第九章 狩猟者編

第146話 河童とため池

【兵庫県神戸市西区押部谷 ため池】


古いため池であった。

ここから見下ろせる谷間に広がるのは収穫を待つ田んぼであり、それに沿って山側を延々と伸びているのは神戸から三木、そして小野までを繋ぐ交通の動脈だ。不景気とコロナ禍の合わせ技でいくつもの飲食店が閉鎖した後も多くの車が走り、ガソリンスタンドは赤々と電灯を付け、道沿いには単線とはいえ神鉄の列車まで走っている。田舎といえば田舎ではあるが、人間の勢力が極めて大きい土地であった。

そんな場所に、妖怪の隠れ里があるとは。

山々の合間、谷戸やとの奥に隠れたそこと人間界の境界線上にあるため池に住む河童カッパ三吉さんきちは、のんびりと夜景を眺めていた。

―――外界は災害やら世界的な疫病やら隣国がおっぱじめた大戦争やらで大変らしいが、ここはいたって平和。たまに結界を破って人間が入ってくるくらいのことだ。

だから、今夜もそんな人間が迷い込んで来たのだとばかり思っていた。

やってきたのは数人の男女。以前にも似たようなのを見た記憶がある。あのときは奥にあるもう一つの池にまで侵入し、悪さをしようとしていたものだった。脅かして撃退したが。勝手に転んで怪我をした挙げ句に気絶して大変だった。今度もそうならまた追い払わねばならない。なるべく穏便に。

三吉に誤算があったとすれば、二度目の人間たちは準備をしていたということ。

重い腰を上げ、草むらに紛れて忍び寄ろうとした段階で犬が吠えだした。厄介な。

更にライトだけではなく、松明までつける人間。さすがにここで三吉もおかしいと思い始める。今時松明?

次の瞬間、飛んできたものを見て三吉は死ぬほどたまげることになった。

炎を尾のように引いて投げつけられたのは火炎瓶。ガラス瓶などに可燃性の油を詰め、ぼろきれなどを突き刺して火をつけた武器である。

三吉を外れて飛んでいった火炎瓶が砕け、中の油に点火。草むらを炎上させた。

―――こいつはやばいぞ!

三吉は武装した人間たちの恐ろしさをよく知っていた。江戸時代から生きているのだ。

だから彼は撤退しようとした。その段階で。

「わん!わんわん!!」

突っ込んで来た犬に手間取っていると、裂帛の気合と共に突っ込んで来たのは手製であろう槍。こんなものまで!!

命からがらひっくり返った三吉は、見た。「どけ!!」という男の叫びに、槍使いや犬が後退する様子を。

彼らがどいた向こうからこちらを狙う、ライフル銃の姿を。

三吉が池に飛び込むのと、銃が放たれるのは同時。

ぼちゃん!

襲撃者たちが駆けつけた時、そこに残っていたのは血痕だけだった。

獲物に逃げられた彼らは、周囲を警戒しつつもこれからを話し合う。

「―――クソ。逃げられた」

「だが手ごたえはあった。見ろ。この血痕を。奴は血が流れている。殺せるってことだ」

「しかし……本当にカッパがいるだなんて」

「写真はどうだ」

「写ってない。おっかしいな。何度もとったのに一枚もだ。これ高感度カメラだぜ?

動画の方はこれから確認する」

「分かった」

「これからどうする」

「ひとまず引き上げよう。これ以上は危険だ。明日、日が昇ったらもう一回だ」

そして猟銃を持った壮年の男。彼らのリーダーは、告げた。

「妖怪め。息の根を必ず止めてやる」


  ◇


【兵庫県神戸市西区押部谷 県道】


「おー。田舎やなあ」

「まだ神戸市内だ。この程度で田舎と言ってたら本当の田舎に失礼だぞ」

ハンドルを握った竜太郎は苦笑した。彼の運転するレンタカーに乗っているのは静流やノドカ。そしてノドカとマステマの娘であるミナ。もう3歳かそこらに見える。まだ生まれて2か月も経っていないというのに。

