにひっくり返して、中から薬を選んで、飲み込んだ。

 そしてぶちまけたそれをひとつひとつ可愛らしいクッキー缶の中に押し戻した。


「……辻尾くんがいると、弱くなる、甘えたくなる、ごめんね、こんなの私じゃない、ちゃんとしなきゃ」


 そう言って吉野さんは顔の真ん中にある手を震わせた。

 薄暗い荷物置き場の中、斜めに入ってきている光が吉野さんを斜めに切り取る。

 外からの音も聞こえない、荷物に囲まれた小さな空間で吉野さんはどうしようもなく壊れて小さくなって震えていた。

 俺はその言葉を聞きながら、全部違うとまっすぐに思った。


 だって吉野さんは……。


 俺は吉野さんが顔の真ん中で強く握っている腕を握り、顔の中心から退かした。

 そこにはクシャクシャになって大粒の涙をこぼしている吉野さんがいた。

 目からボロボロと止めどなく涙が落ちていく。

 それは突然降り始めた夏の豪雨のように、まだ太陽が出ているのに降りはじめた雨のように大粒で。

 長いまつげが涙を弾いて、頬に落ちる。



 今、あの時の言葉の意味がわかった。



 俺は吉野さんの腕を引っ張って、反対側の手で吉野さんの顔に触れた。

 細くて冷たい髪の毛、ザワリと掌に触れて、そのまま引き寄せて、吉野さんの唇に自分の唇を触れさせた。


「……?!」


 俺が掴んでいる吉野さんの腕がビクンとなった。

 目の前にはドロドロに泣いている吉野さんが驚いた表情で俺のほうを見ている。

 俺はそのまま吉野さんを抱き寄せた。


「……吉野さんを今、俺が穢した」

「……」

「吉野さんは、学校でキスするような子じゃない」

「……っ……」

「吉野紗良さんは優等生で頑張り屋さんで、どんなことを頼まれても笑顔で引き受ける子だ」

「……うん」

「みんなそう思ってるし、その吉野紗良を、吉野さんは完璧に演じているし、実際そういう子だ」

「うん……」

「その吉野さんを、今俺が穢した」

「…………っ」

「吉野さんは学校でこっそりキスするような、こんな狭い部屋で、汚いところで、男に抱き寄せられるような女の子じゃない」

「うんっ……うんっ……」

「だからもう、吉野さんは違う吉野さんになった。ここにいるのは誰も知らない吉野さんだ、悪い子の吉野さんだ」

「悪い……あははっ……なにそれ、なにそれ……なにそれっ……なにその理論っ……わけわかんないんだけど、なにそれ」


 俺はもう一度吉野さんを強く抱き寄せる。

 身体が震えているからだ。震えて小さくて、細くて、こんなに細いのに、ずっとずっとひとりで走ってきたんだ。

 俺は続ける。


「吉野さんが穢してほしいって言ったとき、意味がわからなかった。でも今なら分かる。吉野さんは違うことをして、少しでも違う自分になりたいんだ。俺は違う吉野さんを知ってるよ。何も助けられないけど、違う吉野さんに俺が出来るなら、俺は知ってるし、ここにいるから、ああ上手に言えないな」

