第180話 留学生と魔導書

【阪急神戸線 列車内】


「なんなんですのあれはあああああああ!」

隣の客車に飛び込んだ翠は、ドアを力いっぱいに閉めた。後から遅れてきた幼馴染たちがくる。幽霊ならではだ。

「ひどいよー」「一人だけ逃げた!」「薄情ですねえ」

「あなたたちはドア関係ないでしょうが!!ってひぃ!?」

翠の言葉は中断を余儀なくされた。ドアが突き破られたからである。爪の生えた手に。

手が透過している樹里はきょとん。としている。どうやらこの豹頭たちは幽霊には触れないらしい。ひとまず自分の身の安全だけ守れば良いと理解した翠は背を向けた。ドアを押さえていてもそのうち破られる。

非常ボタンに駆け寄る。力いっぱい押す。「助けて!」叫ぶ。待っても返事が来ない事実に気が付く。

「マジですの……?」

背後では、ドアが完全に破壊されていた。どうやら開けるという発想が豹頭にはないらしい。知能が低いのかもしれない。

走る。こうなったら先頭車両だ。後から幼馴染達がついてくる。ドアを抜ける。閉め直す。豹頭はまたパンチからだ。アホで助かった。

また走る。注意してくる乗客はいない。無人だ。最初の車両だけ人がいたのかも知れない。

そうして先頭車両の一つ手前にたどり着いた翠は足を止めた。今までの車両と異なり、乗客がいたからである。

彼は手にした本を閉じると、席から立ち上がった。

「あ―――」

知った顔だった。顔しか知らない。毎朝駅ですれ違う、憧れの君。何故ここに。帰る途中なら入れ違いに降りるはずでは。

混乱する翠。そんな彼女へ、青年は視線を向けた。

「この騒ぎは君が原因か」

「え?」

「いや。だな。そこの三人。姿は隠せても私には。何者だ」

背後を振り返る。ドアが破られた。明らかな緊急事態である。にも関わらず、青年の口調は落ち着いている。その様子に翠は気圧された。

「なんか…ヤバくない?」「ヤバいどころじゃないよー」「前門の虎、後門の狼と言うやつですね」

幼馴染達が、翠を守るように円陣を組んだ。物理的には何も出来ないにしても。彼女らがいなければ、翠はとっくにパニックで泣き喚いていただろう。

「ふむ。ヤバい、という点については私も同感だ。君たちがどこの妖怪で誰と戦っているのかは知らないが、こんな公共交通機関で事を荒立てるような輩を私は許容しない。

双方に自重を求める。戦うなら場所を変えろ」

「よ……妖怪?というか今、三人って」

ここでようやく翠は、この青年が幼馴染たちの幽霊のことを認識しているという事実に気が付いた。自分を含めて妖怪扱いされているらしいことも。

背後を再確認。ドアを破った豹頭たちが何体も身構え、唸っている。青年を警戒しているのだ。

翠は腹を決めた。泣きつくなら日本語がまだわかるイケメンにしたい!

「な―――なにを言ってるか解りませんけど、助けて!何でも言う通りにしますから!」

「ほう。良いだろう。後悔するなよ」

そして青年は、姿を変えた。豹頭たちと同じように。いや、それ以上に劇的に。

服が。代わる衣装が虚空から。手の中に短杖ワンドがまるで魔法のように出現し、そして最後に額から捻じくれた角が伸びた所で、おしまいだった。

緩いウェーブのかかった黒髪や美しい顔立ちはそのままに、豪奢な衣装を身に纏う異邦の指揮者がそこにいた。

杖が、振るわれる。翠目掛けて。

身がすくんだ翠は、何も起きていないことに気が付いた。幼馴染たちにも。

代わりに、背後では問題が解決していた。振り返った先で、豹頭たちはバタバタと倒れ伏していたのである。

まさに瞬殺だった。何がどうなったのやら解らない。

「あ……」

ぺたん。とへたり込む翠。助かったという安堵で、力が抜けていた。

見ているうちに豹頭らは人間の姿になっていく。ごく当たり前の男女だった。

「さて。へたっている暇はないぞ。もう一方の下手人を捕える」

「下手人?え?解決したんじゃ」

「こいつらは術で操られていただけの人間だ。親玉が後ろの車両にいる。行くぞ。……と言いたいところだが、時間切れか」

「は、はい?」

青年が外を見た。つられるように翠たちも窓の外に向く。

もうすぐ、駅だった。間もなく停車するだろう。

視線を戻したときには、青年の姿は普通の格好に戻っていた。

「人払いも消えたな。……やむを得ん。目立ちたくない。前の車両に移る。止まったら降りるぞ。来い。そっちの三人もだ」

「は……はい!

みんなも行きますわよ」

「ひええ」「ちょ、ちょっと待ってー」「はいはいただいまいきますよ」

もちろん、翠たちに従わないという選択肢は無かった。先頭車両にそそくさと移り、停車した駅で皆が降りる。気絶した元・豹頭たちと破壊されたドアを後に残して。乗り込もうとした乗客たちが騒ぎ始める。

先行する青年に、翠は尋ねた。

「あの……あなたは一体何者なんですの」

「私の名前はクリスティアン・イズ。留学生だ」

「……留学生」

「君は?」

「私は……私の名前は、翠。矢神翠ですわ」

「承知した。矢神翠。そこの三人も。ひとまず落ち着いた場所を見つけよう。事情を聞きたい」

青年と翠たちは駅を出た。



  ◇


―――しくじった。

襲撃者の内にあったのはそのような想いである。

矢神翠を殺し損ねた。あの女を始末しなければならないのだ。他の三名を殺した時と同じように。それが、襲撃者に課された責務であったから。

何としてでも目的を果たさなければならない。手にした魔力。与えられた知識。そのすべては借り物だ。代償を支払わねばならなかった。さもなくば、そのすべてが失われるであろう。それだけではない。襲撃者自身の魂までも引き換えとせねばならない。

駅のホームで、人波に紛れる。どうするか思案しながら階段を下りる。何食わぬ顔で改札を出る。矢神翠たちとは反対方向に。

どちらにせよ今日は無理だ。邪魔をしてきたあの若者の実力はすさまじいものだった。今のままでは勝てぬ。やるならば、入念な準備が必要だった。

それにしても。

カバンの中に手を突っ込む。そこに仕舞われた本を撫でる。

何故、矢神翠は図書室で魔法に関して調べていたのだろう。ひょっとしてこの本を探していたのだろうか。図書室にあったこの、『ソロモンの小さな鍵レメゲトン』を。魔神の喚起の奥義が書かれたこの魔導書グリモワールについて。だとすると、こちらの正体についてもある程度目星をつけている可能性がある。危険だった。

実際のところは分からないが、今のところあの女は魔導書を手にしていない。それは、魔法戦で襲撃者が有利であるということだ。

調息する。己の昂ぶりを抑える。魔術師は冷静でなければ。

己が十分に安定してきたと確信した段階で、襲撃者は移動を再開した。そうして、勝利を手に入れるのだ。

襲撃者は———ソロモン72の魔神が一つ"オセ"を使役する魔術師は、帰途に就いた。

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