第484話 地中海は鮮血に染まった

【地中海】


「はあ、はあ、はあ……」

海が真っ赤に染まっていた。

血を流しているのはギガースどもだ。すでに百三十以上が、地中海各地で復活して対処された。神々や怪物たちの攻撃を受けて。その余波を受けた人間たちの被害がどれほどのものになるか想像することさえもできない。これほどの被害が出るのは3200年前のティタノマキア以来かもしれない。対するオリュンポスの神々の半数が斃れ、残りも力をほとんど使い果たしている。先頭に立って戦い続けた神王ゼウスも疲労の色は濃い。

「誰がある」

「ヘルメスがこちらに」

振り返る。伝令神ヘルメスが側に控えていた。彼も古い神だ。元々は牧畜神であり豊穣神、薄明や風を司る神でもあった。ゼウスに下ってからもう4000年近い。

「無事な者は」

「まだヘラ様率いる一隊は健在です。ヘスティア神、ポセイドン神も。アポロン神、アテナ神は討ち死に。彼らの隊は今アルテミス神の隊に合流しましたが、消耗が激しくこれ以上の戦闘には耐えないでしょう」

ひどい有様だ。だがもうすぐギガースは駆逐できるだろう。発生もぽつぽつとになりつつある。

「よその戦況は?」

「よくありません。サウジでは黙示録派が優勢です。イランでは現在イラクの神々と協力して戦っていますが辛うじて敵を押し留めていると。エジプトではアポフィスに手を焼いており、シリアではバアル神らがモトに敗れたそうです」

「そうか」

「日本の方ではアレスが現れた、と。どうやら討ち取られたようですが、現地を蹂躙する明石の大ダコとの戦闘はまだ続いているようです」

それを聞いてもどうにもできない。もはや状況は善なる神々や人類どころか、円卓の手をも離れつつある。そもそも奴らには事態を制御するつもりなどあったかどうか。

それでもまず、地中海は守らねばならぬ。守れたとして、よそに援軍を送るだけの戦力が残るかどうかは分からぬが。

そしてさらに問題がある。地中海を守るにはもうひとつ、倒さねばならぬ敵があった。

海面が揺れ始める。いや。

遥か前方、シチリア島東部のエトナ火山が鳴動し始めた。あそこから出るのか。

山体が崩れ始め、その下から巨大な手が出現する。大きいなどというレベルではない。何しろ出てきた異形の掌だけでも、山を上に乗せられるであろう。伝承によればそいつは腕を伸ばせば世界の東西の涯にも達し、星々と頭が摩するほどの巨体であったという。実際にそいつは巨大なのは分かった。腕が山を砕き、上に伸びあがっていく。もうシチリア島の住民は絶望かもしれない。先のエンケラドスも十分酷かったが、それを上回るものが出てくるとなれば。

そいつは山の下から這い出して来ると、両腕を伸ばした。その幅は間違いなく、地上の人間からすれば水平線から反対側の水平線まで届いているように見えるに違いない。人間の身長から見た水平線までの距離は4・4km。それを片腕だけでも遥かに上回る長さとなれば、腕一本が十キロを優に超える。

上半身は人間に似ているが、鱗に覆われた深い藍にも似た緑の肌。下半身はとぐろを巻いた二本の毒蛇がどこまでも伸びる足の役割を果たしていた。

テュポン。ギリシャ神話最大最強の怪物が、顕現しつつあった。

「―――攻撃せよ。総力を集中するのだ、伝えよ!!」

「はっ!」

ヘルメスが姿を消した。他の部隊に伝令へ行ったのだ。ゼウス自身も再び槍を掴み出し、雷へと変換。槍投器アメントゥムを使って投じる。1500メートルあるギガースを一撃で倒せるそれを。ブリアレオスが虚空から300の大岩をて投じ、アルが立て続けに毒矢を放った。もちろんそれで終わらない。

たちまち、各地からもありとあらゆる攻撃が飛んで来る。炎。岩。矢。太陽から火柱が落ち、巨大な波が襲い掛かる。それこそイタリア半島の半分が海底に沈むほどのパワーが集中したのである。

攻撃が収まった時。テュポンは、健在であった。

「そうか。人間たちの想いはこれほどであったか」

神々が気圧される中。ゼウスはただ一人、堂々と身構えた。神話に記されたように。

あれを倒せるかどうかが、地中海の行く末を決めるであろう。

神王は、槍を投げつけた。


  ◇


ローマ人の土地ルーマニア ブラショヴ】


「太陽が出てこない……何故だ」

死者の街となったブラショヴで、クリスティアンは呟いた。

たまり場のホテルの一階には既にコミュニティの仲間たちや、妖怪について知る人間たちが配置についている。普段は普通の人間も入れるここは現在では精一杯の防御のための結界が張られ、窓や出入り口はすべてバリケードが築かれていた。

既にブラショヴ市内にどれだけの吸血鬼がいるのかは分からない。まだ相当数の市民が建物の中に取り残されているだろうが、あまりに増えすぎた吸血鬼をかき分けて彼らを救出するのは至難の業だろう。吸血鬼は太陽に弱い。他にもニンニクの花や十字架、聖水。流れる水を渡ることが出来なかったり、教会や寺院に入ることができない場合もある。ドラキュラほどの高位の吸血鬼ならばそれらを克服していてもおかしくはないが、彼に噛まれて吸血鬼となった者たちにはそのうちの相当数は有効であろう。ひとまずこのホテルは十字架をそこら中にぶら下げ、厨房でありったけのニンニクをぶち込んだ料理を皆に振る舞ったところ防衛できている。となれば朝になった時点でかなり状況の改善が見込まれるはずだった。

