第87話 もう一人の天使

【旧居留地東洋海事ビルヂング 屋上】


「あっちいなあ……」

静流は、空を見上げた。

コミュニティのビルの屋上でのことである。テントが設置され、多数の短冊が吊るされた笹が飾られている。七夕である。

妖怪もこういう行事をやるんだ、と知った時は驚いたものだったが。

今年の七夕は金曜日だ。学校が終わり、家から自転車でやってきたのである。ノドカに会いたい、という人が来るらしい。静流は付き添いだ。とはいえ早く着きすぎたので、こうしてのんべんだらりとしている。

「平和やなー」

「そうだね」

日陰でジュースをちびちびと飲む二人。今日はよく晴れた。先週、豪雨の中の死闘が嘘のようだ。

ふたりはあれから普通の生活を取り戻した。学校も変化はない。ただひとり。田代が行方不明になったことを除いて。彼がもう帰ってこないことを知っているのは、学校では静流とノドカだけだ。彼は化け物に脳みそを喰われて殺された。こんな事件が人知れず、この世界では起こっているのだ。火伏が言うには妖怪に襲われる心配をするくらいなら交通事故に遭う確率の方が高いからそっちを気にしろ。とのことだったが。

「もうすぐ夏休みやなー。ノドカ、何する」

「どうしよう」

ほとんど着の身着のままでこの春、日本に逃れてきたノドカ達親子には自由になるお金がほとんどない。勉強とか近場に行くくらいしか無理だろう。母子家庭の静流も事情は似たようなものだ。

まあ、問題はない。大冒険を繰り広げ、妖怪の世界に足を踏み入れた二人にとっては。誰にもできない体験を、たくさんすることができるだろう。

願わくば、平和でありますように。そう、二人で短冊に書いた。

「……あー。マジで暑いわ。中入ろか」

「うん」

ふたりは暑さから逃げるように、ビルの中へ戻っていった。


  ◇


【旧居留地東洋海事ビルヂング 食堂"季津菜"】


ふたり連れだった。

一方は髪の色がくすんでいる、白人の老婦人。上品な身なりだが、ごく普通の観光客風に見える。

もう一方も白人女性だが、こちらは若い。二十代前半といったところか。豊かな金髪と美しい顔立ちに対して、ノドカはどこか見た覚えがあったが誰だったか思い出せない。

「お会いできてうれしいわ。私はガブリエラ・ペトリーニ。こちらは付き添いのマリアよ」

「マリア・ゼルビーニ。どうぞよろしく」

欧州から、ノドカを訪ねてきた客人だった。二人が話したのは日本語ではなかった(ポルトガル語でもない)が、ノドカには不思議と理解できた。隣にいた静流にも。きっと妖怪の不思議な力なのだろう。

名乗り、挨拶するノドカと静流。同席しているのは火伏である。

給仕に各々が飲み物を注文し、会話は始まった。

「今日は時間を取ってくれてありがとう。あなたたちのことを聞いてから、居てもたってもいられなくて。仕事を放り出して、急いでこちらまで飛んできたの」

「飛んで……やっぱり飛べるん?」

日本語で発された静流の問い。それを聞いた老婦人は上品に笑った。

「そうね。自分で飛ぶこともできるけれど、飛行機の方がずっと楽だわ。イタリアから日本まで来るのは骨だもの」

「あー。そっか。火伏のおっちゃんも天狗やけど車乗ってるもんな」

「ええ。私たちは大別すると二種類いるわ。文明から隔絶した暮らしをしている者と、文明にどっぷりと浸かっている者と。私は後者というわけ。

あなたが武神の弟子になったという勇敢な坊や?」

「そうやで」

「道理で。面白い子だと思った」

「褒めてはるん?」

「もちろん」

そして、ガブリエラと名乗った老婦人はノドカに向き直る。

「それで、あの。私にどんなご用件でしょうか」

ノドカはドキドキしながら尋ねた。こんなご婦人方とは縁のない生活を送ってきたつもりでいたが。

「そうね。あなたが私の古くからの友人と最後に話をしたと聞いたから」

「友人?」

「ええ。マステマと」

「!」

ノドカにとってそれは予想できた内容だったが、友人、という言葉を使ったのは予想外だった。この老婦人はあの天使とどのような関係にあるのだろう。

答えは、すぐに与えられた。老婦人から。

「私の本当の名前は神の人ガブリエル。主のことばを伝える役目を持つ天使よ」

ノドカたちも名前だけは知っていた。聖書に記述のある大天使。キリスト教においては神のメッセンジャーとしての役目を背負うことが多く、聖母マリアのもとに現れてイエス・キリストの誕生を告げるのも彼女である。この受胎告知の場面は様々な絵画の題材とされるが、天使とはいえ女性のところに男が忍び込む様子を描くのは憚られたのであろう。中性的あるいは女性的な外見として描かれてきたため、現在の天使ガブリエルは女性としての姿を持っている。もっとも、そこまでの事情はノドカや静流には分からなかったが。

「私たちはここ千年の間ずっと、彼の行方を追っていたわ。まさかブラジルにいたとは思っていなかったけれど。こちらのコミュニティからの情報が届いて驚いたわ。あなたたちから聴取した内容のレポートも送られてきた。それを読んだら、居てもたってもいられなくなって。それで、こうして直接お話しようと思ってやってきたの」

