第487話 山伏とタコツボ

【兵庫県神戸市垂水区 明石海峡大橋】


途方もないエネルギーが渦巻いていた。

明石の大ダコを中心として流れ込んで来る想いの総量は変わらない。しかしその性質は明らかに変化つつあった。絶望に代わり、希望。安堵。そういったエネルギーが着実に増加しつつあったのである。

清岡四季は、エネルギーの流れに手を加えた。ほんの些細なものでいい。それは渦を造り、自ら増幅し、そして呼び合うだろう。本来であれば四季一人で、一からこの想いに方向性を与えて妖怪を作り出すのは不可能に近い。大勢の術者が長い時間をかけて儀式を執り行う必要がある。しかし今回は問題ない。何故ならば、莫大なエネルギーの受け皿がすでに存在していたからである。

東慎一のカードの中に保存されている、タコツボの破片が。

何メートルという大きさのカードの中で、絵柄が変化していく。割れた壺の欠片がくっつく。復元していく。

あっという間に、タコツボは在りし日の姿を取り戻したのだ。人間たちの希望が集積した結果であった。

役目を果たし終えたことを悟った四季は跪く。顔を覆う呪符の下から見える口元は荒い息をついている。立っていられない。精魂尽き果てた。間違いなくこれは、生涯最大の術の一つとなるに違いない。そのまま、主塔の頂上から落下しそうになったところで受け止められる。

相手を確認する。静流だった。

「終わったんやな?」

問いに頷く。間違いなく終わった。もはや四季に出来ることは何もない。

こちらに背を向け、バリアーに専念していたトリニティ=ダーク東慎一の巨体が振り返った。親指を立てる四季。復元した壺の入ったカードを、これまた巨大な東慎一の手が掴む。

東慎一は、確かに頷いた。バリアーが消えていく。静流は四季を背負うと慌てて主塔を滑り降りた。下の扉では火伏と芝右衛門がこちらを見上げている。大急ぎで扉に飛び込む。扉が閉じられる最後の一瞬、東慎一が推進炎を噴き出しながら跳躍していく姿が見えた。後は彼と、魔女や神々に託すしかない。

皆が、祈った。

勝利を。


  ◇


めきめきめき……

例えるならばそんな音を立てながら、樹木で出来た1キロメートルあまりの蛇頭が引きちぎられつつあった。全長が12キロメートルもあるタコ足によって。

ヤマタノオロチの力を、明石の大ダコは圧倒していた。その凄まじいパワーは神獣クラスの妖怪の力でも及ばないのだ。

既に大阪湾は悲惨な状態になっていた。タコ足を阻止し続けた不可視の障壁はすでにそこかしこがひび割れ、砕け、大穴が幾つも開いている。ヤマタノオロチの八つある首はすでに残りが四つ。ネフィリムはその全身が触手に絡み取られ、手にした槍はへし折られる有様だった。20柱近い神々が攻撃を加えているが、あまりに巨大すぎて通用していない。

まさしくこの世の終わりのような戦いであった。それでも大阪にほとんど被害が出ていないのは魔女の庭のおかげであったが。

終末そのものと言ってもいい光景を、大阪府民や近隣自治体の人間たちは呆然と見上げていた。あまりにもスケールが巨大すぎて現実感のない有様を。山脈サイズの怪物の戦いは、どこからでも見ることができたのだ。

―――やれやれ。まずいのう。

悪天候の魔女雛子もすでに疲労困憊だ。庭の霊力を最大に引き出し続けた彼女は立っているのもやっと。というほどに消耗していたのである。休むことはできない。そうした途端、庭が発する結界は弱まり突破されるだろう。

それでも、タコが本調子でないだけまだマシなのだと魔女は知っていた。何しろあの怪物は足が一本欠けている。もし万全であったなら、こちらはとっくの昔に全滅していただろう。何があったのかは知らぬがまだまだ捨てたものではない。

