第八章 犬神編
第141話 黄昏刻と魔犬
逢魔が時であった。
太陽が地平線の彼方に沈む、ほんの少しだけ前。夕日に照らされる街並みはせわしない。そんな慌ただしい、帰途に就いた人々の合間を抜ける一人の男子学生の姿があった。
制服を着た彼の動きは通行人以上にせわしない。息も絶え絶えで走っているのである。時折背後を確認しながら。公園の横を抜ける。路地を走る。大きな車道に行く手を阻まれ、右に曲がって更に走る。通行人に激突。「ちょっと!ぶつかっといてごめんもなし?」そんな抗議も無視して走る。今はどうでもいい。あいつから逃れられるのであれば。
歩道橋を駆け上がり、向こうへ行こうとした段階で。男子学生は、退路を断たれたことを悟った。
何故ならば行く手を遮っているのは、体重が三百キロはありそうな巨大な黒犬であったから。口から炎をちょろちょろと漏らしているそいつは明らかに尋常の生物ではないが、通行人たちは気にする様子はない。向こうから来た小学生たちは気付かずにそいつの真横を抜けてくる。見えていないのだ。男子学生以外には。
踵を返そうとした段階で、黒犬は猛ダッシュ。一瞬で距離を詰めると、そいつは男子学生の制服の裾に噛みつき、振り回しそして放り投げる。
歩道橋から。
「うわああああああああああああああ!?」
衝撃。
自動車が急停止し、通行人たちの悲鳴が上がる様子も男子学生には聞こえていなかった。ただ、彼が最後に認識したのは巨大な黒犬が道の向こうからじっと見つめてくる様子。
その光景を最後に、彼は意識を喪失させた。
◇
【兵庫県神戸市三宮 旧居留地東洋海事ビルヂング2階 食堂"季津菜"】
「で、その犬消えてったんですよー。すーって。こおんな馬鹿でかいのがー」
そして、日高法子は説明を終えた。
たまり場でのことである。
この、ごく普通の女子高生がたまり場へ顔を出すようになったのは先月のこと。後輩に紹介されたからだった。宇宙人に誘拐されて改造手術を施されたのをきっかけに。
話を聞いていたのは居合わせた常連が数名。そのうちの一人である竜太郎は頭を捻った。
「なるほどな。しかし犬か……」
犬にまつわる怪異は数多い。人間とのつながりが深い生き物だからである。長じた動物が化け物となって人間に仇を為したり、逆に化け物から主人を救う犬の話など枚挙に暇がない。
「例えば"送り犬"という妖怪がいるが、こいつは人間の後からついてきて、隙を見せると食い殺してしまう。転んだりとかだな。避ける方法は転んでも座ったふりをしたりして休憩するように見せかけることだ。イギリスにも似たような話がある。人を殺す黒い犬で、目が輝いている。ブラックドックという。シャーロック・ホームズの『バスカヴィル家の犬』の影響で火を吹くと信じてる人もいるな。人間の死体を喰う狗頭人身の
そうそう。後は犬神」
「犬神?」
「ああ。古い呪術だ。平安時代にはすでに禁令が出ている。作り方はこうだ。犬の頭だけを出して生き埋めにし、飢えさせてから首を刎ねる。怨念に満ちたその犬の死霊を使役する呪詛だな。昔の人々が大変に恐れていた呪いの一種だよ」
「うわあ。勘弁してくださいよ。そういうの苦手なんですって」
「大丈夫だ。人間の行う呪術なんて何の力もない。例外はいくつかあるにせよ」
「あるんだ……」
「まあ、本物の妖怪。それもかなり高位の術者から術を直接授けられたり力を借りられるなら別だが、そうでもなきゃ人間が術を行ったって何にも起きないよ。安心していい」
「へーい……」
「そもそも並みの怪物より今の君の方が強いぞ、日高。大抵の妖怪はガトリングガンで撃たれれば死ぬし、網野の術で十何回も殴られないとノックダウンしないほど頑丈な装甲を破れる奴はそういない」
「せんせー。それってひょっとして、安心させようとして言ってます?」
「そのつもりだが」
「うへー」
改造手術で法子が得た力はとんでもないものだ。ちょっとした戦車並みの戦闘力はあるのではなかろうか。その代償として、服を脱げば明らかにわかる改造の痕跡が残っている。体が成長することも、子供を産むこともこれから先ない。ごまかす機能があるので日常や学校での生活でも何とかなりはするだろうが。
法子が頭を抱えている間に、竜太郎は店内のテレビを見上げた。ちょうど地域ニュースが始まり、先ほど起きたばかりの転落事故を報じ始めたからである。
「あれか」
「そうっす。マジでびっくりしたんですって」
画面ではレポーターが学生の転落事故を報じている。犬の話は全く出てこない。被害者の学生は重体で搬送されたそうだ。
「塾の帰り、か。ふむ。調べてみる価値はあるな。
雛子ちゃん」
「はい」
突然聞こえてきた女の子の声に、法子はびくりとした。見えない彼女の名は小宮山雛子。幽霊である。竜太郎の助手という話だがいまだにちょっとびびる。宇宙人は平気だが呪いやお化けはダメなのだ。それらが本質的に同じものだと今は知っていても。
「これを食べたら現場に行こうか」
「分かりました」
そして、テーブルに置かれていた料理がどんどん減っていく。雛子が食べているのだ。知らなかったら超常現象である。いや、知っていても超常現象であるが。
店の人間たちは慣れたもので、気にする様子はない。
「とんでもないことになっちゃったなあ」
「慣れないか」
竜太郎の言葉に頷く法子。しかし、これから先ここに頼るしかないのだ。法子はもう、人間ではないのだから。
「まあ大丈夫。そのうち慣れる。僕もそうだった」
「そう願いますよー」
「それで日高。今から事件現場に行こうと思うが、送って行こうか。どうせついでだ」
「おねがいしまーす。帰り道だし。せんせーが一緒だと心強いし」
「決まりだな。そうそう。万が一件の犬に遭遇しても迂闊にガトリングガンを撃たないように」
「心配するのそっちですかーい」
「街中だからな」
真顔で返された法子は、それがジョークだということに気付くのが一拍遅れた。
竜太郎が残った食事をたいらげる間に、法子はジュースを飲み干す。
荷物を確認。大丈夫。忘れ物はない。
よっこいしょ、と三人は立ち上がると会計を済ませ、店を出ていった。
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