「マステマを探して……それは、やはり殺すためですか?」

ノドカの問に、ガブリエルは頭を振った。悲しそうに。

「もちろんそれは選択肢のひとつではあった。けれど、説得できれば一番だと思っていたわ。ずっとね。何しろ、私たちには永遠の時間がある。死んでもいずれ蘇るの。相手の考えを改められなければ、同じことの繰り返しになる。私自身、昔死んだことがあるわ。聞いているかしら。天使たちの間で起きた内乱のことを」

「はい。大きな戦いだったと」

「そうね。それは私たちにとって、初めての本格的な戦争だった。過去の価値観が丸ごと無意味になってしまうような。それが直接の原因ではなかったとしても、マステマを変えてしまった大きな要因のひとつではあったでしょう。間違いなくね。彼が最も辛く苦しかった時期に私は、そばにいてあげられなかった。私だけじゃあない。多くの天使がいなくなった。誰にも余裕がなかった。黙示録を封印しなければならなかったから。破滅を望む天使たちの復活を封じ、二度と戦争が起きないようにするためにも」

「……」

「でも。どんなに世界が辛く、苦しいものであってもそれだけじゃあない。彼にはその事実を知っておいてほしかった。

ノドカ=藤森さん」

「はい」

「私たちを代表して、お詫びを申し上げるわ。あなたの身に起きたことは、本当に取り返しのつかないこと。かつての同胞マステマを止められなかった私たちの落ち度よ。

今後、助けが必要になった時は私たちを頼って。生まれてくるであろうネフィリムについても最大限の協力をします」

「あ……ありがとうございます」

「いいのよ。お礼なんて。

さあ。ノドカさん。話してくれないかしら。マステマについて。彼と接して、どう思ったのかを。私と、そしてこの娘に」

ノドカは、もう一人の客に視線を向けた。マリアといったか。付き添いの若い女性。

マリアはノドカに頷く。

「ノドカさん。どうか、私に父の話を聞かせてください」

「父……?」

「はい。我が父、マステマの」

「!」

この時ノドカはようやく、最初の既視感が何だったのかを理解した。マステマと似ているのだ。この女性は。

「私が生まれたのは千年以上前です。西ヨーロッパの小さな村。今でいう、スペインとフランスの境のあたりで、普通の人間として誕生したのです。両親の惜しみない愛を注がれ、育ちました。けれどそれも十歳の時に終わりました。私が、父の力を受け継いでいたからです。そう。天使の力を。

それが人前で発現しました。村は大混乱になった。父や父の従者は仕事のために不在でした。そうして、群衆が家に押し寄せてきたのです。私を庇った母は死に、私も死にました。そのあと村で何が起きたかは、私は知りません。けれど、次に気が付いたとき。私は、滅んで何十年も経った村の跡にいました」

「「―――!!」」

聞いていたノドカと静流は、それで何が起きたかを悟った。マステマの子は天使としての力を受け継いだ。それだけではなかった。天使としての———妖怪としての特性のすべてを受け継いでいたのだ。人間が存在を信じている限り死んでもいつか蘇る、という。

何も知らない十歳の少女が千年前の世界に身一つで放り出される。それがどのような事態を引き起こすか、二人にも想像できた。

「私はこの力を頼りに生き延びました。生きるために盗みも殺しもした。十数年もそうして旅をし、流れ流れた先。地中海に面した港町で、とある妖怪デーモンと出会いました。そこで初めて、私は世界の仕組みを知ったのです。私は自分が人間ではない者との間に生まれた子だと理解した。その時、父を憎悪することを覚えました。彼は私の復活を待たなかったからです。見捨てられたと思った。もっとも、人間との混血が死より蘇ることはめったにないと知ったのはそれからずっと後のことですが。

そこから何十年か経って、私は天使たちに拾われました。彼らの協力を得て、私は父の真の名を探り当てた。けれどそのころにはもう、父マステマはお尋ね者となって姿を消していたのです。次に彼の消息を知ったのは先日。そう。ここのコミュニティと戦って死んだという知らせを受け取った。だから今日、私はここに来たのです」

「……」

ノドカは、静流と顔を見合わせた。あまりに壮絶な話に、言葉を失っていたのである。

随分と長い間を開け、ノドカは質問を絞り出した。

「マステマと―——お父さんと会ったら、どうするつもりだったんですか?」

「最初は殺すつもりでした。けれど彼が何をするつもりか知ってからは考えを改めた。ぶん殴ってでも止めるつもりでした。私が死んだせいで世界を滅ぼすなんて馬鹿はやめろ、と。私は、こうして生きているんですから。

父がまた、この地上に蘇ったら……その時、考えを改めていなかったら。その時こそぶん殴って止めます。その後抱きしめてあげるんです。心配かけてごめんなさい。私のせいでそこまで絶望させてしまってごめんなさい。と」

「そう……ですか」

「ええ。ですから安心してください。百年後も、彼が世界を滅ぼすことはない。私がさせません」

「はい」

「さあ。父がどうなったか、教えてください。彼がどう生きてきて、何を為し、何を話したのかを」

ノドカはマリアへと頷くと、話を始めた。事の起こり。自分がどうして日本に来ることになったのかの、始まりから。

ふたりの天使は、それを静かに聞いていた。

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