頑張れば後、十分や二十分は持ちこたえられるだろう。

そう思った時だった。ネフィリムの巨体が持ち上げられたのは。山そのものと同等の質量がある体を、何本もの触手が持ち上げていく。ミナはもう意識を失っているのかもしれない。あるいはパワーが違い過ぎて抵抗できていないだけなのか。

いずれにせよ、ネフィリムの巨体が振り回された。魔女の庭の作り出す障壁に対して。

凄まじい衝撃に、障壁が臨界を迎えかける。

結界が破れぬと見たタコは再びネフィリムの1400メートルの巨体を振り上げ、叩きつけた。

それで限界であった。

バカバカしいほどの質量が、飛んでくる。音速の10倍くらいの速度だが、あまりにも大きすぎてスローモーションにしか見えない。

ネフィリムの巨体が、魔女の庭の枝をへし折りながらしまいには幹へ激突。凄まじい衝撃が庭の梢を何百メートルも振動させる。魔女が跳ね飛ばされた。人間がいたら即死だろう。結界の許容限界すら超えて幹が裂ける。何百メートルという枝が落下していく。ほとんどは次元の狭間に落着するが、一部は梅田市街へと落ちる。それだけで何十という人命が失われたはずだ。さらに、庭が今の衝撃で。生命の樹の根っこが引っ張られて大地に亀裂が入る。想像を絶する被害だ。

「う……」

魔女は頭を振った。まだ生きているが、体がまともに動かせない。立ち直るまで時間が必要だが、敵はそれを与える気はないようだ。

大ダコが、。12キロメートル。梅田からまっすぐ歩いて奈良県の端までたどり着けるほどの距離だ。一つの府県を一歩で横断しかねない巨体に抗する方法など、存在しない。

魔女は覚悟を決めた。死ぬこと自体は怖くない。しかしその後に起こるであろう惨状は、こわい。もう阻止することはできない。障壁が失われた時点で大阪の壊滅は確定する。味方の損害も加速度的に増加する。あっという間に全滅する。間違いない。

死を、魔女は見上げていた。

―――足が、振り下ろされることはなかった。

大ダコは動きを止めている。戸惑っているのだ。どうして?

理由はすぐに知れた。大ダコのずっと向こう。明石海峡大橋の近くからこちらへと飛来する巨人が目に入ったから。大ダコはその気配におびえているのだ。自らの天敵の存在に。

タコツボが直ったに違いない。他に考えられない。だから叫ぶ。

「今だ!攻め立てよ!!」

ネフィリムミナが触手を振りほどいた。ヤマタノオロチヒメが疲弊しきった四つの首を持ち上げる。神々が残る力を振り絞った。雷が、太陽から投げ落とされる火柱が、何百メートルもある竹の槍衾が、強烈な水竜巻が、途方もない量の純粋な運動エネルギーが、一斉に襲い掛かる。魔女も暴風を掴み出すと、全力で投げつける。もはや防御を考えてはいない。これが勝利の最後のチャンスだと皆が理解していた。

山より巨大なタコが、後ずさった。恐怖しているのだ。自分でも何におびえているのか理解できぬままに。

大ダコの向こうで、巨人が動きを止めた。いや。何かを始めたのが分かる。それが何であれ、戦いに終わりをもたらすであろう。

全ての神々が、その動きを注視していた。


  ◇


途方もない嵐の中で、東慎一は飛翔していた。100メートルのトリニティ=ダークの姿で。

仲間たちに語り掛ける。

―――準備はいいか

「おぅ。まかせろぉ」『もちろんだ』「いつでもいいよ」「だ、大丈夫です」『早く終わらせましょう』

ベルトの中に入ったゴンザ。秘密基地にいるトリニティ。颯太少年。安住詩月。七瀬初音。皆の返事に満足する。東慎一は一人ではない。これだけの仲間に支えられて、神々にも並ぶ強大な力を制御している。だから勝てるだろう。前方で蠢く嵐の中心。瀬戸内海を壊滅させた、明石の大ダコに。

