第151話 寛大な申し出

「げ。これ不味くないか」

静流は、突然山中に流れ始めた般若心経に顔色を変えた。雪が怪訝な顔をするのに説明してやる。それを聞いて、雪も青くなった。幽霊の雛子はお経に弱いのだ。

現に、槍使いの女が遮蔽から出てきたというのに雛子が攻撃する様子はない。

「雛子さん、動けますか」

「……」

雪の問いかけにも返事はない。お経の威力で声を出すことさえできないのだと察せられた。

「雪。お前の術であのお経読んでる奴攻撃でけへんか」

「難しいが、やってみる」

ミナの誘導に使っているものを除き、一度分身体をすべて引っ込める。精神を集中する。影から、何十何百という鼠が湧き出て来た。

一群となったそれらへ命じる。

「―――やれ!」

影でできた鼠の群れは岩場を乗り越え、斜面を恐るべきスピードで降り始めた。直後、銃声が響き一匹が吹き飛んでも動きは止まらない。銃弾では群を全滅させるのは不可能だ。例え敵がライフルでなく猟銃を装備していても同じだったろう。散弾ですらネズミを全滅させるには足りない。

それは、お経の出所を目指して一気に突き進んでいく。

そこへ、やや上方から飛んできたのは火が付いたガラスの容器。火炎瓶であった。

「―――!」

それは、ネズミの群れを巻き込んで油をまき散らし、炎で包み込む。火炎瓶による攻撃は完璧な効果を発揮していたのである。

たちまちのうちに焼け死んでいく無数のネズミたち。やられる側から新たなネズミが、数を補充していくが焼け石に水だ。被害のあまりの大きさに力が吸い取られていく。

咄嗟に術を解除した雪だったが、無理に術を中止した反動は大きかった。息が荒くなる。まさかこんな方法で術が破られるとは。

そして何よりまずいのは、ミナの誘導に使っていた分身もこれで消えてしまったこと。

「しくじった。火炎瓶?だったか。それを喰らった。術をもう一回かけるには暇がかかる、その間に奴らが来るぞ」

「分かった。任せとけ」

棍棒代わりの太い木の枝を拾い上げた静流は、下を確認した。槍を持った女が駆け上がってくる。ドーベルマンも。味方が接近戦を挑んでいるところへ火炎瓶を投げつけはしまい。ひとまず一人と一匹を撃退できれば勝機はある。

たちまち距離を詰めて来た女が振るった槍を、受け止められればラッキーくらいの心持ちで横殴りにする。失敗。槍の鋭い一撃は腕を半分切断しかける。「子供―――!?」女が驚愕の表情を浮かべた。生じた隙に棍棒の一撃。槍で受け止めた女がよろめく。静流のパワーは怪力自慢の妖怪に匹敵するのだ。垂れさがっていた腕が再生する。両腕で棍棒を掴みなおす。相手が態勢を崩したところに追い打ちしようとして、犬が来た。蹴りを巧みに躱される。

そこへ、立ち直った女が槍を振り下ろしてきた。今度はかろうじて防御。精妙な力加減で静流が押される。パワーでは静流が圧倒しているが、足場が悪すぎた。無理やり押し返す。返す刀で木の枝を振り回したのを、女は後ろにジャンプして回避した。そのまま斜面を落下するかと思われたが。

「嘘やろ」

槍の石突を支えにして向こうの足場までする女の様子に静流は絶句。とんでもないアクロバティックな回避だ。だが、それでも組み付けば勝てる。とびかかろうとしたところで。

銃声。銃弾が側頭部に当たり、静流の意識は飛びそうになる。とっさに硬気功で防御したが、厄介にもほどがある。防御し損ねれば頭を撃ち抜かれて死ぬという事実を、静流は強く意識した。

「雪。そろそろ大丈夫か」

「ああ。だが迂闊に術を使ってもまた燃やされる」

「そうやな。雛子の姉ちゃんもおいてくわけにはいかんし、こりゃあ厄介やで。竜太郎のおっちゃんが捕まったんも納得や」

と。そこに飛来してくる火炎瓶をかわして雪が飛び出した。遮蔽が失われた彼を庇う位置に飛び出した静流の腕に、再び弾丸が命中する。

「すまん!」

「つぅ……」

燃え上がる炎が静流たちと雛子を分断する。どうすれば。

「マジできっついわあ。どないしよか」

女とドーベルマンが、再び詰め寄ってきた。


  ◇


『緒方さん!子供ですよ!?』

「落ち着け畑中。人間の子供は切断されかけた腕が一瞬でくっついたりしない。頭を撃たれて平気でもない。そいつは妖怪だ。人間に見えるが惑わされるな」

緒方は、畑中の抗議を受け流した。あそこで撃たなければ畑中がやられていたからだ。敵は幽霊だけではない。ネズミの群れを操る奴。そしてあの子供に見えるが撃たれても死なない奴もいる。河童以外に三体もいると見ていいだろう。

そしてあの子供、見覚えがあった。その後一瞬だけ姿を現したもう一人も。朝に自動車に乗っていた。ちらりとだったが間違いない。山中竜太郎といったか。あの男が連れていた子供たちは恐らく全員が、妖怪。奴は妖怪とグルだったのだ。驚くべきことだが。だから河童の味方をしたのだろう。

