第166話 交渉と騙し討ち

【奈良県桜井市 能見屋敷】


古く、格式を感じさせる屋敷であった。

神社の神域を抜けた先。小さな社の奥、結界で隠された内側にこの屋敷はあった。古の時代より増改築を繰り返され、複雑怪奇な構造となったこの巨大建造物こそが能見一族の根城である。

今、この奥まった位置の客間に、三人の人間が通されていた。正確には人間なのは二人と半分であるが。

竜太郎、静流、マリア。そして、静流に連れられた刹那は、畳敷きの和室で主人が現れるのを待っていた。すでにかなり長い間。

異変でもあったか。皆が心配を始めた段階で、ようやく交渉相手が姿を現した。

屈強な男は昨夜静流が戦った相手である。彼は名乗った。

「お待たせしました。私は能見玄馬。宗主に代わってご挨拶させていただく」

「初めまして。僕は山中竜太郎。今日は火伏次郎の友人としてここに来ました。

こちらはマリア・ゼルビーニ。そして彼のことはご存知ですね。天乃静流です」

両陣営はにこやかに挨拶を終えた。少なくとも、表面上は。

席につき、茶が出された。ペットボトルだ。もちろん未開封である。

能見一族の超常能力ならば未開封のまま毒を盛るのも可能であろうが、竜太郎はあえて自ら中身に口を付けた。

「さて。今日はお預かり頂いている、僕の生徒を迎えに来ました。もちろん、引き換えにそちらの古文書はお返しします。お嬢さん共々に」

竜太郎の言葉に玄馬は頷くと、側仕えに命じた。「娘を」と。

ややあって襖が開き、入ってきたのは昨夜から変わらぬ姿のノドカだった。

「静流!みんなも」

本人であることを確認した竜太郎は、静流に対して頷いた。静流は巻物を取り出すと、刹那に手渡す。

そうして、捕虜交換が行われた。

囚われの身だった二人の少女は、卓を中心に各々の居場所へと帰還を果たす。

「これで交換は終わりだ。さあ、刹那よ。奥に行きなさい。私は彼らと話がある」

「はい、お父様」

巻物と刹那が共に部屋から離れたのを見送り、玄馬は改めて竜太郎に向き直った。対する竜太郎も居住まいを正す。

「さて。これで互いに最も難しい瞬間はやり過ごした」

「同感です。しかし僕らの業界にはこんな格言がありましてね。『帰るまでが遠足です』と」

「ほう?お仕事は何を」

「教師をしています。副業で妖怪ハンターもしていますが」

「となれば、あなたは人間か」

「ええ。あなたと同じです。しかし違う点もある。妖術など持っていないただの人間としてのお願いです。今後はその力に見合う節度を持った振る舞いを心がけて欲しい。これは僕だけでなく、友人の願いでもあります。そうすることで、あなた方もまた、我々の友人になれるでしょう」

「心しておきましょう。しかし……惜しい」

「はて。何がでしょうか」

「あなたの願いは叶わぬからだ。少なくともあなたの生きているうちには。―――やれ」

そして、部屋がした。

「―――!?」

部屋の四方から撃ち込まれた妖術は、そのままであれば竜太郎たちを全滅させていただろう。それを阻止したのは巨大な幾重もの翼の保護。咄嗟にマリアの背から広がった器官は一行の全員を覆い尽くし、守り通す事に成功したのである。

このために彼女は同行してきたのだ。

マリアが起き上がる。その身はすでに完全武装だ。剣と盾を手にし、鎧兜で身を守った勇ましい戦天使の本性を露わとしていたのである。後光が光輪となってあたりを照らし、その中で竜太郎は戦闘態勢を取る。静流もノドカを庇う姿勢。

その真向かいで、安全圏にいた玄馬は立ち上がっていた。屈強な肉体は膨れ上がり、着物は内側からはち切れそうな勢いだ。

彼は戦闘態勢を取りながら叫ぶ。

「者共、出合え!父上がやられた、使者を生かして帰すな!」

その叫びを聞き咎めた静流は絶句。これは一体。父上?

