第86話 世界の物語
診察を終えた
「お疲れ様です」
休憩室には先客がいた。四十代の男性に見える。今夜はけが人でてんてこ舞いだったから、その関係だろう。相手の名前を思い出そうとする。
「ええとあなたは」
「山中。山中竜太郎です。十月先生ですね。うちの雛子ちゃんがお世話になりました」
それで得心がいった。先ほど診て、一泊二日の入院が決まった幽霊の身内だろう。そういえば最近噂になっている、人間の妖怪ハンターが山中といった気がする。彼か。
相手に会釈し、十月医師は自販機にコインを入れる。コーヒーを選ぶ。出てきたものを取り出す。物価が上がると値段が反映されるのが謎である。
缶を開け、口を付ける。それを飲み込んだ時点で、竜太郎が質問を投げかける。
「やっぱり大変ですか。妖怪を診るのは」
「まあ慣れました。あなたは噂のハンター?」
「たぶんそのハンターです。あなたと同じ人間ですよ」
「ということは、今我々はこの病院の中で二人だけの同族ということになりますね」
そこで再びコーヒーを飲む。頭がすっきりする。糖分の補給もありがたい。
「……十月先生。たくさんの妖怪を診てきたあなたに尋ねたいことがあります」
「なんでしょうか?山中さん」
「妖怪とは、何なんですか」
核心を突く質問。それに、十月は黙り込んだ。
「彼らが人間の想いから生まれるということは知っています。最初は自分の推測として。そして、コミュニティに関わるようになってからは何千年もの昔にはすでに妖怪たちの間で事実として定着していた説明として。
ですが、これはどうやれば妖怪が生まれてくるかの説明にしかなっていない。そもそも、物理法則すら揺るがす人間の想いとは何なんでしょうか」
「……分からない。そうとしか言いようがありません。
山中さん。私も同じ疑問を持ったことがあります。そのために先祖伝来の資料をひっくり返しもしました。たくさんの妖怪の診療記録です。驚くようなものもたくさんありましたが、しかしその疑問に答えてくれるものはありませんでした」
「医学的には、彼らは生物なんですか」
「どうなんでしょうね。個人差が彼らは極めて大きいんです。例えば今日担ぎ込まれてきただけでも、フェルトを縫い付けて中に綿を詰め込んだり、消毒してから傷口を縫ったり、欠けた金具の代替品をねじ止めしたりしました。全部が傷への治療行為です。彼らの肉体構造には共通性が全くない。しかも非常におおざっぱだ。昔の話ですが、千切れた腕の断面を縫い付けたら骨まで癒合し、完治したことがあります。それくらい雑でも問題ないのです」
「おおざっぱ、というのが共通性とも取れますね。あるいは共通性がないのが共通性なのかも」
「それは確かに」
「あとは……彼らの共通点は"機械に映らない"、"人間"がその発生に関わっている。という点ですか」
「そうですね。しかし彼らは機械を使いますし、機械を破壊することもできる」
「ええ。人間と同様に」
「何がいいたいのでしょうか」
「そうですね。僕も素人なので話半分に聞いて欲しいんですが。例えば……地球上の生命は、もとは単一の起源をもちます。最初の生命から枝分かれし、様々な種が進化の過程で生まれた。一番最初を除いたすべての種は、一つ前の段階の種が存在します。―――これも厳密にいえば変な言い方であることは分かってるんですが、ひとまず置いておきます。そして、この観点で言えば妖怪も例外ではない。人間の存在が先にあって、妖怪は生まれてきた」
「……妖怪が人間の進化した種だと?」
「そこまではなんとも。そもそも、彼らは人間の想いがなければ生まれることもできない脆弱な種です。個体レベルで見れば驚異的な能力を持ってはいますが」
「ふむ。続けてください」
「はい。
僕は、妖怪は人間の亜種だと考えています。それも、これまでの進化や特殊化とは違う方向での。あまりにユニークすぎる形態であるが故に、それに気が付かれないだけで。
では、なぜそのようなユニークな事態が起きたのでしょう?」
「人間だけが複雑で抽象的な思考を獲得したから……ですか」
だんだんと、十月医師も相手が言いたいことが分かってきた。
「ええ。現生人類だけが神を持ちます。それ以前の旧人類はそこまでに至らなかった。だから、今の人類が生まれた段階で、それまでの進化の過程では利用できなかった何らかのパワーを、人類は利用できるようになった。人類以前の生命は、今の我々が知る物理法則下のエネルギーしか利用できなかった。しかし現生人類は異なります。その巨大な想いは物理法則を超えた何かを使って繁殖することを可能にしたのです。そうして生まれたのが妖怪だ。
―――この考えを推し進めれば、一つの推論ができます。人間だけが神を持ち、神を持った結果獲得したものがあります」
「文明……ですか」
「はい。その通り。文明こそ、人類と他の生命を分ける重要なファクターです。文明の獲得と妖怪の誕生はリンクしている。ですから、ここで前提をちょっとひっくり返してみましょう。