「大丈夫、わかる……」

「もう違う吉野さんだから、大丈夫」

「……あははははっ……もう、辻尾くんメチャクチャだよおお……そんな変な慰め方……はーー、もうヤダー、いつ終わるんだろー」


 肘を曲げた状態で手をだらんとして、ただ上を向いて泣く吉野さんを俺はただ抱き寄せた。

 なんかもう、本当に小さな子どもを抱き寄せるように、泣きじゃくる子どもを落ち着かせるように、ただ背中や頭を撫でた。

 吉野さんは身体全体を震わせて何度も何度もずっと泣き続けて……半地下から見えるグラウンドに人が出始めたのを見て、息を吐いて目を閉じた。


「……すっごい泣いた」

「そうだね、すっごい泣いたね」

「すっごい泣かされた」

「いや……吉野さんやっぱりメチャクチャに泣き虫なのでは……」

「すっっっごい、な、か、さ、れ、た!!」

「うん」


 元気になってきたのが嬉しくて俺は吉野さんを見て目を細めた。

 すると吉野さんが俺のほうにスッ……と近付いてきた。その表情は、さっき泣いていた吉野さんじゃない。

 いつもの学校の冷静で優等生な瞳で……。

 俺の顔に向かってゆっくりと白い手を広げて近付いた来た。目の前に白い花が咲いたような空間に息を飲む。

 そしてゆっくりと顔を近付いて、優しく……さっき俺がしたみたいじゃない、甘く、ゆっくりと俺にキスをした。

 柔らかい唇が、優しく俺の唇に確かめるように触れて……目を開くと、俺をまっすぐに見ている吉野さんがいた。

 その瞳は涙で潤んでいて、真っ赤で、それでいて強く、どこか甘美で。

 そして濡れた唇をゆっくり開いて、

 

「もっと好きになって。私をもっと好きになって、どうしようもないくらい好きになって」

「……うん」

「辻尾くんの前で新しくなっていく私をずっと見てて」


 そう言って吉野さんは俺のおでこに、自分のおでこをトン……とぶつけた。

 同時に吉野さんのお腹がぐううう……と鳴った。俺たちはおでこを合わせたまま、爆笑した。

 吉野さんは鞄を引き寄せて、


「実は朝400mあるから、朝から何も食べてなかったの。お昼にたくさん食べようと思って、すっごくたくさん持って来たの」

「……俺も母さんが特性お稲荷さん作ってくれたから、一緒に食べようと思ってた。炒り卵とゴマと紅ショウガが入ってるんだ」

「なにそれ、すっごく美味しそう。食べたいっ」

「吉野さんが泣くから、もうあと15分しかないよ」

「辻尾くんが毎回泣かすんですー、私は悪くないんですー、辻尾くんのせいなんですー。ね、私、目真っ赤じゃない? ヤバい、こんなのダメだよ、泣いたってばれちゃう。あっ、目薬あるからさそうっと」


 そう言って吉野さんは鞄の横ポケットから目薬をだしてさした。

 そして、お弁当箱を広げて俺に見せてくれた。


「じゃじゃーん、今日は自分で作ってきた」

「えっ?! 自分で作ったの?」


 そこにはラップで包んだ卵焼き、カラフルなアルミホイルに包まれたおにぎり、たこさんウインナーにピック付きの唐揚げが入っていた。

 吉野さんは小さく首を振り、


「期待しないで。普通のことしか出来ないの。いつも自分で食べるものを適当に作ってるだけで、人に食べさせるは想定してないの。だから味はすっごく普通だと思う」

「いやいや、俺なんて100%母さんの手作りだから、料理してること自体に感心する」

「お母さんは普通に料理するんだけど外食して打ち合わせが多いの、だから結構自炊もするんだ。でも食べやすさ重視であんまり可愛くないんだけど、どうぞ」


 そう言って吉野さんはお弁当箱の中からラップで包まれてお団子のようになっている黄色の塊を俺にくれた。

 それを開いて口の中に入れると、


「……甘い」

「甘いのが好きで砂糖もみりんも入れてるの」

「美味しい。なにより……吉野さんが作ってくれたものを食べられるのが嬉しい」

「私も辻尾くんと食べられて嬉しい。それにね、さっきまで逃げ出したいって思ってたけど、今は走れる。走ろうって思えてる」

「そっか。うん、たくさん食べて、走ろう」

「うんっ!」

 

 そう言って吉野さんは眉毛を下げて、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 俺と吉野さんは持って来たお弁当を全部食べて廊下に出た。気持ちがよい風がふわりと吹いて、吉野さんは顔を上げた。

 もうそれは、すぐそこのベンチで呆然としていた吉野さんとは別人で、それが俺はとても嬉しかった。


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