そこに雪を加えて全員だった。見えないが、雛子がバイクで並走しているはずだ。以前のときの反省である。目的は、今まっすぐ進んでいる県道を脇に入った先である。そこにある妖怪の隠れ里が目的地だった。

こんな人間の多い場所で隠れ里が、と知らない人間ならびっくりするだろうが、それを言うなら三宮のど真ん中や梅田にだってあるのだからこの程度は驚くに値しない。

左手に川や田んぼ、ため池が広がる中をレンタカーは進む。やがて適当なところで右折。神鉄の踏切を乗り越え、住宅と畑や田んぼの合間の緩やかな道を登り、そこそこあるため池が見えた。その横に止まったワンボックスカーと数名の男女も。

ただならぬ気配を感じた竜太郎はその後ろに止める。

「どないしたん?」

「あれだ。ちょっと声をかけてみる。念のため警戒を怠るなよ」

静流に告げると車を降りる竜太郎。そしてそこから、男女のグループに声をかけた。

「こんにちは。釣りですか」

「ああ。こんにちは。いえね。バードウォッチングですよ。なんでも珍しいのが出たらしくてね。若いのに連れられて来ました。今年は暑かったからかもしれませんなあ」

「なるほど。見られるといいですね」

「ええ。全くです」

応対したのは壮年の男性。多分あのグループのリーダーだろう。その物腰がただ者ではないことに竜太郎は気が付いた。格闘技経験もあるのだろうが、それよりもフィールドワークに習熟しているのであろうことが伺える。猟師かもしれない。

「ところでそちらは?」

「ああ。子どもたちを連れて、知り合いの農家のところまで。芋掘りをさせてもらうんですよ」

竜太郎の返答である。嘘ではない。本当に芋掘りが目的だ。知り合いの農家が妖怪なだけである。

「なるほど。楽しめるといいですね」

「全くです。それでは」

そうして、竜太郎は運転席に戻った。車を発進させ、ため池の横を抜けていく。ある程度進んだところで、ようやく緊張が解けた。

見た目はただの田園風景だが、すでにここは古い隠し田に作られた隠れ里の結界の中だ。意図的に普通になっている。ご丁寧なことに駅はあちらとかこの先行き止まりと看板まであった。迷い込んだ人間対策らしい。それほど強力な結界ではないのだ。結局のところ人間に発見されないためには人間の習性を理解することが肝要なのだった。

やがて、一軒の農家の横のスペースにレンタカーは止まる。到着だった。そばでも1400CCの排気音。雛子がバイクを止めたのだろう。

エンジンを切った竜太郎は、皆に告げる。

「さ。車を降りて。挨拶に行こう」


  ◇


「緒方さん。どうしました」

壮年の男は振り返った。問いかけてきたのは若い女。これでも宝蔵院流槍術の達人であることを、緒方と呼ばれた男は知っていた。名を畑中。実質的なサブリーダーである。

「さっきの親子連れ、気付かなかったか」

「ああ。あのおじさん、隙が全くありませんでしたね。警察官か自衛官かなあ。それにしたってありゃあ相当やり込んでます。毎日トレーニングしてるのは間違いないかな。学生の頃から鍛えてたのかも。特殊部隊と言われても信じます」

「俺も同意見だ」

「なにか問題でも?乗ってた子どもたちは普通でした。特殊部隊員だって家族サービスくらいはするでしょう。嘘ではなさそうですが。いや、たとえ嘘だとして、私たちの敵は人間じゃあありません」

「言いたいことは分かる。分かるが…何というかな。空気が違うんだよ。」

「気が立ってるのはわかります。久々に本物の化け物ですもんね。確実に仕留めなきゃ」

「そうだな。こういう時こそ冷静に、だな。間違えて人間撃ったらえらいことだ」

「そうそう。それでこそ緒方さんです。頼みますよ、リーダー」

「年寄を冷やかすな。しかしそうだなあ。熊撃ちが何の因果か、妖怪相手のハンターやる羽目になるたあなあ」

そうして、妖怪ハンターチームのリーダーは仲間たちへ呼びかけた。

「よおし。集まってくれ。今度こそ河童のやつを仕留めるんだ。人間を襲うとどうなるか、化け物に思い知らせてやれ」

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