第485話 バナナと石、肉と骨

【東京都 上野恩賜公園】


屍山血河の頂で、竜太郎は天を見上げた。

空は真っ青だ。流血に染まった上野恩賜公園と対照的に。

竜太郎の他に生きている者は少ない。多くの妖怪が死に、自衛官が死に、警察官が死んだ。アレスが召喚した無数の怪物を殺して殺して殺しまくった。ふと思い出す。人に仇為す100匹の妖怪を退治するという誓いを。最近忙しくて数えていなかったが、ひょっとしてもう100を超えたのでは。

笑い出しそうになって、ひっくり返る。剣を鞘に納める。にゅるん、と腕時計の中に入っていく光景に面白みを感じる。もう見慣れたものなのに。

「ファントマ。生きてるかい」

「……」

返事がない。死んだのだろうか。生きているかもしれない。分からない。確かめる体力すらもう、残されていない。

剣と投石紐を振るいまくったから。味方の妖怪たちも死力を尽くして戦った。竜太郎がまだ生きているのは単純に運がよかっただけだろう。

スマホが震える。億劫だが取り出す。相手は真理だった。

『先生!聞こえてますか』

「ああ。何とかね。生きてるよ。網野は大丈夫か」

『こっちのことはいいですから、すぐ避難してください。後十数分で核ミサイルが落ちてきます。中国と北朝鮮が近隣諸国へありったけ撃ちまくってます!!』

「……アレスめ。あいつが言ってた幾つものわざわい、はそれか。アレスは戦場の狂乱の神格だからな。その辺の国家に核ミサイルを撃たせるくらいなんてことはないだろう」

『そんな、呑気な事言ってる場合じゃないです。今、自衛隊のイージス艦や日本中の電子妖怪も迎撃に当たってますけどかなりきついです。私もミサイルの電子機器を壊しに向かってますけど』

「そうか。避難したいのはやまやまだが、もう動けない。動けたとしてどこへ逃げる?」

『……』

「僕一人のために戻って来るな。僕一人を確実に助けるより、何万人が助かる可能性を高めるためにミサイルを叩け」

『……分かりました』

「ありがとう。網野。君と出会えたから今僕はここでこうしている。もし去年君の正体を知る機会に恵まれなかったら、誰も何も知らないままギガントマキアが始まり、世界は終わっていただろう。君が運命を動かしたんだ」

『先生』

「日高や圭子さんにもよろしくな。じゃあ」

通話を切る。真理には集中してもらわねばならない。消耗した彼女にどこまでできるかは分からないにしても。きっと彼女は生き延びるだろう。それは意味のあることだ。

それにしても、自分がただの人間であることがこれほど歯がゆいとは。神の一柱でもいてくれれば核ミサイルを迎撃することも出来たろうに。神々は今は皆魔女の庭だ。ままならない。

せめて生き残る努力をしようとして、体が動かないために諦める。近くにいるはずのファントマだけでも助けてやりたかった。

山中竜太郎は、そのまま意識を喪失した。


  ◇


【竜太郎の夢の中】


そこが夢の中だということはすぐにわかった。どこかの高原だろうか。羊が草を食み、雲は空をたなびいている。ニンスンが夢に入って来た時に似ている。

夢解きの女神を妻に持つ竜太郎は、何が起きているかを完璧に把握していた。

周囲を見回す。これが夢なら招待してきた相手がいるはずだ。すぐ側で、たくさんの人々が談笑している。知らない顔もあるが、大半は知っている相手。多くはこの1年で知り合った人たちだ。

