第158話 古の邪法
【奈良県明日香村 飛鳥寺付近】
「もうだめ……疲れた」
とうとう、ノドカがダウンした。
対する静流はまだまだ元気だ。基礎体力が違う。ふたりして近くの公園に自転車ごと入り込む。水筒の中身をごくごくと飲んでようやく落ち着いた。
「あいつら、なんなんだろ」
「さあなあ」
襲撃はすでに二回受けた。二回目もあっさりと撃退できたが。休む暇もありはしない。明日香村は観光地のはずだが、やたら広大な上に田畑が広がっていて通行量はお世辞にも多いとは言えないのである。人払いの結界もなしに超常の戦いが繰り広げられるのはおかしいが、仕方がない。
「で、結局その巻物押し付けてきた姉ちゃんって何者なん」
「わかんない。気が付いたら消えてたし」
かくかくしかじかとその時の様子を語るノドカであったが、ますます分からなくなる。顔に呪文を書いた布をはっつけた女?怪しすぎである。
「ま、助け呼んだ方がええかもなあ」
スマホを取り出し、ぽつぽつとネットの会議室に起きたことを書き込む静流。これでたまり場も事件が起きたことは伝わるだろう。今のところ急を要するほどではないにしても。
ふたりして巻物を広げ、中身を確認。本当にただの巻物ではあるっぽい。何が書いてあるかは分からないが。写真をぱしゃりと撮っていく。コピー可らしいし。
「これからどないしよか」
「バスが出る時間まで逃げ回って、一気にバスに乗って帰っちゃうとか」
「怒られそうやけどそれしかないかなあ。警察に駆け込むわけにもいかんやろし」
ふたりがかつて妖怪に襲われ、警察署に逃げ込んだ時は警官百人全員が操られていた。警察は役に立たたないとはっきりふたりが認識したのはこの時だ。普通の警察官は妖術で心を操られるのに抵抗するための訓練など積んでいない。
「ま、そういうことならしばらく隠れとこか。弁当も今のうちに食べな」
ふたりが取り出したのは今朝作った弁当。昨夜の肉じゃがやごはん、梅干し。奈良漬け、卵焼きが入っている。ミナにも朝出かける前に持たせた。彼女は毎朝、ノドカが出かける時にたまり場へ預けられている。保育所代わりだ。今日も、帰ったら迎えに行かなければ。
ふたりは気付かなかった。敵の包囲網が迫りつつある事実を。
◇
【奈良県桜井市 能見屋敷】
「……それで。子供にやられて逃げ帰ってきたというか」
深く、重苦しい声であった。
上座にて一族の者より報告を受けていた男は初老に差し掛かっているが、その体躯にはいささかの衰えも見られない。屈強な肉体を落ち着いた色の和服で包み、白くなった髭を伸ばしていてもその威圧感を抑える役には立っていなかった。
事の次第を報告していた若者は平身低頭である。彼は一刻も早くこの時間が終わることを祈っていた。
生きた心地が全くしていなかったから。
「役立たずどもめ。何のための鍛錬か」
「し、しかしその少年の力は我らより上でした!途轍もない怪力。驚くべき跳躍力。見切りの技。姿を消しても居場所を見破るのです。格が違いました」
「私が言っているのはそういうことではない。何故、相手の力量を見極めずに挑んだのだ。聞けば、その少年。此度の事件においては部外者ではないか。それをどうして敵に回した」
「そ、それは———」
「術で姿を消し、背後から懐剣で狙っただと?それも交渉の最中に?もはや話し合いの余地などないではないか!!