彼の疑問に答えたのは竜太郎だった。

「宗主がいないと思ったらそういうことか。この家はお家騒動の真っ最中だったらしい。僕らに宗主殺しの罪をなすりつける気だ!」

「なんやて……!」

幾つもの足音が、迫りつつあった。


  ◇


―――しとめ損ねたか。

玄馬は全身に力を込めた。巨大な神力が循環し、筋力を増強。更には高速で循環する神力があらゆる攻撃を弾き返す鉄壁の防御壁と化す。

相撲の古法は突く・殴る・蹴るの三手である。野見宿禰は当麻蹴速と角力すもうを取った際、互いに蹴り合った末にその腰を踏み折り勝利したという。

狙いは天乃静流。昨夜見た技からしても、彼が修めているのは野見より更に古い時代の相撲であることは明らかだ。すなわち、神を殺すための相撲。敵を掴み、握りつぶし、あるいは投げ飛ばして完全に肉体を破壊する千人力の超越者のみに許された神代の相撲である。玄馬の優位な点は経験。奴が少女を庇っている今こそ、確実に仕留めねばならない。

そこまで瞬時に判断した玄馬は踏み込んだ。その進路に立ちふさがったのは、山中竜太郎。ただの人間に過ぎない彼は踏み込むと、突っ込む玄馬に向けて手を伸ばしたのである。

鎧袖一触と思われたその瞬間。玄馬は、宙を舞っていた。

「―――おおおおおおおおおおおおお!?」

咄嗟に受け身を取り、床を転がり、壁を突き抜けて姿勢を回復。何とか身構える。

何が起きたか、玄馬は理解していた。いかに神力による怪力を持っていたとしても玄馬の体重は人間並みでしかない。それを利用し、バランスを崩して投げ飛ばしたのだ。何という技量!!

敵が隊列を組み替えた。天使が背後を守り、山中竜太郎が後退すると少女をカバーする。入れ替わるように前に出たのは天乃静流。守るべき少女を仲間に任せ、完全に力を発揮できる態勢を取った少年は玄馬と対峙する。

「おっさん……今度という今度は許さへんで」

「抜かせ」

じりじりと間合いを図る両雄。彼らが動き出したのは、能見一族側の援軍が到着した瞬間である。

飛び交う妖術を合図に、二人の角力すもうとりが飛び出した。

強烈なぶちかましの激突。両者の腕が互いの弱点を探して組み合う。捕まり、捕まえる。互いの姿勢を崩そうと激しくせめぎ合う。強烈なパワーとパワーがぶつかり合い、押せば引き、引けば押される。互いの力は互角に見えた。

されど、均衡はやがて破れる時が来る。

静流がじりじりと押され始めたのだ。バランスが崩れ、今にも持ち上げられそうだ。そうして、ある時点で限界が来た。

静流の胴体が持ち上げられる。

まさしくその瞬間、静流は押し返すと、玄馬のバランスを崩した。若さゆえの持久力で上回ったのである。

そうして、宙に浮いた玄馬を。静流は、一気に投げ落とした。

衝撃波が走る様はまるで爆発。それは、屋敷の床を大きくえぐり取るに至ったのである。

「か……勝った?」

疲労困憊の静流は、呆然と呟いた。凄まじい敵だった。一歩間違えれば自分が死んでいただろう。民宿で見た戦いがなければ、静流が敗北していたかもしれない。

生き延びたことを安堵すると、仲間たちのところまで後退。生きて帰るまでが遠足だ。

静流は、生き延びるための戦いを開始した。


  ◇


【奈良県桜井市 能見屋敷南東 結界内】


『おのれ……おのれ……玄馬め……許さぬぞ……』

重吾はまだ生きていた。いや、この表現は正しくない。彼の肉体は完膚なきまでに死んでいた。その霊魂のみが肉体を離れて活動していたのである。もっとも、戻るべき肉体のない今。その寿命はすぐに尽きる運命にあったが。

彼が魂を飛ばした先にあるのは、相撲神社の南側に広がる山林。

大地を這い進んで行く彼は、やがて小さな社が祀られた崖にまでたどり着いた。そうして、社の中のご神体に手を伸ばしたのである。

『こうなれば……皆、道連れにしてやる……皆殺しだ……』

取り出された小さなご神体は鏡。それは、大地へと叩きつけられるとあっさり砕け散った。

崖に張り巡らされたしめ縄が千切れ飛ぶ。地の底から振動が始まる。星空からいくつもの雷が落ちる。そして、崖が崩れるとぽっかり開く、地下への入口。


―――GGGGGGGRRRRRRRRRR……


この世のものとも思えぬ唸り声が、幾つも重なって聞こえた。

それはたちまちのうちに大きくなり、近づき、そして洞穴の奥にいくつもの光点が浮かび上がる。あれは瞳だ。人間のものではない目がいくつもいくつも、輝いているのだ!!

『くははは……さあ。滅ぼすがいい……化け物どもよ!!』

そいつらは、重吾の言葉を実行した。まず手始めとして、崩壊しかかった重吾の霊魂を食いちぎったのである。

それで満足する怪物どもではない。奴らは洞窟を飛び出すと歓喜の叫びを上げた。

復讐の時がやってきたのだ。

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