カードを取り出す。タコツボが描かれたそれをベルトへ挿入する。ベルトから光が生じた。それはたちまち像を結ぶと、今の東慎一の図体でも一抱えはあろう。という大きさの壺を実体化させたのである。

それを抱きかかえる。口をタコに向ける。これに抗えるタコは存在しない。何しろこれは、タコツボなのだから。

大ダコがゆっくりと。こちらを見ている。恐怖の眼差しで。この、無敵とも思える怪物が恐怖している!!

タコツボから手を離す。ゆっくりと水面へ降下し、そして水底へと沈んで行くタコツボ。それでいいのだ。海底で獲物を待ち受ける罠こそがタコツボであるから。

東慎一は、こちらへ突進してくる大ダコをじっと見据えた。


  ◇


大ダコは、恐怖に震えていた。何が恐ろしいのか理解できない。あのちっぽけなニンゲンが恐ろしいのか。それとも神々の猛攻に恐れをなしたのか。足が一本ないことで思っていたよりも弱っていたのか。理由はどうでもよかった。とにかく隠れなければならない、と突然思ったのだ。

それは、明石の大ダコがタコという形態で生まれた以上抗いようのない本能であった。タコは天敵から身を守るために狭い場所に姿を隠すものだ。しかし明石の大ダコは巨大すぎる。身を隠せる場所などこの世には存在しない。この矛盾が、タコの運命を決定づけた。

前後を神々とニンゲンに挟まれた。隠れねばならない。探す。探す。探す。あった!!小さな小さな、ぽっかりと口をあけた隙間が。あそこなら入れる。大ダコの大きさに対して明らかに足りていない大きさだが、それでも入れると分かるのである。頭を突っ込む。ほら。入った。にゅるりとすいこまれていく。長さが12キロメートルある足も収まるスペースがある。素晴らしい。身を縮める。足が入る。1本。2本。3本。そうしてたちまちのうちに7本全部が収まる。もしここに欠けた8本目があったとしても入れただろう。これで安心だ。敵に見つかる心配はない。

致命的な油断であった。

突然タコツボが引っ張り上げられた。海面上へと浮かび上がる。いや、抱きかかえられている!混乱する間に、陸へと運ばれていく。そのまま地上へと降ろされていくのを為す術もなく見守るしかない大ダコ。海で生まれた大ダコは陸ではまともに動けないのだ!!

慌てて足をタコツボから伸ばす。しかしタコツボの口から出たのは、せいぜい2,3キロメートルの長さしかない細くなった足だった。妖力が急激に損なわれていく。

そうしている間に、タコツボはとうとう地面に転がされてしまった。内側からタコツボを破壊して外に出ることはできない。タコにタコツボを壊す力などないからだ。必死で出口から這い出そうとして、足が強烈な熱で焼かれた!あの、空飛ぶニンゲンの仕業だ。そいつだけではない。残っていた神々までもが飛来した。猛攻で1本。また1本と足が吹き飛ばされていく。更に遅れてやってきた巨人ネフィリムヤマタノオロチが参戦する。そいつらに足を掴み取られ、食い千切られた。駄目だ。足が無くなる。そうなる前にタコツボをひっくり返す。何とかして外に転がり出た時、大ダコの姿はただの人間の山伏のものになっていた。伝承通りに。

もちろんこうなれば神々や巨人、蛇らに抗せようはずもない。逃げ出そうとしたところで。

強烈な鎚矛の打撃に、背骨を叩き折られた。

振り返る。大ダコだったものが最期の瞬間に目の当たりとしたのは、角を生やし両手で鎚矛を構えた、信じられないほどに美しい女の姿である。

斃れた大ダコは、そのまま大きな石と化していく。

日本を震撼させた怪物が討ち取られた瞬間であった。

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