もうよい。下がれ。この愚か者ども」
「はは———」
若者を下がらせる。あんな愚か者であっても一族だ。そうでなければ、怒りに任せてばらばらに引き裂いていただろう。
初老の男は、深くため息をついた。
まさかこれほど大ごとになるとは。
下手人の女だけでも厄介なのに、今度は謎の少年ときた。それも相当な実力者。高位の術者かあるいは人に化けた妖怪であろうか。
一族の者たちの質も下がったものだった。彼らの間に伝わる術は世代を重ねるごとに著しく劣化していく。妖怪を起源とする超常のわざはいずれもそうだ。それを補うために様々な工夫を凝らしてはいるが、結局のところ根本的な解決法は二つしかない。一つは、妖怪から直接術を授かること。そしてもうひとつが、自らの手で全く新しい妖術を編み出すことだった。後者は難しい。不可能と言ってもいい。前者とて困難ではあるが、自ら術を産みだすよりはよほど簡単だ。何故ならば新しい妖術を産みだすことは、妖怪を産みだすこととイコールだからである。それも、自らの想いだけで。
今の若い世代は、劣化した術を継承するために膨大な努力を注ぎ込む。人間的な部分を鍛え上げるのに必要な時間はそれによって損なわれる。ささやかな超常の力を備えただけの未熟な人間の出来上がりだ。役に立たぬ。
伝承していく術そのものの新陳代謝が必要であった。
もっとも、稀に麒麟児が現れる。強力な妖怪に匹敵する者が、今でも何人かは育つのだった。
今、そばに控えている息子のように。
「父上。どうされますか」
「やむを得ぬ。秘伝書を取り戻すためならあらゆる手段を取らねばならん。警察にも手を回しておけ」
「はっ」
「それにしても、不幸中の幸いは秘伝書を今持っているのが価値を理解していない少年少女というところか」
秘伝書は何としてでも取り戻さなければならなかった。一族の長年の所業が妖怪ども、特に古老たちに漏れ伝われば大変なことになる。
彼ら能見一族の伝える妖術が絶えていないのは、絶えそうになるたびに新たに妖怪を捕らえて拷問し、術の秘密を吐かせているおかげなのだから。
長い期間をかけ、多くの妖術がミックスされた結果として能見一族の持つ妖術は多様化の一途をたどった。風を操る者。人の心を操る者。影から影へと渡る者。個々人で発現する能力も強さも異なる。
古の時代より続く一族のサイクルを絶やすわけにはいかぬ。
「玄馬よ。何としてでも問題の女を捕らえるのだ。秘伝書が戻ったとしても、奴をなんとかせねば問題の根本は解決せぬ」
「……父上。今回の件、やはり兄上が元凶でしょうか」
「で、あろうな。でなければ下手人の女が秘伝書を奪えたはずがない。まったく、あの無能め。死んでなお迷惑をかけるとは」
そうして、男は溜息をつくと息子に命じた。
「玄馬よ。お前も準備を」
「はっ」
退室していく息子。
ひとり残された男は———古のわざを伝える人間の一族の宗主、能見重吾は、目を閉じると思索に入った。
◇
【奈良県桜井市 能見屋敷 子供部屋】
「おじい様の様子はどうでしたか、お父様」
部屋に入った能見玄馬は、駆け寄ってきた子供たちを見下ろした。二人ともまだ若い。この姉弟の歳は十三である。
玄馬が子供たちの部屋を訪れたのは、自らの役目を再確認するためだった。次期宗主としての務めを果たし、一族を存続させていくための。
「そうだな。父上は機嫌がお悪い。おまえたちも邪魔をしないように」
「はい」「はーい」
「孝明。術の修行は進んでおるか」
問われた息子は、笑顔で頷いた。彼には妖術の才能がないと思われていたが、最近ようやく開花しつつある。それもこれも、隣に控える姉、刹那のおかげであろう。彼女は末の分家より孝明を補佐させるために玄馬の養子となった身だ。
「孝明。刹那も聞くのだ。
父上―――お前たちのおじい様は苛烈だった。私の兄は、術の才がなかったばかりに一族より追放されたのだ。孝明も、術を修めることが出来ねばそうなる運命であったろう。お前たちの子とて、術者の才があるかどうかは分からぬ。
だが、私は父上とは考えが違う。才無き者も守って見せる。それが一族である限りは。お前たちもどうか、姉弟で助け合い、一族の者を守っていって欲しい」
頷く子供たちに、玄馬は表情を綻ばせた。
玄馬は重吾とは違う。一族を存続させていくためなら。いや、息子を守るためならば、使えるものはすべて使う。例えそれが、追放された兄の遺産であったとしてもだ。
その結果が今、苦難として降りかかっていても構うものか。
「では私は仕事に行かねばならぬ」
「行ってらっしゃいませ、お父様」「いってらっしゃい」
いざとなれば自らの父をも取り除く覚悟で、玄馬は部屋を後にした。
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