宴会であった。

そして、大きな牛を切り分けている少年神の姿。

神王ゼウスであった。

竜太郎は思い出す。古の時代、肉を切り分けて与えるのは王の役割であったということを。分配とは王に許された特権なのだ。

ゼウスは、こちらを振り返った。

「父上」

「ゼウス。君は……本物か」

「いかにも。この世界で余とあなただけが本物だ。他は父上の記憶から生じた背景だとでも思っていただければよい」

「こんなこともできたんだな」

「母なるニンスンより受け継いだ夢解きの力である。余のことを世間では雷霆神、天空神、至上神と見る向きも強いが」

「そっちで何があった」

「ふむ。父上と同じような状況と思っていただければよい。つまり絶体絶命である」

「そうか……」

「だができることはある。これのように。しばし待たれよ。何、心配はいらぬ。これは夢の中のこと故、外ではほとんど時間は過ぎぬ」

そういってゼウスは作業を再開した。

牛を2つに分け、調理し、片方は肉と内臓を食べられない皮で包んだもの。もう一方は、骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せたものを準備したのである。

完成した二つの料理を木の器に盛り付け、少年神は差し出した。

「父上ならばこれが意味することは分かるはず」

「バナナ型神話の類型だな。プロメテウスではなく君が人間に対して選択を迫るのか」

「こちらも人手不足ゆえ」

バナナ型神話。人間が何故死ぬのかを説明する神話である。人間が神より与えられた石を拒否し、食べられるバナナを要求するというのが大まかな筋書きだ。結果として人間は石のような不死ではなく、バナナのように死と誕生のサイクルを得るという東南アジアやニューギニアに伝わる神話の類だった。ゼウスが差し出したのはギリシャ神話における類似のエピソードに登場する、石とバナナに相当する品々である。神と人間を分けることを決めた(神話上の)ゼウス神に対し、プロメテウス神が神々の取り分をどちらかから選べと迫ったエピソードだ。プロメテウスは人間たちに食べられる肉を取り分として与えるべくゼウス神を騙そうとしたが、ゼウス神はあえて騙されて脂身に包まれた骨を取ったという。この時から人間たちは肉がすぐ腐るように、死んで消えてしまう定めとなったのだと。バナナ型神話としてみると、選択者が人間ではなく神である点、結果を理解して選んでいるという点が特徴的である。

「僕が選んで意味があるのか」

「ある。あなたは"ティアマトー"を殺した。それも心臓に矢を撃ち込んでだ。50の称号を神々より与えられもした。天命の粘土板を砕きさえした。望めばあなたは神の座を得ることもできる。本来であればマルドゥクのものだった権能をあなたが簒奪するのだ。そうすることで、人の身でありながら不死の肉体と不滅の魂を持つ王者ともなる。もちろん、得たばかりの力を使いこなして今迫る危機を防ぎ得るかどうかは余にも分からぬが」

それでも、生き延びるチャンスは大幅に増えるだろう。もちろん、核ミサイルの脅威にさらされる人々が助かる可能性も。

「そうか。畳の上で平穏無事に死ぬのが夢だったんだけどな。妖怪と戦うと誓ってから、ずっと」

「その願いは叶わなくなるであろう。永遠に」

「そうだな……」

「もう休みたい、というのであれば、人でいることを選んでもよい。誰も責めぬ。余もだ。あなたは人に仇為す百の妖怪を退治するという誓いをもう果たされたのだから。数えてみたが、退治を命を奪うという意味で捉えるならば先のアレスがちょうど100体目である」

竜太郎は首を振った。自分の方針は先ほど真理にも告げた通りだ。自分一人を確実に救うのではなく、何万人の生命が助かる可能性を高める方を選べ。それにこれは、たった一人の息子が初めて竜太郎にくれる贈り物なのだ。受け取らないという選択肢はない。

だから竜太郎は手を伸ばした。脂身に包まれた、一見するとおいしそうな方へ。しかしそれは骨だけで食べることができない。その代わり、骨は肉と違って朽ちることはない。神が人間と違って不死であるように。

「齧った方がいいのかな、これは」

「いや。選んだ時点で儀式は完遂された。父上よ。ご武運を」

「ありがとう」

世界が光に包まれていく。ゼウスの姿が呑み込まれ、全てが無となり、そして。

竜太郎は、現実世界で目を覚ました。

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