第168話 めくられたベール

「ねえさま!」

駆け寄ってきた孝明を、刹那は抱きしめた。

この義弟は随分と心配してくれていたようだった。あくまでも刹那は孝明の補佐役で、将来の当主は孝明が継ぐことになるはずだったが。

「ねえさま、酷いことされてない?捕まったって聞いて心配したよ」

「平気です、孝明。ボクは強いから」

「帰ってきてくれてよかった!」

ニッコリと微笑む弟の笑顔に、刹那はようやく戦いが終わったことを実感していた。今は行われている使者との会談も、きっと無事に終わるに違いない。そして日常が戻ってくるのだ。

彼女は根拠もなくそう信じた。

「さあ。母様に報告しなきゃ」

二人して廊下を走り、そして奥の寝室に入る。中で横になっていたのは母の小百合だった。髪の長い佳人である。病弱で、最近はずっと部屋に籠もりきりだ。

「母様!ねえさまが帰ってきたよ」

「まあまあ。孝明ったら。元気だこと」

仲睦まじい母子を前に、刹那は会釈。この中に割って入ってはいけない。そう思ったのだ。

「さあ。刹那もおいでなさい。遠慮することはないのですよ」

おずおずと入ってきた娘を座らせた義母は、優しく手を伸ばした。それを取る刹那。

「お勤めご苦労さま。大変だったでしょう。今日はもう、休みなさい」

「はい」

穏やかな時間がこのまま流れていく。そう思えた時だった。屋敷の内が騒がしくなったのは。

「……?」

顔を出した刹那が聞いたのは立て続けの爆発音。雷鳴。怒号。悲鳴。

―――まさか、戦い?

使者達との交渉が決裂したのかもしれない。何ということか。

母と弟に、部屋から出ないよう告げる。自分が二人を守らねば。

身構えることしばし経ち、家人が駆け込んできた。

「何事だ!」

「大変です、宗主が、使者に討たれました!お逃げ下さい!」

浮足立った母子。孝明が母を支える。家人が先導し、刹那が続いた。更に後から義母たちだ。

そうして、さほど進んでいないうちに次の異変が起こった。天井を破壊して。

真上から伸びてきた巨大な蛇の頭部は、家人を。刹那がぽかんとしたのは一瞬。すぐに振り返り、逃げるよう促そうとした先で。

「あ―――」

襖を突き抜けてきたのは細長く、目がぎょろりとした醜悪な生き物。一応は人型をしたそいつは、母の腕を無造作に引きちぎる。

絶叫が上がった。母が悲鳴を上げているのだ。しかしそれもすぐに止まる。人型の化け物が、母の首を引き抜いたから。

反射的に孝明の手を掴む。引っ張る。走る。わけもわからないまま。何だあいつらは。どうしていきなり妖怪変化が屋敷に。警備はどうなったのだ!?

疑問はすぐに解けた。外に飛び出した姉弟が見たのは、家の周囲を埋め尽くすほどの妖怪の大群であったから。龍。巨大なムカデ。蛇は屋根から頭を突っ込んで何やら夢中になっているし、頭に靴をくっつけたような獣、鬼、野火。なんでもござれだ。

一族の者達が応戦しているが彼らの術では灯籠の斧に過ぎぬ。頭が握りつぶされ、生きたまま焼かれ、口から魂を吸い取られてたちまちのうちに死んでいく。敵があまりに強すぎた。

「たす……け…」

縋り付いてきた者を救おうとした刹那は絶句。何故ならばその者は既に下半身が無かったからである。

彼の手を振り払おうとして、既に動かなくなっている事に気付く。掴まれた袖を引きちぎる。影が落ちたのに顔を上げると、こちらを見下ろしていたのは渦巻く風から上半身を伸ばし、両手が鎌になったイタチ。血走った目をするそいつの一撃が刹那の左腕を切り落とす。悲鳴を押し殺して邪眼を発動。イタチの半身が石塊と化す。生じた隙に、孝明の手を取り走る。外は駄目だ。家の奥。お父様の側なら!

