第488話 征服されえぬもの

【地中海】


世界が、とてもちっぽけだった。

テュポンの名を持つ存在は考える。どうして自分は生まれてきたのだろう。自分はオリュンポスの神々を滅ぼすために生まれてきたはずだ。しかしその神々はすでに疲れ切り、打ちのめされ、ボロボロになっている。こんな奴らを倒したところで何の価値があるのか。たったいま、地中海中から撃ち込まれた攻撃はテュポンにかすり傷一つ与えることができなかったのだ。

足元を見下ろす。テュポンの広げた翼は大地と海とに影を落としている。そこだけが闇に包まれているのだ。何十キロメートルという範囲が、丸ごと。

もし宇宙から見下ろせば、異様な光景を目にすることとなったろう。都市が輪郭でしかとらえられないような視界の中で、明らかな単一の構造を持つ存在がいる様子がはっきりと視認できたであろうから。島や大都市や山脈と並ぶのが、テュポンなのだ。

山の大きさしかないヤマタノオロチやギガースなどとは桁が違う。

だが、それでも宇宙の端から端まで手が届いたという神話にはとても及ばない。そのことに、テュポンは気が付く。何故だ。己は宇宙に比肩する存在ではなかったのか。世界は小さすぎるのではなかったのか。神話は嘘だったのか。

この存在に不意に沸いてきたのは怒りだった。自分を宇宙最強の存在と謳いながらも、こんな大きさで具象化させた人間たちの中途半端な想いへの。

己の矮小さを自覚した超越者は、怒りの拳を足元へと振り下ろした。

地面に拳が到達するまでに発生した衝撃波だけで、途方もないエネルギーが広がりつつあった。あまりのパワーに真空状態が発生する。拡散する威力は大地を砕き、同心円状に広がっていく。大陸のプレートが砕け散る。

そのままであれば、半径百キロが破壊し尽くされ、1000キロの範囲が今後数世紀にわたって深刻な震災の頻発する人が住めない世界へと変わっていただろう。

そうならなかったのは、生き残っていた神々が総力を挙げて展開した結界の力であった。地の底から天空にまで届く球形の壁が、破壊の力を内側に封じ込める。

この時点でようやく、テュポンは神々へ興味を向けた。邪魔をするのか。そんなにちっぽけなくせに。

神々の中からひとり、いやふたりが前へ出る。腕が三百もあるちっぽけな巨人の頭上に立つ神がこちらを見上げた。こいつらは戦うつもりなのだ。テュポンと。

この時点でようやく理解する。自分はこいつを滅ぼすために生み出されたのだ。神王ゼウスと戦うために。

右腕を振り上げる。一直線に、ちっぽけな―――己の十分の一ほどしかない百腕巨人ヘカトンケイルへと振り下ろす。その速度は、音速の三十倍にも及んだ。大気が摩擦でプラズマ化する。真空が発生する。

地中海が破局に見舞われるだろうエネルギーが、炸裂した。


  ◇


自らへと迫る拳を見上げ、神王ゼウスはただ心を穏やかに保っていた。

消耗した今のゼウスとブリアレオスの力でこいつを倒すことは不可能だ。万全であったとしても困難を伴うだろう。まともに渡り合ったとして、どう転んでも勝ち目はない。

だが、大した問題ではない。こいつを滅ぼす力を自分たちで捻出する必要はない。全能たる神王であるゼウスはあらゆる神の権能を扱うことができる。復讐を司る神々の力であってもだ。その権能を持って、テュポンが振るった破壊の神力をそのまま跳ね返してやれば、勝てる。

だから必要なのは生き延びること。

ブリアレオスが300の腕を振り上げた。迫る攻撃をクッションのように受け止める構えだ。何発受けられるだろう。分からない。考えている間に、拳が掌に接触し始めた。ゼウスの動体視力ならばその仔細がはっきりと視認できる。例えるならば花の中を指で押しつぶすようなものだ。たくさんの雄しべがブリアレオスの腕だとするならば、それらが柔らかく押し曲げられていく様子が想像できるだろう。ここでの指とはテュポンの拳だ。それですら、指で押された花の茎がしなって折れるのを回避するように、ブリアレオスの背骨は破壊されるのを回避した。

ただ、一撃でこれほどの有様とは。

ゼウスはブリアレオスの強さをよく知っていた。神話の時代、幾多の神々や怪物、巨神を滅ぼして来た半身にして親友でもある巨人が傷つけられたことなどほとんどない。しかし今は、たった一撃で戦闘不能のダメージを負ってしまった。

