第473話 水底から来た者
【アメリカ合衆国ニューヨーク州 ニューヨーク沖】
どこまでも深い、水底の闇であった。何者も見通すことはできない。しかし、上に上ることはできる。
獣は、そうした。闇の中から生まれたこの怪物はただ、光の世界を目指したのである。海から現れるという伝承に従って。やがて、海面が近づいてきた。顔を出す。身を乗り出す。足を踏み出す。海底がしっかりと巨体を支えようとして―――足がめり込んだ。わずかにバランスを崩す。
それでも、獣はしっかり立ち上がった。
外は光に溢れていた。天空を覆い尽くす無数の星々のきらめきは眩しい。その中でもひときわ大きな輝きを放つ、巨大な星は苦よもぎであろう。ヨハネの黙示録にその名が記された、地上に落ちてくる星。それは松明のように燃えていて、川の水が汚染され、多くの人間が死ぬとされている。
もちろん怪物は、この内容を再現するために"黙示録派"が多大な努力を要したことなど知りはしないし、その実現には多くの宇宙妖怪たちの力があったということも理解していなかった。
ただ、自らに課せられた使命を果たすべく行動するだけだ。
七つの頭と総計十の角を備え、その頭部は豹に似ており、口は獅子、足は熊のようなこの怪物の名を、黙示録の獣といった。
全高1200メートル。頭が多い分横幅のボリュームが大きい、二足歩行する怪物は歓喜の咆哮を上げた。海の中から上陸するとされるこやつは、上陸地点に相応しい大都市を発見したからである。
すなわち、午後八時を回っても光り輝いている不夜城、ニューヨークの街並みを。
まだ水平線の先に姿を現しただけに過ぎない。遠すぎる。100キロメートルでは効かない。だが怪物は十分大きかった。すぐにたどり着くことだろう。
怪物は静かに前進する。その巨体からは驚くべきことだが、こやつの役目を知っていれば驚くには値しない。地上に偽りの救世主として君臨し、人間たちを支配しようというのが獣の役目なのだ。人間たちを殺してしまっては本末転倒である。だからこの怪物は地震を引き起こさない。人間たちが見て、崇めるに足る時間を存分に与えるために。
このまま進めば予言は成就しただろう。この怪物が地上の支配権を握る。それが一時だけであっても致命的なことに違いなかった。
しかし、そうはならなかった。何故ならば真横から、
九発の40.6cm核砲弾の斉射は、獣の体の表面に食い込むと同時に起爆。火の玉となった。
それはとてつもない速度で、しかしあまりのスケールの大きさ故のスローモーションじみたゆっくりした動きで、破壊半径を拡大していく。
それが晴れた時。海面は沸き立ち、空にはキノコ雲が昇り、それでさえも獣は健在である。多少焼け焦げた程度だ。
とはいえこの怪物は怒ったようだった。己に攻撃を加えた不遜なる敵を探したのである。
探し物はすぐに見つかった。ほんの四十キロメートル先で横腹をこちらに向けるちっぽけな戦船。あれが攻撃者に違いない。
無視して前に進むこともできる。しかし不愉快な攻撃を繰り返してくるかもしれない。排除するしかなかった。それに、何か強大な気配がする。あれは―――預言者だろうか。神の下僕であり獣の宿敵。
獣は、進路を変更した。
◇
潮風を一杯に吸い込んで、女はご機嫌だった。
若く見える女であった。スタイル抜群の彼女は将校の上着を袖を通さずマントのように羽織り、艦橋から沖を見ている。船の調子は良好。機関もはっきりと動き、搭載された武装の状態は完璧だ。80年を超えて女と船は生きてきた。軍を退役し、博物館として第二の人生を送っていた。何ら不満はない。退役軍人が平和な第二の人生を送るように、兵器も老後を楽しむ権利がある。
しかしそんな彼女と船に、再び復帰命令が出た。5月末に30年ぶりのメンテナンスと称して地元を離れた彼女らだったが、その実行われたのは武装の再活性化だ。人類を守るため。人ならざる脅威と戦うために。
器物の妖怪と化した最後の戦艦"ニュージャージー"と、その分身たる女は遥か遠く。海上を見据えていた。そこに立つ、馬鹿げた巨体の"獣"を。
「よう。調子はどうだい。大佐殿」
声に振り返る。立っていたのは男だ。元陸軍のグリーベレーだという。女と同じく引退した身だそうだが。今は預言者だ。
女は、羽織った上着に付けられた徽章へ目をやった。復帰祝いとばかりに貰ったのだ。女は人間ではなかったが、戦艦の艦長扱いということらしい。まあ戦艦だが。名誉大佐である。