しかしもう、5時を回っている。そろそろ空が白くなり始めてもいいはずなのに、太陽は一向に顔を出さない。

「円卓が太陽上るの妨害してんじゃねーのか」

「あり得るな。そうなると朝になって打って出るというのは無理か」

ラルにそう答えるクリスティアン。実際、世の中には夜の神や太陽神など結構な数がいる。吸血鬼を武器として使うつもりなら対策していてもおかしくない。

「翠がいてくれればな」

クリスティアンは以前の戦いを思い出していた。ドラキュラを相手に太陽を召喚した翠の力があれば、きっと市内の吸血鬼を退けることができるだろう。しかし彼女と言えどもこの状況下に急に駆けつけることができるのだろうか。

「翠?誰だそりゃ」

「日本でできた友人だ」

翠について覚えていないラル相手にそう答える。ひとまず持久戦をやるしかないだろう。

そう思っていたクリスティアンであったが、敵の考えは違うようだった。ふと聴覚に集中したクリスティアン周囲の吸血鬼の数が増えていることに気が付いたのである。それもこのホテルを包囲するように。

振り返った時にはもう遅い。窓ガラスが割れる音と共に、幾つもの悲鳴が聞こえる。あっちは三人組の担当範囲だ!

「ラル、こっちは任せた」

「応よ!」

駆け出す。扉を抜ける。銃声が幾つも聞こえてきた。更なる悲鳴も。部屋へ飛び込むと、テーブルを盾にマスケット銃を撃つ少女たちへと十数体もの吸血鬼が押し寄せようというところだった。

「―――!!」

クリスティアンの放つ音が、吸血鬼どもを弾き飛ばす。生じた隙に叫ぶ。

「兵隊を出すんだ!!」

「は、はい!!」

三人組は半人前とはいえれっきとした魔神だ。悪霊の軍団に属する強力な兵隊を召喚できる。彼女らが集中するのと同時に実体化したのは、十数体の骸骨の兵隊。マスケット銃で武装した彼らは外に向かって一斉射撃を加えたのである。

吸血鬼どもがなぎ倒された。

一発撃った兵隊たちは銃剣を着剣し、窓際へ駆け寄る。そうして外から侵入しようという吸血鬼どもを阻止に動いたのである。

「無事か?」

「う、うん」「おかげで助かったよー」「何とか無事です」

それぞれ樹里イポス五十鈴ナベリウス天音グラシャラボラスの返事だ。

代わらぬ様子に安堵するクリスティアン。しかし状況はそうすることを許さない。他の部屋からも戦闘音が聞こえ始めてくる。

「押し寄せてきたぞ!!」「裏手もだ!!」「まずい、防ぎきれないぞ!!」

悲痛な叫び声が聞こえてきた。これほどの攻撃をしてくるということは、敵はコミュニティ自体を邪魔者とみなしているのではないか。

「三人は敵を防いでくれ。支えきれないと思ったら階段までは下がっていい。タイミングを見て2階まで後退する」

「分かったわ!」

勢いよく返事をする樹里へ頷き、クリスティアンは持ち場へと戻る。今は時間を稼ぐより他はない。いざとなればホテルを捨てる必要があるかもしれないにしても。

この後クリスティアンは知ることとなる。ブラショヴ中の吸血鬼どもが集まりつつあった事実に。


  ◇


【サウジアラビア王国 メディナ上空】


戦場に、哄笑が響き渡っていた。

巨大な力がそこかしこで激突している。天にも届かんとする背の高さを持つメタトロンとサンダルフォン。多数の座天使ソロネたち。2つの陣営に分かれた七大天使たちやそれに近い力を持った何百という数の名持つ天使たち。

そして、唯一神。

古き"主"と新しき"デミウルゴス"の2柱は真正面からがっつりと組み合っている。その身の丈は優に成層圏へと届く。地上の多くの場所から、その様子は見て取れた。

この神の戦いは取っ組み合いの格闘だ。途方もないパワーはそれだけで世界を震撼させ、中東を絶滅させかねないものだった。そうなっていないのは両者が霊体のまま戦っていることが大きい。この戦いを制した側が唯一神としてこの世に存在し続けることを許される。優勢なのは今のところ新しき神の側だった。哄笑はこやつが上げているのだ。地上の人間たちの願いを反映して。

"主"は考える。人間たちの想い。同じアブラハムの宗教を信じる者たちの分断はこれほどまでに強かったとは。相対するデミウルゴスの力はとてつもなく強いものだった。"主"に匹敵、どころか圧倒しようとしていたのである。人間たちはもはや見守る神を望んではいない。平等と対話を否定し、ただ、相手の絶滅と抑圧、憎悪のみを願っている。何千年も生き、力を蓄えてきた"主"と言えどもこのままでは勝てないかもしれない。

それでも、勝たねばならなかった。そのために自分は存在しているのだから。

幾多の神々が実在する中で、唯一神だけが偽りの存在だ。何故ならば元来"神"とは物理的実体を備えて人々の間に分け入る、ありふれた隣人を指しす言葉であったから。"主"はそうではない。人間たちからあまりに離れてしまった。

だからせめて、役目は果たさねばならぬ。

"主"は力を振り絞る。敵神を。対抗しようという力が強まる。

もはやどちらが優勢か分からないまま戦いは進んでいった。

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