そして第二撃。左の拳からゼウスを守る者はもういない。

ゼウスは跳躍すると、ブリアレオスを庇う位置へ浮かび上がった。

そこへ、拳が襲う。だからゼウスも腕を上げる。神力を流し込んで防ぐ。とても足りない。更に力を込める。限界が訪れる。

神王の左半身が、粉々に砕け散った。

断面から除くのは血肉ではなく光だ。柔らかなそれが凄惨さを和らげる。もちろん神にとっても重傷だった。

それだけの代償を支払ってさえ、テュポンの攻撃を阻止できただけとは。

意識が飛びかける。地球の反対側の様子を幻視する。両親も苦戦しているらしい。夢を介して語り掛ける。ささやかながら手助けをする。

頭を振って、意識をはっきりとさせる。空を見上げる。

父に今告げた通りの絶対絶命の危機が、そこにあった。世界に文字通りの意味で影を落としている、テュポンの巨体が。

もはや背水の陣だ。ゼウスとブリアレオスが逃れる術はない。敵を滅ぼすしかない。その事実に意識を集中させる。まだ足りない。今のままでもが、それではこいつを殺すには威力が足りないだろう。あと一回攻撃を受け止めねばならない。

テュポンが、今度は息を大きく吸い込んだ。それが吐き出された時が最期となるだろう。どちらが勝利するかは分からぬとしても。

口の中から、炎が噴き出し始める。解放されれば只の一撃で地中海全域が死滅するであろうエネルギーだ。

世界を震撼させる一撃が、放たれた。


  ◇


テュポンは勝利を確信していた。世界はちっぽけだが、それ以上に神王はちっぽけな存在だ。ましてや今の一撃ですでに大ダメージを受けている。攻撃を阻止することはできない。事実、巨人は動かない。ただ、その頭上に立つ神王が残る片手を上げた。悪あがきを。

再び、世界を震撼させる火炎が、吐き出される。

―――それが、するとは。

ぴたり。と、神王の手は攻撃を受け止めていたのである。後にはそよ風が残るばかり。

テュポンは、己の攻撃を受け止めた敵神の姿を。巨大すぎる炎の向こうに隠れて直接見ることができない相手を、その神通力で視認したのである。

神王ゼウス。肩当てと胸当てで身を守る精悍なるこの少年神の呼吸は荒い。左半身を失ってもいる。対決に至るまでにどれだけの力を消耗したのだろうか。それでも。

彼は、防御に用いなかった。破壊されたはずの左半身を、膨大なエネルギーが再構築していく。光輝くエネルギーによって形作られていく。

そうして復元した掌の内に浮かんだを解放し、神王は告げたのである。

「物質とエネルギーは等しい存在に過ぎぬ。現に混沌カオスの内よりこの宇宙ガイアが誕生した時、無より沸き立ったエネルギーはその巨大さゆえに物質へと変化を遂げた。それは自らの重力に惹かれて集まり、より力強き物質を生み出す星の炉へと自らを変換していった。それこそが原初の太陽。やがて炉が役目を終えて燃え尽きた際、自らを支えきれなくなって砕け散った炉より飛び散った物質の成れの果てのひとつが、この大地よ。この事実は一つの考察をもたらしてくれる。強大にして巨大なる破壊の力もこうしてちっぽけな塊へと封じてしまうことができるとな。覚えておくがよい。我が名はゼウス。神々と人間たちの秩序の庇護者であり、遥かなエジプトの地においては太陽神アメンの名で崇められし神々の王であるぞ」

ゼウスの手にする輝く闇は、火炎を吸い込んでいく。たちまちのうちに地中海を滅亡させ得るほどのパワーが完全に吸収され消失した。

それで終わらない。ゼウスは両手で輝く闇を挟み込んだ。たちまちのうちにそれは長く伸び、刃を生やし、そして一つの武装と化す。

鎌であった。巨大な刃を備えた金剛石からなる大鎌だ。

「これはそなたが誕生してから行使した三つの力を束ね、余の力も加えて鍛え、純化して作り上げた不壊なるもの。人間たちはこれをマイクロブラックホールと呼びもするが、余は征服されえぬものアダマスと名付けた」

大鎌を構え、テュポンを見上げる神王。その左半身はもはや輝いてはいない。完全に元通りとなっていた。テュポンが振るった破壊の力を吸収することで再生したのだ。癒しの神の御業すら、ゼウスは再現できるのだった。全能なる神王であるが故に。

神王が運命を定めた。自らの死の運命を捻じ曲げ、テュポンが死ぬという運命へと付け替えたのだ。神話において運命の女神モイライがテュポンを敗北へと導いたように。

「覚悟せよ、テュポンよ。そなたのいるべき場所はこの地上にないということを知れ」

大鎌の刃。長さがテュポンを両断するに相応しいまでに伸びた時。それは、一閃された。

斜めに断ち切られ、いくテュポン。

その巨体が完全に絶命するまでは長い時間がかかるであろう。何しろテュポンは両腕を伸ばせば十キロ以上の大きさのある怪物であったから。しかしもはやこの怪物には何の力もない。ただ、誕生から死までの短い時間を見据えるのみ。

敵神を亡ぼした神王は、親友にして守護者たる巨人へと囁く。

「行くぞ、友よ」

巨人はテュポンに背を向けると、その場を立ち去っていく。

こうして、地中海最大の激戦は幕を下ろすこととなった。

地中海沿岸人口3億6千万人のうち、2割近くがこの日、失われた。

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