「ねえさま、腕、腕が……」

「大丈夫!平気だから走って孝明!」

平気ではないが叫ぶ。腕など今はどうでもいい。命に換えても義弟を守らねば。

そうして家の中を走り回る。一抱えもある空飛ぶガイコツを石化させ、蜘蛛の化け物の糸を跳んで躱して逃げ込んだ先で、義弟を振り返った時。

「……え?」

刹那の右手はまだ、義弟の手を引いていた。手だけを。引き千切られた手より先は残っていない。

顔を上げる。

―――目が合った。

虚ろな瞳をした孝明の死顔デスマスク。それを体に貼り付けているのは舌を長く伸ばした冥府の役人である。

孝明だけでなく、幾つもの一族の死に顔を貼り付けたそいつに、刹那は後退る。

「あ……ああ…ああああああああ!?」

渾身の妖術をぶつける。役人が石と化していく。蹴り飛ばす。倒れて粉々に砕けた妖怪は、それでもこちらに這い進んで来た。死を恐れていないのだと気付いた刹那は、尻餅を付いた。立ち上がろうとして左腕を失ったことを思い出す。傷の断面を見て、刹那はぽかんとした。

「え……?」

血は流れていなかった。代わりに傷口からこぼれていたのは、呪文を墨字で書き込まれた何枚もの和紙。呪符であろうか。

何故そんなものが、傷口から。

現実を受け入れられなかった刹那は、別の現実に逃避した。こちらに迫る敵。避けられぬ死を視たのである。

冥府の役人の腕が、刹那の顔を引き千切る刹那。巨大な足が腕を踏み砕き、次いで頭を踏み砕いた。

呆然と見上げる、刹那。そこに佇んでいたのは頭から流血した父、玄馬だった。

「……生きていたか、刹那。小百合と孝明はどうした」

「あ……お父様……死にました。ふたりとも、お守りできず……!」

「そうか。この役立たずめ」

「……お父様?」

呆然とする刹那に、玄馬は吐き捨てた。

「お前をのは孝明に仕えさせるためだ。そのために兄上の秘術を手に入れ、父上に悟られぬよう準備をした。秘密裏に儀式を執り行ってお前を作り上げた。病で死んだ分家の娘に成り代わらせ、養女として迎え入れた。ボロが出ぬよう偽の記憶を植え付けた。お前と孝明の間に結びつきを作り、術を引き出せるようにした。すべて孝明の未来のため。だがそれも潰えた。お前にはもう何の価値もない。どこへなりとも消えよ」

「お父様?一体何をおっしゃっておられるのですか?お父様?」

「お前は人間ではない。兄上の遺した秘術で作り上げた、使鬼に過ぎん。そう言っている。

失せよ。もうその顔も見たくない」

「お父様?お父様―――」

「くどい!」

怒声に、刹那はびくりと震える。身をすくめた養女の様子など無視し、玄馬は天井を見上げた。

直後。

天上が、

それを為したのは、龍。何十メートルもあろうかという巨体が、もはや阻むものとてない上方から玄馬を見下ろしていたのである。

そいつは鎌首をもたげると、一気に襲い掛かってきた。

衝撃と共にそれを受け止める玄馬。恐るべき剛力であったが、しょせんは質量が違いすぎた。徐々に押し込まれ、全身の筋肉が断裂。骨という骨が破壊されていく。持ちこたえて後十数秒と言ったところか。

死に瀕した彼は、再び叫んだ。

「行け!私はお前の父などではない。刹那よ、振り返るな!前だけを見て走れ。走るのだ!!」

「あ———」

刹那は、後ずさった。何度も失敗しながら這う。立ち上がる。踵を返して走り出す。

「行け―——!!」

人間が押しつぶされる音を置き去りにしながら、少女を象った使鬼はひたすらに走った。

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