十月さん。僕はこう思っているんです。生命の繁殖に、想いは必須事項なのだと。人間に限らず。そうでなければ理屈が合わないんですよ。妖怪は機械に映らない一方で、犬や猫、鳥なんかの動物からは知覚されます。もちろん不可視化の妖力などを考慮に入れない場合ですがね。人間を含む生命体とは結局のところ、たんぱく質が複雑に結合してできた自己増殖型ロボットと変わらない。にもかかわらず、生命体は妖怪を知覚できる。この差は何から生まれているか考えると、ただひとつ。妖怪を知覚できることが生命の条件なんです」
「凄まじい推論だ。正しいかどうか、私には判断が付きません」
「ですが、こう考えれば辻褄は合うんです。生命の繁殖に必要なのは、物理法則ではない。子孫を残したいという強い想いです。最初の生命が発祥して以降、それはずっと地球を支配し続けた法則だった。生命には厳密な構造など必要ではなかった。けれど、やがてそれは別のものと結びつきます。地球の環境は複雑で、自己増殖の出来る化学合成物質を生み出した。科学において原初の生命と定義される存在です。それと、"想い"から成り立つ古い生命はやがて結びついた。まるでミトコンドリアが真核細胞に取り込まれたことによって新たな生命体が誕生したように。物理法則下において、それは明らかに有利な進化だった。効率的な繁殖方法を獲得したからです。物理法則に則った、自己複製からなる生殖を。これはあまりにも強力すぎて、生命の繁殖のスタンダードになった。あらゆる種が、物理法則という新たな環境を利用して多様な生殖をするようになった。それらに応じて、過去の地球の形も定まった。古生物学的、地質学的に物理法則下で今の生命が誕生するためのメカニズムが完成し、物理的に説明のつく世界になったんです」
「……なるほど」
十月はコーヒーを一口すると考え込む。この山中という人物の語る内容は検討に値すると思われた。実に興味深い。
「この前提に立てば、すべての生命は"想い"を持っています。繁殖する際、化学的メカニズムが働きますがそれと同様に、"子孫を残したい"という想いも働いていたのでしょう。そうして何億年もの間地球上の生命は繁栄を謳歌していた。進化を続け、やがて次の段階にたどり着いた」
「人類、ですか」
「ええ。人類も基本的にはそれ以前の生命と何ら変わらないはずです。ただひとつ。複雑で抽象的な概念を理解することのできる脳を持ち、それを共有できるだけのコミュニケーション能力を持っていたことを除いて。そうして文化と文明が生み出された。それは生命が元来持っている"子孫を残したい"という想いを超えて、より強力で複雑な想いを皆で共有させ増幅することが可能となった。それこそが妖怪を生み出すパワーの根源です。文明は、原初の生命をこの世界に復活させたんですよ。物理法則と結びついていない、より原始的で強力な生命形態を」
「……となれば、妖怪たちの立ち位置も定まりますね。彼らも、旧来の意味での生殖の結果生まれた"人間"だ。しかし彼らは不安定です。ほとんどが一代生物だ。その原因は、すでに淘汰された繁殖方法によって生まれたこと。そして、我々の思考が複雑になりすぎ、彼らの構造に"子孫を残したい"以外の多様で余計な想いが混入されるようになったから。ということですか」
「恐らくは。
……もちろん、ここまでくると僕の妄想と笑われても仕方ないですが」
「いえ。仮説としてはとても面白いものでした。非常に興味深い。
ただ、もったいないと思うのはその仮説を証明する手段がないことです」
「ええ。同感です。ですが何らかの手がかりはあると思います。例えば、長く生きた妖怪は人間との間に子孫を残せます。今日、ここに連れてこられた少女のように」
「なるほど。生物学的に同種であるから交配ができる、と」
「はい。そして物理法則に則った安定した生殖をする人間の方が形質を残す能力に優れている。だから妖怪の能力は遺伝しづらいんです」
「面白い。調べてみる価値はありそうだ。もし事実が判明しても、発表できないのは残念ですがね」
「確かに。ちょっとばかりもったいない気はします」
そして、竜太郎は立ち上がった。
「もう帰ります。そろそろ始発も動くでしょう。今日は話に付き合ってくれて、ありがとうございました。それと、雛子ちゃんを診てくれたことについても」
「こちらこそ。それでは」
立ち去っていく竜太郎。その背を、十月医師は呼び止める。
「山中さん」
「何でしょう?」
「今回の話、知り合いにしてもかまいませんかね。あなたが話していたということも含めて。
ああ、興味を持ちそうな友人がいるんですよ」
「そういうことでしたら構いません。では」
そして、今度こそ竜太郎は去っていった。
それを見送った十月医師も休憩室へ向かう。明日は―――もう今日だが、日曜である。表の人間用の医院は休みだが、それでも豪雨で急患が運び込まれるかもしれない。体力を温存する必要があった。
十月医師は、廊下の向こうに姿を消した。
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