想定外にも程がある。撤退すべきだったが、そうできない理由があった。

後退すれば黒木の読経は届かなくなるだろう。そうなれば幽霊は自由になる。弓で反撃されれば誰かが犠牲になりかねない。せめて敵を減らしておかなければ生き残る術はない。

とはいえ一気に攻め立てるのも難しい。膠着状態に陥りつつあった。

「クソ」

緒方は、照準をつけた。


  ◇


「河童が人を襲ったというが、一体何があった。話してくれないか」

捕虜の言葉に、晴彦はびくんと震えた。

畑の合間に生えた木の下でのことである。そこに縛り付けられているのは山中竜太郎。先ほど凄まじい戦いをやってのけた四十代の男だ。こいつの監視が晴彦に与えられた任務だった。晴彦には戦いの役に立つ技能が何もなかったから。

「な、なんだ。知ってて庇ったんじゃないのか」

「ああ。知らないな。だから聞いている。ひょっとしたら考えを改めるかもしれないぞ」

「……俺は以前、釣り人の間で有名な、誰もたどり着けないって触れ込みの池に迷い込んだことがあるんだ」

「ここの奥にある上の池か」

「そ、そうだ。そこで釣りをしようとしていたら、河童が突然襲ってきたんだ。骨を折られた。危うく死ぬところだったんだぞ!」

そこまでを話した晴彦は、息を整えた。大丈夫だ。こいつは縛り上げられている。自分に何もできやしない。

しかし山中竜太郎は、こちらが息を整える間もなく言葉を発した。矢継ぎ早に。

「そうか。それはおかしいな。、ここの人は釣り人が迷い込んで来たくらいで目くじらを立てたりしない。騒ぎになっても困るからね」

「な、なんだと」

「そんな彼らも先日の釣り人のふるまいには腹を立てたそうだよ。何しろその釣り人は、持ち込んだ外来魚を池に放流しようとしていたんだからな。環境破壊だよ」

「か―——環境破壊?ブルーギルの放流が環境破壊だなんて世迷いごとだ!環境環境ってうるさい馬鹿どもはみんな俺たち釣り人のことをそんな風にけなすんだ!!」

「おや。僕はブルーギルだなんて言ってないぞ。先日の釣り人というのが君だとも言っていないんだが。ひょっとして心当たりがあるのか」

「~~~~~!?」

「オチがまた傑作でね。さすがに見とがめた河童の三吉が脅かしたところ、その釣り人は勝手に驚いてひっくり返った挙句に大けがをして気絶してしまったんだ。三吉やここの人たちは仕方なく、下のバス停のベンチまで運んでその釣り人を寝かせた上に救急車まで呼んでから帰ったらしい」

もはや晴彦は興奮し、顔は真っ赤になっていた。頭の血管から血を噴いて死んでしまいそうだ。

「まあここまでなら単なる笑い話だ。釣り人が助かってるならね。その様子なら、どうやら心配はしなくてよさそうけれども。

しかし―——ひょっとして、仲間にもその話をしていないのか。自分が馬鹿をやらかしたのを隠して、河童の三吉に復讐するためだけにこんな大騒ぎを起こしたのか、君は」

「だ———だったらどうするって言うんだ!?お前に何ができる、今のうちに口を塞いでやろうか?逃げようとしたから殺したと仲間には言うさ!」

ナイフを取り出した晴彦に対し、竜太郎は冷徹な視線を向けた。

「言ったはずだ。僕を殺そうとするならば、君たちは生きてここから出ることはできないと」

そうして、山中竜太郎は。己を縛り上げていた縄を振りほどいて。

ぽかんとする晴彦。

「……へ?」

「なかなか見事なロープワークだ。あの畑中という人は優れた登山家でもあるんだろうな。抜け出すのに苦労したよ。君が気付かない間抜けで助かった」

「あ……あ……」

「実を言うと僕はまだ人間を殺したことが一回もないのが密かな自慢でね。さっきはああ言ったが君ごときでこの記録を中断するのもしゃくだから、半殺し程度で済ませてあげようと思うんだ。どうかな」

「ひぃっ……!?」

竜太郎の寛大な申し出に、いやいやと半泣きになりながら後退する晴彦。この男一人では、熟練猟師のライフルすら互角に相手取る妖怪ハンターに抗するのは不可能だった。

晴彦は、半殺しとなった。


  ◇


「やれやれ。無駄な時間を取りすぎた。さっさとカタを付けないと死人が出るぞ」

竜太郎は、倒した晴彦の荷物をまさぐった。無線機とスマホを確保する。あと、こいつがもっていた自分の物を取り返す。投石紐も含めて。

荷物をまとめる段階で、彼は顔を上げた。

「りゅうたろ、りゅうたろ!」

とてとてと走ってきたのは、ミナ。どうやらはぐれたのか。見た限りでは無事なようだった。

「おや。ミナ、こっちにおいで」

「りゅうたろ、ミナね、おいもほるー!」

「そうだな。お芋を掘らなきゃな」

よっこいしょ。とミナをおんぶしてやる。そうして無線機のスイッチを入れようとした彼は見た。

空を横切っていく、翼持つ人影を。

コミュニティから誰かが助けにきたのだ。誰だろう。まあ誰でも問題はない。これでバカ騒ぎは終わる。

願わくば、死人が出ていませんように。

そう祈りながら、竜太郎は無線機のスイッチを入れた。

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