「変な感じ。今までも漠然とした意識はあったけど、自分で動くこともましてや話すこともなかったもの。今は自分というものがどういう存在か理解しているけれど」
「そうか。多様らしいからな。あんたらは」
「ふうん」
預言者はジョン・ジェネロと名乗った。組んだのはほんの数日前。彼以外にもスタッフは数名乗り込んでいる。艦の運用そのものに人はいらない。女が一人で全部できる。だから預言者たちの役目は別にある。あの怪物の注意を惹くという。
第二射を用意する。三連装Mk.7 16インチ50口径砲三基、総計九門に核砲弾を装填する。現実には実装されなかった装備だが、計画があったという事実があり、広く知れ渡っている以上撃つことはたやすい。何故なら女は人類史上最強の海軍の、人類史上最強の兵器システムの一つだったからである。過去4度の従軍で何十万発という砲弾を放って恐怖をまき散らし、国家に貢献してきた。人々が女に抱いた想いは莫大であり、死と破壊と殺戮の化身とみなされてきたのだ。その通称を"ブラックドラゴン"。一斉砲撃を"ドラゴンブレス"と人間たちは呼んだ。
ドラゴンブレスはクリーンだ。極めて強力な妖術の一種であり、残留放射能を残さない。この世の物理法則から外れた放射性物質はたちまち分解して消えてしまう。だから安心して撃ちまくれる。とはいえなるべく低めに撃ち込まねばならない。発生する電磁パルスが水平線を越えて広がったら電子機器や送電網への被害が凄まじい。
第二斉射が放たれた。凄まじい爆風が甲板を覆い尽くす。生身の人間が立っていれば間違いなくミンチになっている。
九つの砲弾が美しい弾道を描き、そして獣に命中。キロメートルサイズの火球九連が1200メートルの巨体を飲み込む。この調子なら奴が接近してくるまで何度も攻撃できるだろう。
だからだろうか。怪物が、七つの頭部の口を開いたのは。
空気の動きが生じた。最初は微風だ。しかしそれはたちまちのうちに暴風となり、台風の領域を超えて行く。息を吸っているだけで!?
獣は、周囲の者全てを吸い込もうとしているようだった。火球のかけらも。海水も。大気も。そして四十キロ離れているはずの戦艦をも。
排水量57,271トンの巨体が、浮かび上がりつつあった。
「何、これ!?」
「奴は七つの大罪の化身なのです。その中の"暴食"の権能。こちらを丸呑みにするつもりです!!」
女が振り返ると、手すりにつかまっている女とも男ともつかないフードの人物が叫んでいた。七大天使が一、スリエル。他にマリアという名の金髪の天使もいる。後数名艦内にいるが、それで全員だった。
「暴食?丸呑み!?阻止する方法は!?」
「倒すしかありません!」
「簡単に言ってくれちゃってまあ」
女は汗を流した。援軍は遠い。獣が出現する可能性のある他のポイントに姉妹艦や神々、天使たちはいるし、そっちでも別の怪物が出現しているかもしれない。自力で何とかするしかない。
このままでは安定しない。砲撃してもぶれる。まともに戦えない。
だから女は、自らの巨体を分解した。艦の各所が分離し、蛇腹状の関節が伸びる。構造が組み替わっていく。艦首が割れ、凶悪な牙を揃えた口となる。無数のパーツが自在に接続を替える。
たちまちのうちに戦艦は、巨大なドラゴンの姿となっていた。元の大きさよりも大きい。五百メートル以上はある。それでも敵に対しては小さすぎるにしても。
全身から錨を降ろし、海底へ固定。敵に対して正対する。砲が馬鹿げた速度で旋回し、敵に向けられる。
相手も、更なる手に撃って出た。海底を引きはがすと、何百メートルもあるそれを放り投げたのである。
「―――!!預言者ジョン!!」「おう!」
スリエルとジョンが体内のエネルギーを高めるのが分かった。同時に、空が変化していく。きのこ雲が渦巻くような形に変わり、赤い稲妻が走る。そして、炎の雨が降り始めた。
それは硫黄だった。まるで火山の噴火が至近距離で起きたかのようだったが、そのスケールは火山どころではない。何十メートルもある硫黄の塊が空から無数に降り注いだのである。飛んでくる岩盤目がけて。
たちまちのうちに削り取られ、小さくなっていく岩盤。十メートル程度にまで小さくなったそれを
強烈なドラゴンブレスが、再び放たれた。
ここ、ニューヨークの沖合で黙示録の怪物との死闘が始まった。
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