第十章 野見神社編
第156話 相撲とくせ者
【奈良県桜井市穴師 相撲神社】
月のない夜だった。
ここ、相撲神社の境内は静かだ。
今。祠の奥に結界で隠された空間の静寂は破られようとしていた。
「あっちだ!追え!!」「秘伝書を取り戻せ!!」
広大な敷地を駆け抜ける者は異相である。それは小鬼。人の膝ほどしかない、まるで絵巻物から抜け出てきたような生き物が背中に不釣り合いな大きさのリュックを背負い、四肢を用いて駆けているのである。常人が目にすることはできない。その存在は不可視であったから。
とはいえ、追跡者たちにとってはその事実は問題とはならない。何故ならば人間の姿をした彼らは、皆が霊的な感覚を備えていたからである。
「あそこだ!」
叫びに、追跡者の一人が立ち止ると気を練った。次の瞬間に掌から放たれたのは雷光。強烈な一撃は小鬼を逸れ、その向こうにあった松の枝を根こそぎとする。
「やめろ!秘伝書を焼く気か!?」「術は使うな、素手で捕らえよ!」「逃げるぞ!」
結界を飛び出し、神社の敷地をも超え、道に入る小鬼。田畑の中に人家はまばらだが、先に進めばそうではない。それなりの人口が存在する、人家の密集地に突入する。そこまで逃げられればもはや追跡は不可能であろう。
だから追手の一人は懐に手をやった。それが引き抜かれた時、握られていたのは懐剣。
鋭い一撃が投じられた。攻撃は、小鬼の首をえぐり取る。
勢いそのままに転がっていく小鬼の屍。それは田畑の
「やったぞ!」
歓喜の声を上げた追跡者たちが殺到しようとしたところで、畔に植えられていた木の陰から人が姿を現した。フードで顔を隠したそやつは跪くと、落ちた小鬼とそのリュックを拾い上げる。
「あらあら。可哀そうなことをした。まさか殺されてしまうなんて」
女の声だった。
掌の上で崩れ、灰と化して消滅していく小鬼。それを払ったフードの女は、リュックの中身を検める。
取り出されたのは、ひとつの巻物。
「仕事はしてくれたみたい。感謝しなくちゃ」
「―――それは我々のものだ。返してもらう」
あっけにとられていた追跡者たちは、身構えると誰何した。状況からして、こやつが小鬼を操っていたに違いない。
対する女は首を傾げると、被っていたフードを降ろした。
それを見た追跡者たちは我知らず後ずさる。何故ならば、敵の姿があまりに異様だったからである。
顔に張り付けられているのは一枚の布。無数の呪を書き込まれた白い面布によって、そ奴の正体は隠されていたのだった。
「断る。って言ったらどうする?」
「ならば、力づくで取り戻すまで」
追跡者たちは気を練ると、各々が自らの術を行使した。掌に雷を集め、炎を灯し、あるいは冷気の刃を構えたのである。
対する女がやったことは、指を鳴らすことのみ。
―――気配が、変わった。
女が身を隠していた木が揺れた。かと思えばそれは引っこ抜かれ、そして宙に持ち上がったではないか。
「な―——」
追跡者たちには見えていた。先ほど同様不可視の小鬼どもが十数匹も力を合わせ、樹木を持ち上げている姿を。
小鬼どもの名を家鳴り。日本各地で古より伝わる、家や家具と言った重量物を持ち上げ揺らす怪異である。
女は、この低級妖怪を操ることができるのだ。それも多数。
持ち上がったのは木だけではない。畔に転がっていた大きな石。農具小屋のトタン。その中から持ち出されたいくつもの農耕器具。分解された水路の構造物。
それらが一斉に投げつけられればどうなるかは、火を見るよりも明らかである。
「これでも、やる?」
「……!問答無用!」
火炎が投じられる。それは女の髪をかすめて飛んでいった。
「ふうん。やるんだ」
そうして、女は攻撃を命じた。家鳴りどもに持ち上げられた樹木が、農具が、金属部品が、トタンが、ありとあらゆるものが追跡者たちに襲い掛かる。
死闘が開始された。
◇
【兵庫県神戸市 阪神高速3号神戸線】
薄紙が、ふよふよと飛んでいた。
いや、飛ぶというほどではないか。掌の上で浮かんでいるのである。つかず離れずの距離を。
それをじっと見つめているのは、制服姿の静流。周囲の席では身を乗り出して何人もの男子生徒がその様子を見ている。
やがて、薄紙。一枚のティッシュペーパーは掌に着地。それを見た男子たちが「おおー」と感心の声を上げる。
そこで前方から声がかかった。「こら。ちゃんと座ってシートベルトをしなさい!」
担任の指示である。男子たちは座席に戻ると、シートベルトを締め直した。
最後に、静流の左隣。窓側に座る男子が問う。
「凄いなこれ。どうやってるん」
「ただの手品や。そんな騒ぐことやあらへん」
「そんなあ。種教えてよ」
「教えたら手品ちゃうやろ。諦めい」
あしらわれた男子は、諦めたのか窓の外で流れていく景色に視線をやった。
高速のバスの中であった。学校行事の校外学習に向かう中である。
「ねえ。それって前におじさんがやってたやつ?」
通路を挟んだ反対側に座っていたノドカが尋ねた。頷く静流。
それで、二人の間では今の手品が何なのか、認識が共有された。
おじさんとは建御名方のことだ。彼は以前手も触れずにキッチンを操り、野草や魚を調理させていた。あらゆる事物に宿る"神"を従えたあの力の再現。もっとも、静流ではティッシュペーパー1枚浮かせるので精一杯だ。料理をさせるとなるとどれほどの修行が必要になるか。
ましてや、矢除けの神力にたどり着くのはずっと先だろう。
静流は直接見ていないが、建御名方は天使マステマの矢すら矢除けの神力によって阻止したという。山中竜太郎は投石でその力を破ったとも。
人間に破れるなら、人間の静流が使うこともできるはず。
それを目標に修行中である。前回、猟師相手に戦って分かった。ライフル相手だと硬気功は効力が過剰である。消耗も激しい。もう少し使い勝手の良い防御手段が必要だった。
「無茶はしないでね」
「分かっとる。
―――は、はくしょん!……冷えたかな」
神力を引き出す武神の相撲も風邪は防げないらしい。マスクを下ろし、ティッシュペーパーで鼻をかむ。役目を終えたティッシュに感謝の念を捧げてゴミ袋に入れた。
「それにしても、奈良って初めて」
「そういやノドカ、日本に来たんは四月からやもんな」
バスの目的地は奈良県明日香村である。史跡が多数存在する場所だ。事前に仕入れた話では妖怪の人口密度も高いらしいが、もちろん静流とノドカ以外はそんな事実は知らない。
「ま、今回はさすがに事件も起きひんやろ。のんびり見てったらええんちゃうか」
「うん」
ふたりはクラスが違うから班も別々だ。バスが一緒なのは学校側ができるだけ少ないバスに生徒を詰め込んだ結果である。静流がノドカに付きっ切りというわけにはいかない。
「いざとなったら真っ先に逃げるんやで」
「分かった」
そうして、多くの中学生を乗せたバスは一路。東へ走っていった。
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