第4話 吉野さんの事情と契約の時

 トイレに行くついでに壁にかけてあった時計を確認したら、バイト開始時間まであと30分だった。

 俺は猛然と走れば5分で戻れるけど、吉野さんはバイトの服に着替えもあるし、そう簡単じゃないだろう。

 席に戻りスマホ画面をトンと叩いた。


「着替えとかあるよね? 何時に戻ればいい?」

「……そんなこと気にしてくれるんだね、ありがとう」

「いや、女の子の着替えって時間かかるから」


 ミナミさんは昼はお堅い会社でOLさんしてるのに、夜はおっぱいカフェで働いている。

 更衣室に来るときは黒スーツにメガネ黒髪なのに、一気にキャミソール姿のお姉さんに変身するんだけど、それには30分以上かかると言っていた。

 吉野さんは横の席でえへへと笑い、


「パーッと脱いで着るだけだけど、ウイッグが取れないように着替えるから15分前には出たいかも」

「了解。じゃああと15分くらいかな」

「……こんな風に私の時間を気にしてくれるの、嬉しいな」

「いやいや、いつまでも話しちゃいそうだったから」


 そこまで言って、俺が吉野さんとずっと居たいと自ら告白してしまったことに唇を噛んだ。

 そんな俺のことは全く気にせず吉野さんはゴールドのアイシャドーが乗っている目尻を下げて、


「わかる! 今すっごく楽しいよ。あのね、辻尾くんの『頑張った記憶』ってどこが最初?」

「ええ? 頑張った記憶……?」


 突然何のことだろうと思いつつ、自分の顎を持って思い出してみる。

 頑張った……明確に覚えているのは……。


「小学校の頃、白米食べたあとに飲まされる牛乳が嫌いでさ」

「あーー、わかる。よく考えると小学校の時しかしてないよね、あれ」


 そういって両手をパチンと叩いて笑うと今日は長い吉野さんの黒い髪の毛がピョンと跳ねた。

 動きのひとつひとつが可愛くて、少し近づいて話す。


「飲まないと昼休みなし! って言うから、一気に飲んだ。それが最初かなあ」

「昼休みに残って食べてる子、いた! あれイヤだよねえ。私の最初の頑張った記憶は幼稚園のお遊戯会でね、私は主役だったの。でも私、あの頃から歌がすごく嫌いで」

「……今も?」

「そう、今も! もう全然好きじゃないよ。去年の合唱コンもすごくイヤだった。音程合ってない気がするの。主役をした幼稚園の時『絶対に失敗できない』『みんな見てるんだから』ってすっごく頑張ったんだ。毎日家でお母さんと練習してね」

「ああ、ああいうのって親のが張り切るよな。うちも家族総出で見に来てビビった」


 小学校の時の発表会に、父さんも母さんもばあちゃんもじいちゃんも、その弟まで居て、一体何なんだ? と思ったのを覚えてる。

 ばあちゃんがすんげー高そうな着物着てきてて、担任の先生が驚いてたなあ。

 吉野さんは口元を押さえて目を細めて、


「そう。家族のが頑張るよね。でも私は苦手で……。いつも見に来られないお父さんも来るって事になって、お母さんが更にヒートアップしちゃって」

「あー……なるほど」

「……私のお母さんは市議会議員なの。元々お父さんが議員さんだったんだけど、地盤を引き継いで当選したの」

「えっ、マジで?」


 そんなこと知らんかった。吉野さんはスマホを解除して写真を見せてくれた。

 そこには大きな会場で演説をしている美しい人……その右側に吉野さん。左側に妹さんだろうか、そっくりな可愛い人が立っていた。

 大きなホールの真ん中でライトを受けて話したり、ご高齢な人と手を繋いで笑顔を見せている……そんな写真が無限に出てきた。

 吉野さんがスマホを机に置いて、


「テレビとか出てるわけじゃないからクラスメイトはあんまり知らないけど、教育関連の仕事も多くて、校長先生も知り合いなの。学校の先生たちもみんなそれを知ってる」

「げ」

「『げ』でしょ。マジで『げ』。お母さんがそういう関係で有名人だからさ、私は絶対に『超しっかりしてないとダメ』なの」

「……だからあんなに優等生で勉強もして生徒会までキメて、あげく先生の奴隷までしてんのか」

「奴隷笑う! いや自分で言ったんだけどね。学校での生活は全部お母さんに知られてると思う。しっかりしたちゃんとした娘。その評判は絶対に崩しちゃダメ」

「そうなの、か……?」


 そんなのめちゃくちゃ息苦しいと思うんだけど。

 吉野さんはカランとストローで氷を回して、


「お母さんは昔は普通の主婦だったんだよ。でもお父さんの願いを引き継いで、すごく頑張って今の地位まで来てるの。今は国会議員になるために色々頑張ってる。それを横で見てたから、私は絶対に邪魔したくないの。優等生を演じなきゃ……と思うより、お母さんの今までの頑張りを邪魔したくない気持ちのが大きいよ。妹ほど優秀じゃないけど、邪魔だけはしたくないの」


 そう言って吉野さんはコップの残っていた氷をガリッと噛んだ。

 じゃり、じゃり、とかみ砕く音が響いて、吉野さんは口を開いた。


「家でもしっかりしてなきゃいけなくて息苦しくて、早く家を出たいの。そのためにお金貯めててバイトしてる感じ」

「一人暮らしするために?」

「そう。許して貰える気がしなくて……。でも絶対出たいから強引に出るつもり。そのためのお金」


 聞いていてやっと納得ができた。ここは高校生がバイトしにくるには、リスクが高い場所だ。

 酔っ払いが絡んでくるし、詐欺も変態も山ほどいる。

 それでも女子高校生はトップランクの価値があって、現役だと特にバイト料が高い。

 優等生の吉野さんがどうしてこんな所でバイトを……? と思ったけど、家を出たいからなのか。

 俺は髪の毛を見て、


「でも家で変装したら、さすがに色々バレない?」

「えへへ~~。家族がトランクルームを借りてるの。昔の荷物がメインでみんな存在を忘れてるんだけどね。そこの奥のほうにこっそり置いてて……ほら、見て」


 見せてくれた写真には棚が映っていて、カーテンらしきものが見えた。

 その奥の衣装ケースに隠されるように服やウイッグ、それにメイク道具が置かれていた。


「なるほど、家にはいつもの服装で帰って、ここで変身してるのか」

「そう。最初は普通のお弁当屋さんでバイトしてたんだけど、時給悪すぎて、あと勉強も手を抜けないから、そんなに長く働けないし。でも最初に必要なお金だけでも早く貯めたくて」

「わかる。時給が低いとマジで稼げないよな」

「そうなのーー。もう無理! って思って今の女子高校生派遣のところ見つけたの。まあ制服はちょっとアレな所が多いけど、変身するお金も稼げるし楽しいよ」


 そう言って吉野さんはスマホをポケットに入れた。

 あ、もうそろそろ時間だ。楽しい時間はマジで秒で消えて驚く。

 授業中は全然時間が進まないのにな。

 吉野さんはバッグを手に持って、


「いつもキチキチしっかり。道から外れないように誰に見られても大丈夫な私でいるけど……今日学校で、こっそり素の自分になったの、ものすごく興奮したの」

「……おう」


 興奮。そんな言葉を吉野さんが言ってる時点で興奮してしまう俺はマジで安い。

 吉野さんは俺のほうを見た。

 ゴールドのアイシャドーが塗れている瞳は少し潤んでいて、引き寄せられるように目が離せない。

 温度を感じて自分の太ももを見ると、そこに吉野さんの手が置かれていた。

 細くて長い指。

 ……ちょっと、あの。

 身体がビクリとしてしまうがなんとか耐える。


「本当の私をしってる辻尾くんにお願いがあるんだけど」


 吉野さんは俺の太ももに置いた手に体重を乗せて、グッ……と近づいてきた。

 艶々とした口紅が塗られた唇が開く。


「たまにああやって学校で私をけがしてくれないかな」

「……穢す?」

「触れて、近づいて、私を私にしてほしい」


 そう言って吉野さんは俺の太ももの上でツイと指を立てた。

 やばい、これはかなりヤバい。

 俺は唾を飲んだ。

 吉野さんは目を細めて視線を逸らして小さくむくれる。


「学校は私にとって、絶対に悪いことしちゃダメな所だからこそ、だめなこと、こっそりしたい。ダメって、何もエッチしたいとかじゃないよ」

「お。おう、おう」


 俺はさっきからキョドって「おう」しか言えない。


「学校でこっそりと素の自分になりたい。それってお母さんに勝ったみたい」


 お母さんに勝つ……?

 学校で素になることと、勝利の関係性がよく分からないけどコクンと頷く。

 吉野さんは俺の目をまっすぐに見て続ける。


「私のこと全部しってる……秘密の親友になってくれないかな?」


 秘密の親友。

 その響きがなんだか甘美で嬉しくて、コクコクと頷いた。


「俺なんかでよければ全然。俺も今日なんかすげードキドキして、嬉しかったし」

「良かったーー。学校と外で違いすぎて、ドン引きされてるかと思ってたー、良かったー」


 そう言って「はあ」と力を抜いて両肩を下ろした。

 そして眉毛もフニャリとさせた笑顔を見せた。

 さっきの妖艶な表情とは別人みたいで、ドキドキして息が苦しい。

 吉野さんは右手の小指をピンと立てて、


「秘密の親友、指切りげんまん?」


 と小首を傾げた。長い髪の毛がさらりと肩から落ちる。

 俺は唇を噛んで手を持ち上げて、小指を立てて、ゆっくりと吉野さんの細すぎる小指に近づいた。

 その奥には潤んだ真っ黒な瞳で見ている吉野さんがいる。

 絡めるように吉野さんの小指に、自分の小指を巻き付けると、キュッと吉野さんの小指がきつく俺を抱き込んだ。


「裏切っちゃダメよ? 約束なんだから」


 そう堅く結んでからパッと離して、吉野さんは立ち上がった。

 俺たちは会計を済ませて店の外に出た。吉野さんは「じゃあまた明日ーー!」とカフェに消えていった。

 俺の右手小指は、まだじんじんとしびれていて胸がドキドキと高鳴りすぎて息が苦しい。

 ほぼ叫びながらバイト先に戻った。

 


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